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小説|お絵描き少女

 海の奥底で、時計の音が静かに音を立てていた。平面のキャンパスには、計り知れない深さの海がある。手を伸ばせば沈んでしまいそうな、奥行きがあった。私はその矛盾した世界を見て、足を止めた。
 いつも空っぽの店で、誰かの個展が開かれているようだった。扉の近くに置かれた案内板には大きく名前が書いてあったが、あいにく私は美術に詳しくはない。確かに見はするが、作者にこだわるようなことはしなかった。名前だけを連ねて知識を披露するようなことはしない。ただ、そこにある作品が何を伝えようとしているのかを、静かに読み取ろうとするだけだった。
 ガラスの向こうには、この海の絵以外にもいろんな作品が飾られているようだった。念のためにと掲示されたポスターを確認してみる。入場料は、私たち中学生はかからないらしい。よかった、と財布が入った鞄をさすりながら私は扉を開いた。
 ちりん、と気の抜けた音がした。だだっ広い部屋には、壁一面に絵が展示されている。部屋の中にもイーゼルがいくつかおかれ、その上にもたくさんの作品が飾られていた。どこまでも広がる緑色の草原の絵。遥か彼方まで続く地平線の絵。どこまでも高く伸びる空の絵。どの絵にも独特の、世界観や空気感があった。写真のような精巧さはお世辞にもあるとは言えないけれど、どこかの景色を曖昧な記憶を頼りに描いた、というような印象を受けた。その解釈があっているかどうかはわからなかったけれど。
 そしてどの絵にも、時計があるのだった。ウィンドウにあった海の絵にも中心に懐中時計が沈められていた。草原の岩の上にも、融けたようなぐずぐずの時計が広がっている。空には太陽の代わりに光り輝く数字板があった。どれもその世界を支える軸のように、隠れながらも、静かに存在を主張していた。
「きみは、美術が好きなのかい?」
 唐突に、声がかけられた。驚いて後ろを振り向いてみれば、一人の男の人が立っている。青いデニムパンツに白いシャツ。パーマがかかった髪を短く切り、メタルフレームの薄い眼鏡をかけている。どこにでもいるような、平凡な顔つきをしていた。
「いや、えっと……」
 私が言い淀んでいると、彼は言葉を加える。
「あぁ、ごめん。僕は、この個展を開いているしがない絵描きだよ。きみが初めてのお客さんだったんだ。親にお金を借りて無理に開いている個展だけれど、誰も来てくれなかったんじゃあ顔向けできないからね。きみみたいな女の子が見るような絵じゃないかもしれないけれど、良ければゆっくりしていってくれるかな?」
 そういって彼は、奥の部屋へと姿を消してしまった。
 取り残された私は大小さまざまな大きさの絵に囲まれてただ立ち尽くすのみ。どうすることもできずに、時間だけが過ぎて行った。
 程なくして、耳の奥に微かに音が響いた。なにかを刻む、硬い音。こつり、こつり、と静かに鳴っている。
 何だろうか。
 私は部屋中を見回してみるけれど、その音の元となるようなものはなかった。聞いたことがある音だった。それは、静かな部屋に響く時計の音のようだった。
 そう、時計だ。
 私は草原の絵の前に立つ。
 その中に存在する融けた時計の針が、かすかに動いていた。
 他の絵も見てみる。空の向こうにある光の時計も、海に沈む懐中時計も、静かに、正確に、時を刻んでいた。
「……どういうこと?」
 私の呟きは、何かに飲み込まれて消えてしまう。
 部屋の中心に、これまでなかった絵が現れた。真っ白な、大きなキャンバス。私の背丈ほどはあるだろう。先程までこんなものが置かれているだなんて、気づきもしなかった。
 恐る恐る近づいてみる。
 そこには何も描いてはいなかったが、とても、気持ちが悪かった。一つの色が大きくその場にあるというのは、何か異質じみていて気が狂いそうになる。だが、目をそらしたいのに、まるで釘で刺されたかのように、視線が動かないのだった。絵とにらめっこをするように、見つめあう。
「あ——」
 なにかに押されたような気がした。
 とっさに出した右手が、キャンバスの表面に触れる。
 引き込まれた。
 とんでもない力で、私は真っ白の中に連れて行かれる。逃れようとしても、身体が上手く動かない。持っていた鞄も離して、なす術もなく飲みこまれていった。

     ……

 そこは、ただ真っ白なだけではなかった。いろいろな色が混ざっている。白なのに、その壁の向こうには得体のしれない様々な色が蠢いているのだった。一つの色として特定することができないような、異質な色。流動するその景色に、私の意識は握りつぶされそうだった。
 それだけではない。壁一面に、様々な時計がかかっているのだ。腕時計のような小さにものから、普通に売っているような丸い時計、高級そうな彫刻の時計など、種々の時計がかかっているのだった。それぞれが皆バラバラに時を刻む。秒針が重なることなく、延々と耳に刻み込まれた。
「おや、ここまで来たのかい?」
 向こうのほうに、一人の男が座っている。彼は未完成のキャンバスを前に、絵具を重ねていた。
 先程の男性だった。個展を開いているという、清潔そうな男の人。彼は事務室のようなところへと入っていったはずだ。真っ白なキャンバスの中にいるはずなどない。
「いやぁ、まいったな。そうしたら、きみも魂を削らなくちゃいけない」
 彼はそういって、どこからともなくイーゼルとキャンバスを取り出す。そして椅子を用意すると、私を呼んだ。
「おいで。少しお話をしようか」
 私は何が起こっているのかわからず少しでも理解しようと頭を回転させていたが、どうにもだめだった。彼の言うとおりにする。
 彼が書いている絵は、とても奇妙なものだった。宇宙のように見えなくはないのだけれど、本来星が輝くであろうその場所には、とても小さな時計があるのだった。それぞれが時を計り動いている。あの時と同じだ。
「ここはね、言ってみれば僕の頭の中なんだ。心の中と言ってもいい。どちらにせよ、現実には存在しないところなんだ。だからこそ、なんでもできるんだけどね。どうして存在するのかはわからないし、どうやって君がここに来たのかはわからないけれど、絵を描くときはいつも、僕は頭の中で描いているんだ。そしてここで完成した絵は、いつの間にか部屋の中にある。とても不思議な現象だよ。僕もほとんどわかっていないけれど、やらなくてはいけないということだけは知っている。ここにある時計を、すべて現実世界に返さなくちゃいけないんだ」
 彼は筆を動かしながら、丁寧に語る。けれど、それは私の耳を素通りしていくだけだった。
「どうして時計がバラバラに動いているんですか?」
 私の問いに、彼は遠くの景色を見るように目を細める。
「どうして、か。僕も詳しくは知らないんだけれどね、それぞれの時計がそれぞれの世界の時間を表しているみたいなんだ。だから秒針が動く速さも、その時計によって違う。もともとある場所が違うからね。そしてこの何もない世界に迷い込んできてしまった時計たちを、僕は戻さなくちゃいけない。ただ描くだけじゃダメなんだ。その時計がある世界を再現してあげなくちゃいけない」
「辛くはないんですか?」
 素朴な疑問も、彼の前では大した意味を持たないのだろう。悲しそうに肩を竦めると、彼はこういった。
「たしかに、つらいと感じたことはあるよ。やめたいと思ったことも何度もある。けれど、やめることはできないんだ。もしかしたらできるのかもしれないけど、僕はそのあとどうなるのかを知らない。そんな危ないことをするくらいだったら、僕は大人しくここで絵を描いていようかと思ってね。こんなんだけど、一応は絵描きを名乗っている身だ。なにかを描かなくちゃ仕事にならないだろう?」
 そういって彼は絵を一つ完成させた。いろんな時計が入り乱れる、遠い宇宙の絵だった。彼はそれを床に置くと、また新たな白いキャンバスを取り出す。床に置かれた絵はいつの間にかなくなっていた。どこに消えてしまったのだろう。彼の言葉の通りなら、現実の世界へと行ってしまったのだろうな。
 彼の言葉は、どうにも納得がいかなかった。できるかもしれないことをしないだなんて、彼はなんて愚かな人間なのだろう。わかることだけをこなしていたって、何も状況は変わらないではないか。彼はここから抜け出そうと思ってはいないのだろうか。
 そのことを聞いてみるが、彼は不思議そうに首を傾げるだけだった。
「僕たちはさっき現実世界で会っただろう? 別にこの特殊な場所に永遠にい続けなくちゃいけない訳じゃないんだ。普通に現実にいることもできる。だけれど、僕というものは半永久的にこの絵を描くことに付き纏われるんだと思うよ。この時間を刻む時計に、ずっと追いかけまわされるんだと思う」
 頼りなく、彼は笑った。
 その表情に、私はどうすることもできずに俯いてしまう。彼の顔を見るのが恥ずかしくて、正面から見ることができなかった。
「……私も手伝います」
 床に置いてあった筆とパレットを取り、色をキャンバスに広げる。自分の頭の中に広がる無限の世界が、その中に描かれていった。
 私は神様になれる。
 とても小さな、とても優しい、良心的な神様だ。
 丁寧に世界を作り、迷える時を元の場所へと連れて行く。彼らは絵に描かれることによって満足げに微笑むのだった。
 彼は黙々と絵を描いていた。
 彼はできないことをやろうとしていなかったのではない。できることをただひたすらやっていただけなのだった。それに気づけなかった自分がとても恥ずかしい。それと同時に、自分も頑張ろうと思った。見えない未来の時間だって、いずれは現在となり、戻れない過去となる。ならば、目の前にあるできることだけをただひたすらやるしか、方法はないのだった。
 目の前に広がる世界は、いくらでも変えることができる。そう分かっただけでも、私は幸せだった。

【情報】
2012.10.18 21:45 作成
2023.12.09 08:25 修正

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