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小説|中心時計

 時計の針は正確に時間を刻んでいる。それは変わることなく一定に、気がおかしくなるほど長い間、針を動かし続けた。私がもし時計だったのだとしたら、少し経ったところで自らの針を折って仕事を放棄するのだろう。先が見えない真っ暗闇の中で、これまでと同じようにやり続けるというのは、私には耐えられない事だった。
 目の前に置かれた懐中時計を見つめる。どこかのおとぎ話に出てくるような、優しい時計だった。それは私に向き合い、ただひたすら、今の時間を示している。
「ずっとそんなことして、飽きないの?」
 私は時計に問いかけた。もちろん返事が返ってくることを期待しているわけではない。ただ、自分しかいないこの部屋の中で、一つでも話の相手になってくれるものがないかと思ったまでだ。その返答を、頭の中で補完する。
「飽きるはずがない。これは僕の仕事なのだから」
 私の頭の中の言葉を、目の前の時計が喋った。
「あら。あなた、喋れたの?」
 私は座り直し、時計の位置を正してやる。
「もちろん。僕はきみ自身だからね。きみの中にある物だ。きみの自我とは全く関係がないけれど」
「どういうこと?」
「その言葉の通りさ。きみの身体の中にある物だから、きみ自身と言うことができる。けれど、今考え喋っているきみとは全く違うものだよ、ということさ」
 ますますわからない。私は口を窄めて彼に反抗する。そんな私を見て、彼は大きく笑った。カチカチと文字盤の裏で歯車が鳴る。
「まぁ、分からないのは当然だと思うよ。だって、僕はきみたちの時間を司っているんだから。きみたちは時間を視ることができないのだから、僕たちを正確に認識することはまず不可能だよ。心配することはない。
 さて。きみは、人によって流れる時間が違うということを知っているかい?」
 彼はそういって表面のガラスを光らせる。私は眩しくなって目を逸らしてしまうが、彼はそれでも私のことをしっかりと見つめてきた。今度は恥ずかしくなって目をそらしてしまう。
 彼の言う、時間の違いとはなんだろう。
「それは時間というものが平等ではないということ?」
 彼のガラスが曇った。
「いや、そういうことじゃないんだ。平等かどうかは、ここでは問題にする必要がない。というよりも、意味がないんだ。僕が言った違いというのは、個体によって一度に経験することのできる時間の量がバラバラだということだよ。顔が皆違うということと同じように、それぞれが持っている時間の速さというものも違うんだ。それによってきみたちは時間というものを消費して、経験をする。ほとんどわからないくらいの差だけれどね」
 そうは言うものの、私たちに個別の時間があるということがまず信じられなかった。だって、私たちは決められた時間の中で一日を過ごしている。季節によって違うものの、ある程度決められた時間に太陽が昇り、落ちていく。昼と夜というものは時間によって決まり、私たちの生活には時間というものを基準として様々な活動がなされているのだった。だからもし、ここで時間の流れ方が違うのだとしたら、そしたら私たちの行動は合わなくなってしまう。すれ違ってしまうのではないか。
 一つ言っておくけれど、と彼は付け加える。
「きみたちが普段考えている時間というものは、その通り基準でしかないんだよ。世界が経験している、世界の速さだ。だからそれがきみたちに合うことはないだろうね。もちろんそれらを基準にして君たちは生きているのだろうけれど。
 いいかい。僕が言う時間というのは、個々の中にあるエネルギーのようなものだ。それはそれぞれの人間によって持っている量が違うし、一度に使える量も違ってくる。この『一度』というのは世界の時間が基準となっているよ。だから君たちの中には才能を持つと言われている人間がいる。とても要領のいい人間だ。彼らは最初からそれらをできたわけじゃない。世界の時間よりも、人間の平均的な時間よりも、はるかに速い時間を持っていたんだ。だから多くのことを得ることができたし、吸収することもできた。だからこそ彼らはなんでもできる。逆に、要領が悪いと言われている人間はこの時間がほかの人間よりも遅いのかもしれないよ。これはいくらでも変えることができるけれど、時間を変える気がない人間にはまったくもって無意味な知識だ」
 金色に光る懐中時計が私の心に問いかけてくる。彼は私の中に眠る時間だった。彼が刻むのは、私の中にある時間。彼は速くなることもできれば、遅くなることもできる。それはすべて私が決めることだった。
 私は、彼を持ち上げる。人差し指に鎖を巻きつけた。横側の突起を、薬指で弄る。
 ここを押してしまえば、彼は止まるだろう。
 そうしたら、私の中の時間も止まってしまうのだろうか。
「きみがどんなことをしても僕は構わないけれど、自分の中の時間を止めたって世界の時間は動き続けるんだ。それだけは覚えておいたほうがいい」
 彼の言葉も、最後まで聞き取ることができなかった。
 私の心からは、歯車が軋む音しか聞こえない。
 魂を抜き取られたようにすべてが遠ざかっていった。周りを流れる漠然とした時間に、私はただ、流されるだけだった。

【情報】
2012.10.22 20:52 作成
2023.12.10 08:27 修正

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