小説|夢の水圧
薄暗い湖の底に私は立っていた。
重たい水は私を押しつぶさんと身体を包む。その水圧は心地よいような、少しでも気を許したらどこか遠くに行ってしまいそうな、少し危険な雰囲気を孕んだものだった。
私はここから動けない。
足を上げても前に進まない。
どうすればいいのだろう。
□
「そういえば今日提出の宿題、もうやった?」
退屈な午後の授業も終わり、長かった一週間がようやく終わって楽しみな休日のことで胸がいっぱいになった時、後ろの席から声がかかった。ショートカットで部活にいそしむ元気な女の子。今日提出の、宿題。
「……やってないかも」
「やっぱりやってないよねぇ。先生も忘れてるくらいだもん。さっき隣のクラスの授業で思い出したみたいで、先生と廊下ですれ違ったら友達に広めといてくれって。プリントは掲示板のところにおいてくれるらしいから、持ってなかったらそこの使っていいって」
それじゃ、と彼女は手を振って教室から出ていった。
相変わらず元気だな。
しかし、そんな伏兵が潜んでいたとは。私の心はすっかり休日に向かっているというのに、宿題をやらなくてはいけないらしい。それも、今日中に。多分プリントはファイルのどこかにあるとは思うのだけれど、端が折れているかもしれない。配布してくれているのであれば、それを使ったほうがいいだろう。どうせ図書館に行くための通り道にある。
早く帰ってお休みしたかったけれど、こればかりは仕方がない。いくら先生が忘れていたとはいえ、ちゃんと確認して宿題をやっておかなかった私にも非があるし、放課後の時間だけで解答できるような簡単な問題なのだろう。それならば、一時間くらい時間を割けば終わるはずだ。
それさえやれば、二日間のお休み。
特別な予定があるわけではなかった。先ほどのあの子や隣のクラスのお人形さんみたいなかわいい子とは違って彼氏はいないし、友人はいるけれど遊びに行く約束をしているわけでもない。見たい映画があるわけでも、欲しい服があるわけでもない。
何でもない日、というのが久々で、どうやってだらけて過ごしてやろうかと、わくわくしているだけなのだ。
思う存分だらだらするために、やれることはさっさと片付けてしまおう。
・・・
掲示板の下には先生の殴り書きと、乱雑に重ねられたプリントがあった。なんとその隣にはほとんど解答と言ってもいいようなヒント集もある。これではただ写すだけで終わってしまうではないか。先生、それでもいいんだったらヒント集なんか配らずに週明けの提出にすればいいのに。
私は一通りヒントを読んで、もとの場所に戻した。自分でやらなくちゃきっとテスト勉強の時に大変だろう。少しくらいはやらないと。
新しいプリントを一部取り上げてクリアファイルに入れた時、ふと黒い染みがあったような気がして、私は再度クリアファイルを開いた。
「なにこれ」
私の取ったプリントには、確かに黒くて大きな染みがあった。きっと印刷中にインクが過剰に出ただけだろう。それだけなら、取りかえれば済む。
でも、それだけでは済まなかった。
プリントに羅列された数式が蠢き、波打っていた。回答欄の箱は震えながらプリント中を駆け巡り、その空欄を満たさんと文字を喰らっている。
「そんなに疲れてたかな、私」
いくら夢の中で空を飛ぶ私でも、起きている、現実の世界でプリントの文字を歪ませることなんて不可能だ。そうなれば、ほとんど私の意識は夢の領域にいることになる。深夜の勉強で転寝してしまった時のような感覚だ。
そうとわかればやることは単純だ。早いところ、夢の出口を探せばいい。現実側に戻れるきっかけを作れば、私は意識を取り戻して、静かになったプリントを持ち、図書室に向かうのだろうから。
そう、プリントを握りしめたまま歩き出そうと思った時だった。
「あれ」
足が、上手く動かない。
いや、身体が硬直しているわけではない。
頭からは確かに地面を蹴って、足を上げて、前に進むための命令が身体をめぐっているはずだ。それぞれの器官も、命令通りの行動をし、感覚も確かにある。
けれども、進む速さは比較できないほどに遅かった。重たい枷をはかされた時のように、水の中を歩くときのように、前に行けない。
気持ちが悪かった。
「困ってるみたいだねぇ」
混乱する私を見かねてか、どこからか声が聞こえてきた。私の声だ。
でも私は口を開いていない。となると、夢の中のわたしが私に話しかけたのかもしれない。なんてややこしい。
けれどそんなややこしさに意識を割いている余裕はなかった。どうにかしてこの重りを外さなきゃいけない。
「でもそれは難しいと思うよ?」
笑いながら言うわたしに、ついむきになって言い返してしまった。
「何よ偉そうに。そうしたらあなたは、この重さを取り除く方法を知っているわけ?」
姿の見えないわたしは、なおも楽しそうに笑っている。私の困っている姿を見るのが面白いらしい。悪い趣味の持ち主だ。
「でもその方法を知ったところで、その鎖は解けないよ?」
「それでもいいわよ。いいから教えなさい」
しょうがないなぁ、とわたしは溜息をついた。その言動がいちいち癪に障る。耐えきれなくなって口を開いた時、彼女は言った。
「日常のあらゆる嫌な事を排除することだよ」
「たったそれだけ?」
「それだけ、っていうけどさ。自分自身、どれが嫌な事かちゃんと認識できてないでしょ。だからこんなことになってるし、解決しようにも原因が分からない。残念だったね」
彼女は笑った。あんたには無理だろう、と断言した。
確かにそうだ。
わたしの言う通りだ。私自身、彼女の言葉を聞いてもピンとこなかった。確かに学校では大変な事とか嫌な気持ちになることはあるけれど、でもそれらは一度寝るか言葉にしてしまえば私のもとからは離れていってしまう。だから、傷はそんなに残らない。
だから、私がなにに苦しんでいるのかわからなかった。
どうして自分のことなのに分からないんだろう。
「どうしたらわかるのかな」
私の問いは、はたしてみえないわたしに届いただろうか。
「それは自分と話しながら考えてみなよ。見えない鎖は見ようとしなければ一生そのままだよ」
笑いながら彼女は言うと、ふっ、とその気配を消してしまった。
傾きかけた太陽と、誰もいない校舎。
蠢き続けるプリントの文字と、鎖が重くて動かない足。
独りぼっちのこの夢の中から抜け出すことは出来るのかな。