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小説|彼女の痛み
僕たちはマンションの一室にいた。女の子の部屋にしてはずいぶんと質素な、可愛げのない部屋だったけれど、正直このくらいが過ごしやすかった。あまりにピンク色であふれていたり、可愛らしいものがそこらじゅうに転がっていたらどうなるか分かったもんじゃない。下手をすれば、僕は発狂してしまうかも。愛おしくて。
彼女の家に呼ばれるのは別に珍しいことではなかった。二週間に一度、さらに悪い時には週一だが、彼女は僕をマンションに呼び出す。それがお昼ご飯中でも授業中でも睡眠中でも変わらない。彼女が必要だと言った時に、僕は駆けつける。最初の頃はもちろん怖かったし、お腹がすいたし授業にはおいていかれるし寝不足だしと散々な目にあっていたが、今ではもう慣れてしまった。これは彼女を手助けすることでもあるけど、同時に僕自身の毒を抜く作業でもあったから。僕にとっても、必要なことだった。
部屋の中は、気味の悪い咀嚼音で満たされていた。彼女は一心不乱に自分だったものを食べている。何も知らない人が見れば、とても奇怪な光景だろう。大人しくしていればとても美しかったであろう少女が、大泣きしながら顔を歪めて口を赤く染めているのだから、通常な状態であるはずがない。
僕の仕事はただ一つ。彼女が食べ終わるのを見届けること。
彼女が過去の自分と決別するのをしっかりと確認すること。
それが僕にできる、僕にしかできないことだった。
□
「わたし、自分のことが嫌いだわ」
桜の花びらが散り始めたころ、彼女は電話でそう言った。出動の合図だった。
「そりゃあ、またずいぶんと物騒な話だね」
「物騒? あなたのあたまはずいぶんとぬるいのね。嫌いは拒絶よ。そこにあって欲しくないの。ガラスだったら割ってるわ。布だったら引き裂いてる。鉛筆なら折るわね。でも自分自身のことは壊せない。もし自分の存在を拒否して潰してしまったのなら、わたしはゴミとなって二度と両足で立つことができなくなるわ」
「そりゃそうだろうね」
明らかに、彼女は怒っている。
「……なんでそうも冷たいのかしら。男なら、もうちょっと気遣いなさいよ」
「それは偏見だよ」
「少なくともあなたの中には常識がないようね。なんでもいいから今すぐ来て頂戴。もう少しで爆発してしまいそう」
「……わかってる。ちょっと待ってて」
桜の匂いがねっとりと絡みついてきて気分が悪かった。
□
「わたし、良いことと悪いことの区別がつかないみたい」
向日葵が萎れ始めたころ、彼女は電話でそう言った。学食での贅沢な昼飯が台無しだ。
「そりゃあ、またずいぶんと深刻な話だね」
「深刻? あなたのあたまはずいぶんと緩いのね。これだけ歳を取っているのに道徳をわきまえていないなんて、恥ずかしいにも程があるわ。それでも、わたしには分からないの。なぜそれが良くてそれがだめなのか、分からないの。わからないなりに自分の基準でやったら怒られたわ。かといって大人たちに聞いても、皆適当なことを言ってはぐらかす。まったく、嫌になっちゃうわ」
「そうだねぇ……」
彼女なりに、焦っているようだった。
「……どうすればいいと思う?」
「そればかりは、僕がどうこう言える問題ではないかな。それでも一つだけ言っておくと、きみが心配していることは大して意味をなさないだろうね。きみが求めているのは一般的な、世間が求めている理想でしかない。理想は空想なんだ。夢は虚構でしかない。偽物になることもできるけど、心は罪の重さに耐えきれずに潰れてしまうだろうな。きみがもし彼らと同じ道を歩みたいのだとしたら、真似をしていればいい。後ろに隠れて、必要な時だけ表に出ればいいさ」
彼女はとても静かだった。
「そう……。……今から来れるかしら?」
「……あぁ、少しだけ待ってて」
蝉の音はもう聞こえない。
□
「わたし、まだまだこどもみたい」
紅葉がほとんど落ちたころ、彼女は電話でそう言った。講義中のトイレというのはとても静かだ。
「そりゃあ、またずいぶんとおかしな話だね」
「おかしい? やっぱり、そうなのかしら。これだけ大きくなって、それでも子供の様だと言われるのはとても恥ずかしいことだと思うの。何が恥ずかしいかって、周りの人間は大人として扱われて認められているのに、わたしだけ取り残されているような気がするから。彼らと同じものであるはずなのに、一つだけ違うというのはとても居心地が悪くて」
彼女は、今にも泣きそうだった。
「そっか」
「……どうしよう」
「これは、僕もきみも悪くない。言ってしまえば、民族性というか、この社会の風潮だろうね。僕たちは普通であることを望んでいるし、思っていることと真逆のところにいるのだと指摘されてしまえば狼狽える。どうすればいいものかとあたりを駆けずり回るけれど、誰も何も言ってくれない。ますます距離が開いていく。僕達子供は、まだ親になったことのない子供は、親の所為にしていられる。親がしっかり育ててくれなかったから、親がそういう環境を作ってくれなかったから、と。そうでもなければ甘えていればいい。それができないやつは、勝手に幼児退行して馬鹿なことをやる。僕は少なくとも、親のような存在に甘えることができた。だから今ここにいる。きみも、もっと甘えてくれていいんだ」
とうとう、彼女は泣きだしてしまった。
「………………」
「うん、もう着くからね」
夜は近い。
□
「わたし、人間ではないのかも」
雪雲が通り過ぎていったころ、彼女は電話でそう言った。まだ夜中の三時だ。
「そりゃあ、またずいぶんと突拍子がない話だね」
「突拍子がない、ね……。そうよね。わたし、あんなことがあってから自分が自分でない気がしてきて。自分じゃないということは、人間だった自分ではないということだから、わたし自身は人間じゃない別のものなんじゃないかと思って。でも人間じゃなかったら、わたしはなんなんだろう」
彼女は、何かを恐れている。
「なんなんだろうね」
「…………」
「僕はきみではないから、正確な答えを返すことはできない。だけど、これだけは言っておこう。きみがどんな存在だろうと、どんなものがきみの前に立ちふさがろうと、僕はきみがきみであることを知っている。外側の連続性なんて、とても些細なものだ。内側のほうがもっと大事で、外側に漏れ出した内側なんて今までどおり喰らって呑み込んで自分の糧にしてしまえばいい。きみはきみだ。この際、人間かどうかなんて関係がない。動物である必要はない。きみであるべきなんだ。その結果が今回これまでたまたま人間だっただけで、それがこれから変わっていってもおかしくはないだろう。人間は死ななくちゃ変わることができない、だなんて思ってるから心が揺らぐ。いいかい、きみはきみなんだ。それだけでいい」
彼女は、大きく息を吸った。
「…………夜遅くにごめんね」
「いや、いいんだ。鍵は開けておいてくれ」
日が昇ってくれることを祈ろう。
■
彼女は僕の前で、自分自身を吐き出した。泣き叫びながら部屋の中をひっかきまわし、小さな口をめいっぱいに広げて、内側に溜まった自分の、自分でありたくない部分をぶちまけた。僕は彼女が暴走しないように見守るだけしかできない。たとえ彼女のためと思って声をかけたとしても、完全な部外者である僕に彼女は拒絶反応を起こして死んでしまうかもしれない。
最初はただの言葉だった。いや、叫び声と言ったほうがいいかもしれないが、どちらにせよ目に見えないただのエネルギーであったはずだ。しかし彼女の軸がぶれた瞬間に、彼女の秩序が乱れ始めた。外側と内側の境界が非常に曖昧になっている。こことそこの線が見えていない。内側に蓄積された彼女の痛みが、外側に現れ始めた。身体の異常ではない。彼女の小さすぎる口から、まったく同じ形をした真っ白な彼女が出てきたのだから。それは触れるだけで彼女を崩壊させてしまうようだった。白い彼女は泣き叫ぶ彼女の首を締め上げる。僕はやめさせようと白い彼女を止めようと思ったが、彼女自身がそれを拒んだ。
「これは! わたしじしんが! かいけつしないと! いけないの!」
とぎれとぎれになりながら絶叫する彼女の姿はとても辛そうだった。身が引き裂かれるような痛みと、大っ嫌いな自分の指。僕ならば、発狂して死んでしまうだろう。あまりの苦痛に。
それでも彼女は戦った。過去の自分と戦った。泣き叫びながら、必死になって、目の前の自分と決着をつけようとしていた。決して逃げようとしない。彼女は彼女であるために、自分というものを定めるために、嫌いな自分を消し去ろうとした。
彼女が克服してしまえば、白い彼女は精巧な作りの人形になってしまう。安らかな顔をした、幸せそうな彼女の顔になる。それを、隣にいる彼女は泣きながら食べた。何度も謝りながら、何度も感謝しながら、自分だったものを、別れを告げた大切な自分を、再び自分のものとした。
■
外側なんて、大した意味を持たない。
自分なんて、すぐにいなくなる。
それでも彼女は、懸命に探し求めた。
たどり着いたのは、ただただ白い内側だった。
【情報】
お題:減速、マンション、食べる
2012.07.28 23:26 作成
2023.11.11 14:09 修正