小説|古校舎
久しぶりに戻ってきた故郷というのはなんだか寂れているように見えた。小学生の頃に走り回っていた道も、なんだか狭く感じる。僕の身体が大きくなったからなのかもしれないけれど、それ以上にこの町が以前に比べて小さく萎んでしまっているからなのかもしれなかった。年々減っていく人口に苦しみ、世の中で起きている少子化の問題も合わさってか、小学校は次々と無くなっていった。そして来年度から、すべての地区の学校が一つの学校に集まる。僕の祖父の代からある小学校は耐震面での課題があったため、取り壊されることになった。そして新しくすべての小学生が収容できるような学校を作るらしい。田舎町らしいというか、この小学校を後々老人施設として使おうとしているらしい。だから手すりを取り付けるのはもちろんのこと、エレベーターもつくそうだ。
そして今週末、卒業生にだけ特別に自由に出入りする権利が与えられた。昔の思い出をたくさん拾っていってほしいと考えているらしい。取り壊してからではもう薄れていく思い出でしかない小学生の時の記憶を、このような形で明確にしておいてほしいというのだ。僕も一卒業生として参加した。
「あれ、来てたんだ」
玄関を抜けて突き当たったところにある理科室。最初に入った教室に、何とも懐かしい人がいた。当時クラスメイトで家も近く、よく遊んでいた少女だ。今彼女のことを少女だなんて呼んだら怒るだろうけど。
「そっちこそ。学校はまだ夏休みなん?」
「そうだよー。せっかくの機会だからって、お母さんに教えてもらったんだ」
彼女は、窓際に飾られていた標本たちに丁寧に手を重ねていく。可愛らしい兎から、今にも飛び立ちそうな鷹。小さな牙を向ける猪の子供、そしてカモノハシ。なぜこの並びにこの動物がいるのかはわからないけれど、動物のことなどまったく知らない当時の僕たちは興奮したものだった。死んでいるものがこうやって形を残したまま、生きたようにその場にある。この目が飛び出そうな不思議に僕たちは目を輝かせた。
「……この学校、無くなっちゃうんだね」
ポツリ、と彼女がつぶやいた。
「……そうだね」
自分たちの母校が、大した年齢にならずに壊されてしまうというのは言葉にならないもどかしさがあるのだった。せめて頭が禿はじめた爺の時に壊されたかったものだ。そうすれば昔を懐かしみながら孫あたりに話をすることができるだろうに。
けれども、その時にもこのもどかしさを感じる世代がいるのだ。そう考えると、どうにもやるせない気持ちになる。結局は誰かが感じなくてはいけない事だったのだ。そういう、自分たちの力ではどうすることのできないものの前に立った時、僕は挑むことも忘れてただその場に立ち尽くしてしまうのだった。
彼女はかものはしの脚に触れ、小さく口を開いた。
「カモノハシってさ、哺乳類なんだよ。水の中でも生活してるけど」
「それくらい知ってるよ。クジラだってイルカだって、海の中で生活してるけど哺乳類だ。どうにも不思議だけどね」
そんな僕の言葉に、彼女は口をとがらせる。
「ぶーぶー。女の子がせっかく豆知識を披露してるのにそうやって知ったような口きいてー。生意気なのは変わってないなー」
「勝手に言ってりゃいいさ。そっちこそ、意見を押し付けようとするところは、まったく変わってねぇもんなー」
「なによー?」
「なんだー?」
二人でにらみ合う。お互いの目の中に映る自分自身を睨めっこをする。そして、同時に笑い出すのだった。なにかがおかしくて、でもなんだかわからなくて、何者かに取りつかれたかのように笑う。理科室の前を通った数人が変な顔でこちらを見てきたけれど、そんなことも気にならなかった。
やがて二人とも笑い疲れ落ち着いてきたころ、僕たちは一緒に校内を回ることにした。せっかく来たのだ。思い出を多く思い出せるのならそれに越したころはない。
ところでさー、と彼女が話を始める。
「どうして人間だけこんなに大きくなったんだろうね」
「……それは身長とかの話?」
「違うよ。もっと社会的な、この地球を支配するようになった理由だよ。とりあえず動物ってことになってる人間だけど、同じ哺乳類のカモノハシとかクジラとかイルカとか、それらはどれも人間みたいにひろーく、つよーく生きてきてないじゃない?」
「うーん……」
彼女の言っていることは、なぜ人間がここまで特別なのかということなのだろうか。でもその比較対象としてただの動物を挙げるのはよくわからなかった。サルとは違うのかとか、そういう視点から人間の特異性について考えたいのかと思ったけれど、そうでもなさそうだ。
図書館を通り越し、技術室を通り越し、会議室も通り越した。埃っぽい、乾燥した匂いが鼻をかすめる。この使い古された匂いのことが、僕はたまらなく好きだった。いつまでも吸っていたらくしゃみが出てしまいそうだけれど、居心地は良かった。
「たぶんさ」
「ん?」
「僕たち人間っていうのは、特別な力があったわけじゃないと思うんだ。何か能力があるから地球を支配してるんじゃないと思う。ただ単純に、人間があまりにも強欲だったからじゃないからかなぁ。そしてその時、たまたま地球を支配したいと思う動物がほかにいなかった。だから人間は今みたいに大きな社会を作って、ほかの生き物の上に立とうとしてる。だけど結局のところ感情に振り回されてきてるから、弱いところは弱いけれど」
「でもそしたら、ほかの動物が人間よりも先に地球を支配したいって思ってたら、その動物が今の地球を支配してたかもしれないってこと?」
「まぁ、そうなるね。その時は、今のような動物っぽい姿をしてないかもしれないけど」
「なんだか納得いかないなー」
不満そうに口をとがらせる。
そして、いつの間にか四年生の教室にたどり着いた。僕たちはふらりと教室の中をのぞく。
すべてのものがミニチュアのようだった。どれも小さくて、可愛らしかった。僕たちはまず使うことはできないだろう。けれど、昔はこれでも大きいと感じることがあったのだから不思議だ。成長するということは、とても奇妙な感覚が伴うものだった。大きくなれば、いろんなことを経験していく。そして、昔を懐かしんでは甘い記憶につかるのだ。そういうことができるのは、やはりこうやってシステムの頂点にいるからなのだろうか。
「でもさ、私たちがこうやって生きてるのは全部決められてることなのかな」
「それは……どうだろうね」
「だってさ、もしかしたら人間以外の動物が世界を支配してたかもしれない。この可能性は、考えられる以上まったく存在しなかったわけじゃないんでしょう? 可能性として、存在はしてる。そうすると、今私たちがこうやっているのは偶然な気がするの。でも、現実は一つしかないから、可能性は可能性でしかない。動物たちの力関係が違うという可能性も、アニメとか漫画の登場人物、たとえば戦場ヶ原ひたぎとかが世界に現れるという可能性も、すべて同じ可能性だけど、実現はしないじゃない。だったら、私たちがこうやっているのは必然なんじゃないかな。でもさ、偶然と必然は同時には成立しないでしょ? なんだろうね……」
彼女の頭の中ではどんなことが起きているのだろう。その比喩の中にアニメのものが出てきたのは少しばかり意外だったけれど、それでも彼女の頭の中はとつもなく複雑になっていそうだった。
これは、僕が何か言っていいようなものなのだろうか。
「……僕が言うようなことじゃないかもしれないけど、それはどちらでもないんじゃないかな。偶然とか必然とか考えるからわからなくなるんだと思う。考えるな、とは言わないけど、分からないものはわからないし、無理やりにでもわかろうと考え続けても多分泥沼にはまるだけだと思うよ。僕はどちらかというと、その真ん中。どんな可能性も等しく存在して、どれも現実になりうる。これはもう、決まってること、必然だ。けれど、どれが現実になるかまでは決まってない。そういう意味では、偶然なんだと思う。だけど、こういうのってたぶん答えはない。考える人の分だけ答えはあるんだと思う。だから、あんまり無理やり考えないで、分かる範囲で、少しずつ考えたらどうかな」
僕自身、こんなにも言葉が出てくるとは思わなかったけれど、それでも彼女に伝えたいことは伝えられてよかった。彼女も、また口をとがらせるかと思いきや何やら神妙な面持ちで教室の向こう側、窓の先を見ている。
そうだね、と彼女はつぶやいた。
「ちょーっと焦りすぎてたのかなー。でも、話が聞けて良かった。ありがと」
「お礼なんていらないよ。それより、早いところ回らないと校舎から追い出されっちゃう」
「いけない! それじゃ、いこ」
「うん」
僕たちは、橙色に染まっていく小さな教室を後にした。