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小説|食べ歩き

「空腹だったからといって人を喰らうだなんて、あなたは馬鹿ですか!」
 母親の声は腹に大きく響いた。今だってとても腹が減っているのに。今にでも目の前にある脂肪たっぷりの肉を食べられるかもしれないのに、彼女は顔を真っ赤にして叫んでいた。隣にいた細身の警察官も、顔を青くしながら私たちのやり取りを見ている。
「だって、食べるものがなかったんだもん」
「そ、そんなもの、冷蔵庫にいくらでもあるでしょう! ほら——」
 母親が証拠のためにと開いた冷蔵庫の中には、食品なんて一つも入っていなかった。あるのは残りかすみたいなマヨネーズと容器にこびりついた塩の欠片だけ。これを食べれば何か変わったのだろうか。いいや、食べたとしても空腹から逃れることはできないし、もしかしたらもっと増してしまうかも。私は何が何でも食べてお腹を満たしたかったから、お料理をする道具を持って散歩に行っただけなのに。
「れ、冷蔵庫になければお小遣いで——」
「お母さんにお正月のお年玉を預けて以来お金もらった覚えがないんだけど。」
「そ、それは……」
「あたしがどうこう言える立場でもないけどさ、もうちょっと子供のために何かしたら? そうやってほっとくからお父さんだって出てったんで——」
「うるさい!」
 今までにないくらい大きい声で母親は叫んだ。叫びよりもひどいかもしれない。一種の楽器のような、ただの音になっていた。私は不快な音を聞き流しながら、ぐるりと渦巻く胃の中に集中する。もうちょっとで、私は満腹になれる。うまくいけばもう一回分の食料も得られるかもしれない。そう考えると、この面倒くさい場面もどうにでも乗り越えられるような気がしてきた。
 警官は時計を確認すると、私に声をかけた。そろそろ私を連れていかなくてはいけないらしい。それは困る。どうにかして棚の中の包丁を手に入れなくてはいけない。この空腹の中、灰色の所に連れて行かれるだなんて考えたくもない。どうすればいいだろうか。もう、衝動的に棚に向かって走ればいいだろうか。私には言葉で時間を稼ぐことはできないし、かといって警官をぶっ飛ばすこともできない。女の子はそんなに力はないもの。包丁があれば別だけど。
 しかし突然の音に私の思考は途切れてしまった。母親が、目玉が転がり落ちるのではないかと思うくらいに目を開き、何かを吐き出しているかのように大きく口をあけていた。叫んでいる。もう超音波みたいな音だ。私も警官も、あまりのひどい音に耳をふさいでいた。
 母親は、おもむろに棚を開いた。
 中から光るものを取り出す。
 包丁だ!
 願いが通じたのだ。私がお腹がすいてしまったということを、食べることがないことをお母さんはやっと理解してくれた。あぁ、良かった。これなら私はお腹いっぱいになってしあわせになれる。お母さんはわざわざ食べられに来たのだろうか。それとも、警官を一緒に食べようというのだろうか。どちらにしてもお腹が——。
 とてもあつかった。
 耳元で超音波と太い怒鳴り声がする。目の前には母親の顔があって、それを青い腕が殴り飛ばしている。何が起こっているのかさっぱり分からなかったけれど、とにかくお腹が熱くて、お母さんが手を真っ赤にして台所の奥に吹っ飛んでいった。警官は通信機を取り出し、何かを連絡してる。
 下を見てみたら、お腹に包丁が刺さっていた。そこから血がどくどく漏れ出していて、なんだか気持ちが悪い。お腹の中に冷たいものがあるというのは、どうにも慣れないことで、早く抜き取りたかったのだけれど、ちょっと触っただけで痛みが全身を駆け巡った。
 もしかしたら、私は死んでしまうのかもしれない。
 そうしたら、もうお腹いっぱい食べることはできないのかも。
 お腹がすいた。
 食べたい。
 超音波を出す肉の塊と、黒い塊に叫び続ける骨の塊。
 私は腹から包丁を引きずり出すと、まずは大きくふるって警官の腕を落とした。手首のくびれに沿って思いっきり刃を立てる。あっさりと二つに割れてしまって、機械と一緒に両手が床を転がった。ビームみたいに手から血を噴き出すのを見ながら、私は叫んでいる彼の口の中に包丁を刺し込んだ、あまりにもうるさい。そんなに空気を震わせては、私のお腹が転がり出てしまう。刃の先が貫通したのを確認すると、左右にねじって思いっきり引き抜いた。ぴくぴくと身体を震わせながら静かになる。
 私は床に落ちていた右手から人差し指だけを切り取ると、それをしゃぶった。切断面からあふれてくる血がちょっと苦くて、でも肉の柔らかさと酸っぱさが私の口の中に広がり、とても幸せだった。お腹も鳴る。
 母親は、あまりの光景に口がきけなくなっているようだった。肩を震わせて、涙目で助けを訴える。
「あんただって、衝動的に動いたじゃん。あたしだって、お腹が空いたからそうしたんだよ。どっちだってかわんないよ。あんたはあたしを殺そうとした。目の前にいてほしくなかったからね。あたしは誰かを食べようとした。お腹がすいたからね。欲望にしたがって生きたって、ろくなことがないって言ってたけど、確かにその通りだったね。何にも面白くなかったよ。確かにお肉は美味しいけど、でもすぐにお腹はすいちゃうし。手も汚れちゃうし。挙句の果てには灰色の部屋に閉じ込められちゃう。あんたも悪いけど、あんたも少しは良いこと言えてよかったね」
「た、助けて……」
「実の娘を殺そうとしておいて? だめだめ、笑っちゃって内臓でてきそう。もう結構出てきてるけど。あんたもあたしと同じにお腹裂いてみる? 大笑いしたら死んじゃうだろうね」
「あ、あんたって子はぁ! せっかく育ててやったのによぉ! おい! 聞いてんのか! やめろ! それを近づけるんじゃない! ああああああああああ!」
 膨れ上がった腹に包丁を突き立てる。その間も母親はわけのわからないことを喚き散らしていたが、私には関係がないことだった。ぐるぐると刃をかき回す。内臓と肉と脂肪とがごちゃ混ぜになって、湯気を上げていた。気持ちが悪い。こんなもの、食べ物ではない。腹から離れ、咽喉を裂く。かしゅっ、と空気が抜ける音がして、叫び声は聞こえなくなった。
 全然面白くない。
 お腹もすかなくなってしまった。
 何がだめだったのだろう。
 子供がお腹がすいたと、主張してはいけなかったのだろうか。

【情報】
2012.08.06 11:22 作成
2023.11.19 17:34 修正

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