小説|歩道橋
私はずっと見られている。
そして彼らは思うのだ。ここに居るものはきっと人間ではないと。
私は限りなく人間に近い、なにかなのだと思う。その根拠を目にしたことはないけれど、自分でもそれとなくわかるのだ。形は同じ、けれど中身が違う。自分というもののほかに、なにかが身体に入り込んでいる。世界の人々は私の中の何かを見て、その異質さに笑うのだ。
「それならいっそ死んでしまえばいい」
それで私が解放されるならば、中身の何かが覚醒するならば、私はそれでいい。何も知らないものがここで無駄に身体を使っているよりは、ちゃんとした意識のある物が、理解のある物が、正しく活動をしたほうがいいに決まっている。
私は歩道橋の上から流れる車を見ていた。普段横を通り抜けるだけの車が、こんなにも小さくなっている。ほんの少ししか高くないはずなのに、まるで世界の治めた王様にでもなったみたいだ。小さな点の人間を踏みつぶして車を蹴散らす自分が頭の中で暴れ回る。その度胸の奥には爽快な快感と、気分の悪さが一斉にこみあげてくるのだった。
「そんなことしたって何もないのに」
私の中の私が言う。
「あなたが死んでもわたしはどうにもならないわ。あなたの中にいるわたしは、あなた自身なんだもの。あなたがいる限りわたしが存在するのだし、身体を代わりに動かすこともできないわ。あなたが死ねばわたしも一緒に解放される。肉体を縛り付けているのはわたしではなく、あなたなのよ」
車を拾い上げて彼女はつぶやいた。もう一方の歩道橋に腰掛け、近くに生えていた木を一本引き抜く。枝を一本ずつ千切り、何かを占っていた。
「それでもみな、私を見て笑うの。髪型が変なわけでもないし、おかしな服装をしているわけでもない。とびきり不細工なわけでもないし、これまでの自分はとても普通な女の子だったのよ? それなのに周りの人は急に私のことを見て、嘲笑った目を向けるの。もう、耐えられない。あなたが代わりになってくれようとくれまいと、わたしはもうここに居る意味はないのよ。消えてしまうなら、それでもいい」
私の言葉に彼女は眉を顰めた。立ち上がり、足を振り上げる。太陽が彼女の陰によって黒く塗りつぶされた。周囲の景色が一瞬だけ止まる。空気も波も、呼吸さえも消え失せた。
程なくして、彼女の足が振り下ろされる。大きなスニーカーの底はアスファルトを割り、地面に大きな亀裂を作った。
彼女は私を掴み、持ち上げる。
「そんな甘ったれたこと言ってないで、もうちょっと考えたらどうなの? 自分のことを見ていると言ったって、それは単純に通行人の一人として認識したからじゃないの? 彼らが笑っていたのは、何か楽しいことがあったからじゃないの? 不完全な人間は表情をコントロールすることができないそうよ。あなたが見た気分を害する生き物たちはきっと、そういうやつらなのよ。あなたの身体の中にいるわたしのことを外部の存在は誰も認識することができない。それは当り前よ。だって、わたしはあなたの心の存在。あなた自身なんだもの。誰も人間の内面にまで踏み込むことはできないわ」
私は彼女の太い指を噛む。
「あなたの言葉には騙されないわ。そうやって私に嘘を刷り込んで破壊しようとするんでしょう? 彼らを笑わせてるのは他でもないあなたじゃない! いいわ。私は死んでやる。あなたの思い通りにはさせない。得体のしれないものに笑われ、身体の自由を奪われるのなら、いっそのことすべてを解放してやる!」
私は彼女の拘束から逃れようともがくが、うまく身体が動かない。相当強く握られているのか、力を込めただけではびくともしなかった。かといって圧死できるほどの加減ではない。あぁ、嫌だ。早くここから飛び降りて死にたい。早く、この身体から抜け出して巨人の策略から逃れたい。
大きな彼女は一度屈み、そして大きく飛び上がった。とてもとても高くまで伸び上がり、何十メートルも移動する。風はとてつもなく強く、首がもぎ取れてしまいそうだった。
「これだけの衝撃を与えてもあなたは死なないわ。だって、わたしのオリジナルなんだもの」
そう叫んで彼女はもう一度跳ぶ。その度道路は歪み、捻じれて行くのだった。
あなたのオリジナルが私である、ということはなんとなくわかる。あなたは私がいなければ存在できないのだから、当然のことだ。でもなんで、私は死ぬことができないと断定することができるのだろう。あなたは私の分身でありながらも、私自身ではないのに!
彼女の太い人差し指に歯を突き立てる。小さな悲鳴を漏らした後、彼女は唐突に着地し、私を覗き込んだ。太陽ほどもある大きな瞳が、私を飲みこもうと近づいてくる。
「あなたの性質を受け継いで心は作られるのよ。すべての順番は逆かもしれないけれどね。あなたの大本が作られて、あなたというものがそれをコピーして形成され、それらをつなぐように心が発達し、そしてあなたを安定させるためにわたしがつくられた。あなたの性質を受け継ぐのはわたし。わたしの身体の大きさとその強さは、あなたの内面の強度に比例している。だから言ったのよ。そんなに甘ったれているんじゃないって。さっさと目を覚まして、いつものあなたに戻りなさい」
そういって彼女は大きく口を開けた。
放り込まれる私は抵抗することも出来ずに、暗い腹の底に落ちていくだけだった。