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小説|境界

 この場所は、慣れているものさえ迷うこともある。空が見えないほどに高く狭く伸びている樹々が、足元を暗くさせている。遠くの方も、なにか光るものがなくては正確に見ることはできないだろう。手元の提灯を揺らし、灯りを確かめた。少なくとも私は不自由なく行動することができているが、新しくきたものにとっては迷宮だろう。興味本位で迷い込んだ人間ならば、確実に出られない。
 こういうところだからこそ、誰からも見つからない場所というのもどこかに存在しているのだった。行き方を知っている者にしか辿り着けない秘密の場所。それが私の住処であり、境界線であり、鏡だった。
 橙色の火の光が下駄を舐める。
 私は空っぽのお腹を携えて、今度の食料を見つけるべく鏡へと向かった。
 実際は鏡ではなくただの小さな湖なのだが、そこにはやはり曖昧な境界線があるのだった。私たちのこの樹海と、人間たちの世界。しかし、ここではただ見ることが出来るだけで干渉することは許されなかった。鳥居とは別の、そういった意味での鏡。この鏡には、人間の世界の一部が投影されていた。
「…………」
 揺れる水面を眺めながら、次に食べるものを探していた。特別うまそうな、腹が満たされそうなものを探す。ただ空腹を紛らわすのではなく、食事という行為をすることによって満たされたいというだけのことだ。私の場合何かを摂取しなくてはいけないというものがなく、食行為も特に意味はない。死ぬことは滅多にないのだが、それでも心が渇いてしまう。満たされたくなる。
 鏡に映るのは性別も年齢も様々な人間だった。男の子もいれば女の子もいる。痩せている人も太っている人も、それぞれの職業に浸かりながら日々の生活を送っている。
 どれが美味しいだろう。
「おや、キコ殿。こんなところにいたのですか」
 食事の選別をしている中、後方から声が聞こえた。人をおちょくっているかのような、不愉快な声。
 私は鏡を閉じ、振り返った。
「こんなところにいたのですか、なんて。白々しいにもほどがありますね。私がどこにいるかなんて、あなたはすぐにわかるのでしょう?」
「はて、なんのことやら」
 彼はわざとらしく頬を掻いた。
 巨人のような高い背と、針金のような細い体躯。骨に皮が張り付いた程度の太さしかないその身体は、真っ黒なスーツに包まれていた。ぴったりと張り付いた生地が彼の細さを際立たせている。手には真白の手套をはめており、例に洩れず彼の骨のような指を更に鋭くさせていた。顔には肉らしい肉がなく、不健康なほどに皮が渇いていた。目の周りも、眼球がこぼれ落ちそうなほどに窪んでいる。
 ところで、と彼は口を開いた。
「ワタクシ、つい先ほどまで境界の向こうに出ていましてね。なにかアナタに差し上げられるものはないかと探していたのですが。山の中にいた生き物を持ってきたのですよ。食べますか?」
 そう言って彼は足ものに転がっている鹿の角をつかんで持ち上げた。だらんと舌を出し、虚ろな目をこちらに向けている。乱暴に持ってきたのだろう、後ろ足の半分がもげていた。栗色の表皮も所々剥がれて肉が見えてしまっている。
 私は彼を無視して住処へと歩き出した。
「食べないのですか?」
 ずるずると鹿を引きずりながら彼は私のあとをついてくる。私の反応が理解できないと言った様子で、何度も同じ問いを繰り返した。
「いいかげん、しつこいですよ」
 中ほどまで行ったところで、私は後ろにいる骨男に言葉を投げつけた。
「しかし、ワタクシはアナタの返事を聞いておりません」
「私の態度をみてわかりませんでしたか?」
「残念なから、ワタクシは心というものを持ち合わせておりません。ゆえに、アナタたちの心情を読み取ることもできないのですよ」
 それは私も同じだというのに。
 私は胸の中で大きなため息をついて、彼の方に向き直った。
「私は、いりません。そんな肉塊には興味ありません。どこかにいる乱暴な妖怪のところに持って行ってください」
「そうですか。わかりました」
 彼のことだから、私の直接的な否定に肩を落とすのかと思っていたのだが、意外にも素直に言葉を聞き入れた。そばにあった桶の中に鹿の頭を捥ぎ取って放り込む。瞬間、その中から細い腕が何本も飛び出してきて、角を折り、桶の中に沈めて行った。骨が潰され皮が剥がれる音が桶の奥から響いてくる。
 彼は残りを細かく千切り分けると、桶の周辺にばら撒いた。手が、どこからともなく現れてそれらをかっさらっていく。
 その面白味のない光景を避けるように、私は目的地へと歩を進めた。それに続くように、彼が私の影を追いかける。
「どうして動物の肉は喰らわないのですか? アナタは鬼でしょう」
「……確かに私は鬼ですが、それ以上にただ食事を楽しみたいだけなんです。腹が満たされればそれでいい、というわけじゃありません」
「なるほど……」
 彼は顎に手を置き思考の体勢を取っていた。
「でもアナタは、私が持ってきた人間の肉は喰らおうとしなかった。あれはなぜなのですか?」
 しつこい。
 私が食事の楽しみを邪魔されたことを、彼は知っているのだろうか。知っていて、わざとこの様に私に問いをぶつけ続けるのだろうか。好奇心が強いことは良いことだが、場合を考えなくてはいけない。
 それでも、私には無視し続けることはできなかった。
「……あれはそこらの動物と同じ肉の塊です。人間ではありません。
 この際だから言っておきますが、私はただ肉を喰らうだけの化け物ではありませんよ。確かに対象をバラバラにして食すという行為に快感を得ていますが、それ以上に私にとっての食事というのは心の渇きを潤すための手段でしかありません。私の心を満たしてくれる人間でしか、食べても不味いだけなんです。それは職業や体型で決まるものではなく、その存在が裡に抱える思念の濃度によって味の良し悪しが決まります。言ってみれば、動物には肉体と魂があったとしてもそれらを繋ぐ心がありません。すべては代替的意識であり、私の欲する本体的意識ではないんです。
 鬼としての私は人の肉を喰らうことに快感を得ます。人としての私は渇きから逃れることに必死になります。それが違いであり、理由です」
 私の言葉に彼はまた考え始めた。どうにも納得ができないようである。なにか難しい言葉を使ったつもりはないし、彼にも当てはまるものがあると思ってのことだ。彼だって、この世界の王であろうがなかろうが、外的なものと内的なものの二つを共有し、境界で分けているはずだ。それぞれに違った思考の経緯があることも何となくはわかっているだろう。
 それなのに、どうして彼はそんなにも悩むのだろうか。
「……ワタクシが悩んでいるようにみえましたかな?」
 私のこわばった表情を見て、彼は肩を落とす。
「まぁ、確かに悩んではいましたけれど、アナタの言葉に対してではありませんよ。アナタの言っていることは正しい。間違ってなどいません。考えもそう。ワタクシだってこの姿になる前は人間でしたし、代替的なものと本体的なものの二つを共有していました。しかし、こうなってみるとわかるのですが、その二つを分ける境界というのが非常に曖昧になってくるのです。どちらがどちらなのか、わからなくなる。そうすると、思考も曖昧になり行動からも一貫性が失われる。そのことを悩んでいたのです。
 今まだ覚えているのは、王としての自分とこの姿としての自分には大きな違いがあったということ。一方は他の存在に興味がなく、もう一方は思慮深い。その二つのことを考えていると、自分というものがなんなのかがわからなくなってくる。自分というのはここに一つしかいないのに、自分というものが二つ以上考えられる。どちらが本物なのかがわからず、そして曖昧な境界線の上に立って俯瞰すると、あっという間にその黒さに飲み込まれます。
 アナタを見ているとその境界線が揺らぐ。ワタクシに、否応なしに外的なものを呼び起こそうとする。それがとても怖いのです。自分というものが何処かに消えてしまいそうで、知らないことが頭の中を埋め尽くして、なにもできなくなる」
 彼は軋む顎を何度も動かし、私にその内側を吐露した。彼がこんな人間的なことをするのを初めて見た私は、どうすることもできずにただそこに立ち尽くしてしまう。彼の背中をさすればいいのだろうか。なにか気の利いた言葉をかければいいのだろうか。それでは、どんなことをすればいいのだろう。頭の中を疑問が駆け巡り、一時の間動けずにいた。
 そんな私の様子を見てか、彼は乾いた声で笑った。
「あぁ、これは失礼いたしました。アナタには関係のない話でしたねぇ。失敬失敬」
 彼は私の前まで歩き、振り返った。
「さて、お食事選びを邪魔してしまったお詫びです。一緒に美味しいものを食べましょう。鬼のアナタも人間のアナタも、どちらも満足できるものを探さなくては」
 楽しそうに口角を歪めて言う彼に、私は一つだけ問いを投げかけた。
「あなたは、どちらがいいのですか?」
 私の言葉に動ずることなく、手を伸ばす。
 彼はただ微笑むだけだった。

【情報】
2012.09.17 20:06 作成
2023.12.03 22:00 修正

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