小説|窓の向こう側
「ほら、窓を開ければ気分も爽快だよ」
私はそう言いながら部屋に取り付けられた唯一の窓を開け放った。カーテンをさっと横にまとめ、中心のカギを手前に引く。古いからなのか、少し力が必要だったけれど、半分動いてしまえばもうするりと外れた。ガラスの部分に手の平を置き、そのまま横へとスライドさせる。その途端、外から気持ちのいい夏の空気が入ってきた。太陽の光も受け付けない、まっさらな空気。私は胸いっぱいにそれを吸って、後ろを向いた。
しかし彼はベッドの上で顔を真っ赤にしながら唸っている。
「そんなことしなくていいって。暑いから。クーラーつければいいじゃん、くー、らー」
「エアコンなんてダメだよ。そんなことだからこうやって夏季課外を休まなくちゃいけなくなったんでしょう? おとなしく常温でちゃんと身体を動かしなさいな。もし、かなーり暑いんだったら、扇風機で我慢しなさい」
「こんなねっとりした空気の中で羽毛布団までかぶらなきゃいけないなんて……。お前は僕をゆでだこにするつもりかい?」
「ゆでだこよりは肉まんかな」
「そのほうが怖いよ」
少し会話しただけでも彼は咳をしてしまう。
ようは、ただの夏風邪だった。夏休みになったからと言って18度設定のエアコンをつけた部屋に籠っていたらこんなことになってしまったらしい。初日からこんなことをやらかして、そして仮病を使ってサボるつもりだった夏季課外も本当の風邪で休まなくてはいけなくなった。その様子を母親を通して聞いた私は、隣の彼の家に図々しくも上り込み、こうやって看病をしている。またいつものようにつまみ出されるかと思いきや、彼は黙って私の言うことを聞いていた。むしろ意欲的に風邪を回復させようと思っているらしい。私もやりがいがあるけれど、その理由も気になる。彼のことだから、夏休みを風邪だけで終わらせたくないのだろう。だから身体を直して堂々とサボろうとしているのかもしれない。
カラカラに干上がった手拭いを水に浸し、ちょうどいいところまで絞る。額の大きさに合うように織り込み、彼の頭に乗せた。やはり冷たいものは気持ちいようで、苦しそうな顔から少しだけ翳りが消える。私も手を少し湿らせて、首回りに塗った。氷水はやはり冷たくて夏にはちょうどいい。
もうそろそろ昼だというところで、彼が唐突に口を開いた。
「あのさ、」
「なに?」
「もし世界が二つあるのだとしたら、お前はどうする?」
「……変な夢でも見たの?」
「あー、うん。そうなんだ。さっき見た夢でそういうことがあって……」
「そう。でも世界が二つって、変な話だよね。なんか、地球が二つあるみたいな感じ」
「そう、でもちょっと違う。ふたつの世界はあるんだけど、隣接はしてないんだ。何かのもので遮られてて、たまにそれが開かれた時に、互いに干渉しあう。たとえば窓。これが、こっちの世界で窓を開けたのと向こうの世界で窓を開けたのが同時だったりしたら、そこで干渉が起こって境界線があいまいになるんだ。向こうに流れるはずの空気がこっちに流れ込んで来たり、その逆だったり。窓だけじゃない。ドアだって鏡だって、何かの枠がある物だったらその可能性がある。そういうことがリアルに存在したらどうなんだろう、って思って」
彼はまた咳き込んで喋るのをやめてしまう。
私も彼の意見を壊さないように汲み取り、そして吟味していく。
「でもそうすると、なんでその二つの世界が存在するのかが分からないよね。リアルに存在するんだとしたら、何かしらの理由があるはず。それがどんなにくだらないものだとしても、絶対その元となったものが存在しているはずだよね。でもそんなことわかるはずもないから、まぁ、存在しているんだろうな、ってことでいいんだけど。
もし二つの世界が同時に存在しているのだとしたら、とっても面白いと思う。それぞれの場所でそれぞれの時間が流れてる。ふたつはとても似ていて、それでいて違う。夢みたいな世界だね。夜寝てる時に見る夢。もしくは歪んだ鏡。対称ではないし複製でもないけれど、どこまでも似ている世界。そういう世界、理由はどうあれ存在してるかもしれないよね。その二つの世界の住人が、お互いに行き来して仲良くなれたらもっと素敵だと思うの。今まで以上に世界が広がる。価値観も。何かしらの境界線をまたいで、向こう側に行ってみる。なんだかおもしろいじゃない」
私の言葉に、彼は小さく微笑んだ。
「それにさ、私思ったんだけど、もし二つの世界で交換ができたらもっと面白いことになるだろうね。こっちでしか作れない物、向こうでしか作れない物。そういうものをお互いに交換して、より良い世界を作っていく。とっても素敵な世界だよね。よく思いついたね、そんな話。あ、お話じゃなくて夢か」
私が同意を求めようをして彼のほうを向くと、彼はぐっすりと寝てしまっていた。私の考えが、彼の眠りの扉を開いてしまったのかもしれない。私は乱れた掛布団の端を揃えると、窓を半分まで閉めて、部屋を出た。
もしかしたら、その境界は物理的なものだけじゃないのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった。