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小説|平和のハト

 ハトが飛んでいった。あれはきっと戦争を食べに行くのだろう。どこかで起こっている、血と油の臭いが籠った空気の中を、その羽が切り裂いていくのだ。彼が通り抜けて行った後ろには、枯れた草だけが残る。崩れたビルの外側にも、倒れたままの兵士にも、動いている洗車の上にも、草が絡みついていく。まるで自然の力ですべてをねじ伏せようとしているみたいに。
 けれどそんなことをしたって、火の雨が降れば何の意味もなさないのだった。被害だけを広げて、その場所を死に至らしめる。
「そんなことばっかでつらくはないのかい?」
 僕は聞いたことがある。一仕事終えて巣に戻って来た彼に、褒美の餌をやっているところだった。彼は嬉しそうにそれをつつき、くるん、と喉を鳴らす。
「辛くはないよ。ただ飛んでいるだけだから。僕たちは、世界に平和を届けるんだ。だからぼくたちは、止まることを許されない。ぼくたちが行くから、世界は平和になっていく。ほら、昨日放送が流れただろう? 世界の今起きている戦争のうち半分が終わりに近づいているって。それが小さな領域の話だとしても、ぼくたちが役立てているのだということを考えると、嬉しくなるよね」
「けど、きみたちが通り過ぎて行ったあとには必ず火が生まれるんだ。そして、その場所一帯の被害を大きくしている。なんでだい? そんなことをしたら、平和にはならないだろうに」
 僕は二摘み目の餌を彼の前に放った。隣から、仕事を終えたばっかのハトが飛んでくる。彼女は煤を体中にまとって灰色になっていた。かわいそうに。僕が払ってあげると、大きく体を震わせて拒んだ。そんな動きをするだなんて、まるで犬みたいじゃないか。僕が小さくつぶやけば、怒ったように嘴を手に刺してくる。小さな血の球が浮き上がってしまった。
 彼は三粒ほどパンの耳の欠片をつまむと、そのまま喉に押し込めた。そして、僕の言葉に対する答えを告げる。
「これは、きみの考えている平和とぼくの考えている平和、さらには世界の求めている平和がまったく違うものだから起きる問いなんだと思うよ。確かにしょうがないことではあるけれど、どうしようもないことなんだ。哲学みたいなものかもね。正確な答えが、神様が決めた答えが分からないからぼくたちはそれに代わるものを求めようとする。そして、意見を押し付けあうんだ。それこそ、平和の破壊だよ。ぼくは認めない。けれど、そういう考えがあるのだということを、頭の中に入れるくらいのことはしなくちゃいけないよ。これ以上の争いやいざこざを起こさないためにもね」
 彼は皿に入った水を飲む。
「きみの考えている平和というものがどういった類のものなのかが分からない以上、うまく言えないかもしれないけどね。もしかしたら、きみの意見を押しつぶしてしまうかもしれない。そう感じてしまうかも。もしそうなってしまったとき、自分というものから一歩引いちゃだめだ。とりあえず、重たいけれど、持っていてみて。そうすれば変わるから。
 さて、ぼくの考えている平和だけどね。簡単に言ってしまえば、終わりだ。これ以上戦争が始まらければいいと思っている。今ある戦争が終わればいいと思っている。そのためにどうすればいいかと考えた時に、ぼくはこのハトの力を使ったんだ。ぼくが通ったところには草が生えるだろう。戦争が続けば、遅かれ早かれそこには火がつく。ぼくが作り出した植物はほかのものよりも燃えやすいんだ。だからあっという間に日は回り込み、その地域一帯を破壊する。もちろん、範囲以外のところを無闇に壊すわけじゃないよ。あくまでも、そこを殺すだけだ」
 彼は特に言葉を詰まらせることなく、淡々と語っていく。麻痺しているような、そんな感じではなかった。最初から、そう考えているみたい。彼の考えが正しいのかどうか、ぼくには判断しきれないけれど、少なくとも世界と僕の考えとはまるっきり違っていることだけはわかった。
 僕の言葉を促すように彼は歩いてくる。いつの間にか皿の中の水もパンの耳もなくなっていた。今日はこれ以上あげられない。
「僕の考えてる平和が聞きたいの?」
 彼は小さな頭を縦に振った。
「きみが考えるものとは大きく違うし、その考え方には到底及ばないかもしれないけど一つだけ、言わせてほしいんだ。
 僕の考える平和は、人が幸せになることだよ。みんなが笑える場所を作りたいんだ。もし僕がハトになったのならば、この世界の人間をみんな笑わせてみせる。そして、戦争をやっていることなど忘れさせて、ずっと一緒に踊り続けるんだ。傷ついた者達もやがて回復し、全員が楽しそうに手をつなぐ。そうすれば、この世界から戦争というものはなくなって、平和になると思うんだ」
 僕の言葉を彼はどうにか飲みこもうとしているようだが、うまくいかないみたいだった。特別難しいことを言ったつもりはないのだが、思ったよりも彼には合わなかったらしい。苦しそうに顔を歪めながら、何度も頷いている。ぶつぶつと呟きながらその場をうろついた。あれもちがうこれもちがうと、僕の考えを吟味する。そんなものではないと思うのだが、彼は丁寧に思考を広げて行っているようだった。
 隣にいる彼女が別の指をつついてくる。そういえば、彼女に褒美の餌をあげていない。嬉しそうにつつき、食べていった。僕は彼女の仕事の様子を見たことがないからわからないけれど、彼女はどんな平和と頭の中に思い描き、世界に投げかけているのだろう。彼女が作り出す平和では、みんなが笑っているのだろうか。彼のような、酷いやり方をしていないだろうか。少しだけ心配になるけれど、それは彼女の問題だ。僕にはわからないもの。そして、関わっても意味のないものだ。僕はただの餌係。世の中からは除外された、特別な人間だった。
 おもむろに、彼は口を開く。
「きみの言いたいことは、何となくわかったよ。けれど、それでは平和は訪れない。きみの理想論では、この世界は救えないよ。教えてあげようか? この世界には差がないんだ。正確に言うならば、局地的なずれはあったとしても、統合してしまえばゼロに戻ってしまうということ。きみの言っている通り、世界中を幸福で包み込んでしまうのだとしたら、それは過剰なプラスの反乱だ。最初はいいだろう。世界もその大きな変化には、気づいたとしても行動を起こせない。なぜならそれは大きいからだ。あまりにも広すぎて、柔らかすぎる。けれどね、その過剰なプラスで包み込まれた世界の中心には、その逆の、負の塊が着実に堆積していっているんだよ。それは想像もできないような絶望だ。きみが少しでも触れてしまったら、いや、見るだけで死んでしまうような、恐ろしいものだ。そういうものが、この世界には必ず存在してしまう。だからそこにいる彼女も、ぼくと同じように戦場を壊しているんだ。もっとも、彼女の場合は植物ではなく海で世界を覆っているのだけれどね」
 二匹のハトは楽しそうに顔を見合わせ、顔を傾ける。そこには笑顔が張り付いていた。

 世界には戦争であふれている。規模は問わない。その中を飛び回るハトが、二匹。大地を作り出すものと、海を作り出すもの。それらはつかの間の幸福を与え、摘み取っていく。凹凸の激しいこの世界をならしていく二匹のハトに、僕はただ餌を与えることしかできない。
 しかし上から見る景色というものは、なかなかにいいものだ。
 過剰な偏りがあるわけでもない、平らな世界。そこには恐らく、外的な要因のおかげで差が生じ始めるのだろう。そのずれが大きくなってしまったら、また二匹のハトを送り込めばいい。彼らがきっと、世界を平和にしてくれる。
 世界はとても、幸せそうである。

【情報】
お題:戦争と絶望(制限時間:30分)

2012.11.11 20:55 作成
2024.05.13 13:45 誤字・脱字修正

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