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小説|空腹

 どうして私は空腹を満たしてはいけないのだろう。どうして私は満腹になれないのだろうか。出された食事を言われた通りに食したとしても、私の腹は満足しないのだった。かといって余分なもの、間食をすることは許されていない。おやつの時間に与えられた菓子類を保存しておこうと思っても、食べ切らなかったものはすべて回収されてしまう。どうやっても私には食事を自由にすることなど許されないのだった。

     □

「あなたはここにいなくちゃだめなのよ」
 私に似た顔の、少し老けた女性はそういった。その顔は夕陽の光で遮られている。もしかしたら、そこに顔なんてなかったのかもしれない。ここのパーツはすでに消滅していて、ただ輪郭だけがそこにあったのかも。私は何もわからないまま頷いて、そして彼女の手を握った。
 母親は、私の目の前で魚の糧となった。
 ここにいろと言われてから何日も経って、朝と夜が何度も私の頭の上を通り過ぎて、そろそろ母親を追いかけようと思ったその時、私の身体は後ろへと引っ張られた。そして、大きな胸の中に収まる。父親の身体は、とても大きかった。
「どうしてこんなところにいたんだい? 探したんだぞ」
 強く深い声に、私の瞳からは大粒の涙があふれてきた。彼が優しかったからじゃない。怖かったからだ。それはまるで母親を飲みこんだ真っ黒な海のようで、もしかしたら私もこの人に丸呑みされてしまうのではないかと思ったのだった。
「……ごめんなさい」
 ようやく喉から出てきた言葉も、届いたかどうかはわからない。彼はわたしを抱きかかえると、そのまま脇に止められた車の中へと連れて行った。助手席に私をのせ、本人は運転席へと移動する。手慣れた動作で車を動かし、見慣れた建物へと連れて行かれた。
 何日ぶりの家だろうか。
 私は帰宅するなり風呂へと放り投げられた。身体の隅々まで丁寧に洗われ、水をかぶり、大きなバスタオルで優しく水分を拭き取られる。彼の、父親の手は大きかった。
 食卓に座らされて、食事が出される。滅多に口にすることができないような、とても豪華なのものだった。
「好きなだけ食べるといい。だが、残したらだめだ」
 そういって父親は部屋から出て行った。
 私は目の前に広がるごちそうを、犬のように平らげた。汚らしく食べ物を食い散らかしながら、腹の中へと入れていく。食べてからようやく、自分が空腹だったのだということに気が付いた。そしてそれを満たすべく、無我夢中で食べ物を口へと運ぶ。
 そろそろお腹がいっぱいになったかな、と思ったところで、父親が戻ってきた。驚くようなタイミングの良さだった。
「おいしかったか?」
 彼の言葉に、私は満面の笑みで頷く。彼もそれに満足したようで、手に持った白いハンカチで私の口元をぬぐった。綺麗だった布が、汚れてしまう。
「さあ、子供は寝る時間だ。おやすみ」
 私はそのまま部屋へと連れて行かれ、ベッドに寝かされ、布団を掛けられた。自分では何もやっていない。すべて父親がやってくれた。
 もしかしたら、母親がいなくなったことを知っているのかもしれない。そのことを忘れさせるために、わたしにこんなに優しくしているのかもしれない。何不自由ない生活を送れるようにと、彼が気を使ってくれているのかもしれない。
 そんなことを考えているうちに、私の意識は深い闇へと引きずり込まれていった。

 次の日も、父親は私の身の周りのことをすべてやってくれた。洗顔から歯磨き、着替え、朝食の用意、片付け、送迎、入浴、就寝まで、すべて父親がやってくれた。初めのころは彼の行動に何の不信感も抱いていなかったし、むしろ歓迎していた。自分で何もやらなくていい。そう思うだけで、私は嬉しくなるのだった。
 だが、何週間も経つにつれて、徐々に違和感が生じてきた。それは父親に対してではなく、自分自身に向けての疑念だった。
 腹が、満たされない。
 食事はしている。毎日三度、おやつもついた贅沢なものだ。それなのに、私の腹はいつまでも空っぽのままだった。なぜだろう。そう思って父に相談してみても、ただ笑うだけで何も答えてはくれなかった。
 その時はなにも気にしてはいなかった。食べ盛りだからだろう、そう自分の中では決着をつけようとしていた。

 そして母親が食べられてから一年が経った。私は中学校というものへ行くことになった。相変わらず父親は私の身の回りのことをやってくれている。もはやそれが当たり前だと、疑うこともしなかった。他の家庭のことに干渉することはしなかったし、何よりクラスメイトも私の家庭に口を挟んでくるようなことはしなかったから、その異常さに気付くことはなかったのだろう。
 さらに、私の腹は空腹を訴えるようになっていた。
 毎日持たされる弁当にも、溢れんばかりに食べ物が入っている。友達からは羨ましがられるし欲しがられもするが、父親はそれを許さなかった。自分の分は自分だけで食べろと、彼はそう言っていた。私は彼の言いつけを破ることなく生活をしていた。
 程なくして、弁当箱が変わった。
 これまでは二段のものだったのに、まるで幼稚園児が使うような、小さな一段のものになってしまっていた。だが父も忙しかったのだろう。そう思って、物足りなさを感じながらも私は昼食を食べていた。
 ふと、思い出した。
 私が久しぶりに家に帰った時、出された食事はとても多かった。今でも豪華ではあるのだが、少しだけ、過去と量が違う。徐々に減っていっているような気がするのだった。
「…………」
 思い当たる節はいくつかあった。
 体重が減っていたのだ。毎日貪欲に出されたものを食べていたが、体重は増えることはなかった。年頃の少女と同じ悩みを抱えることなく、私は平均よりも細い棒のような体つきをしていた。しかし女性らしさは徐々につくられていて、柔らかそうな外見はほとんど完成していた。
 いつの間にかお弁当箱は空になっていた。
 今日帰ったら父に聞いてみよう。

「それは気のせいだと思うぞ。お前は今成長期にいるんだ。いつもの食事の量が少なく感じるのだろう。何も心配することはない。みな通る道だ」
 そういって父は私に食事を運ぶ。
 明らかに少なかった。おかずはない。ただの米だけ。
「お父さん……?」
「なんだ?」
「これって……」
「なんだ。今日の夕飯だぞ。いつもと同じものだ。食べないのか?」
 父親は、まるで異星から来た異端生物であるかのように私のことを見ている。どうして自分が言ったことが理解できない、と疑問に思っているようだった。
「いや、えっと、昨日より、少ないんだけど……」
 私が小さく量のことを指摘すると、父の目つきが変わった。気づいたら、私は椅子から落ちている。頬が抉れて痛い。真っ赤になっているだろう。
「馬鹿なことを言うな! おまえは与えられたものを食べればいい!」
 そう、わけのわからないことを叫びながら彼は拳を私にぶつけ続けた。身体中の筋肉が悲鳴を上げる。骨が軋む。内臓がつぶれる。意識が、だんだんと遠くなっていった。

 目が覚めたら、私は部屋のベッドにいた。上体を起こそうと力を入れれば、身体中から悲鳴が上がる。
「起きたか?」
 ベッドの脇に座る父親は、厳しい目を私に向けている。
「今日の食事はなしだ。今日からずっと、お前は何も口に入れてはいけない。私が許可するまで、何も摂取してはいけない。いいな」
 そういって父は部屋から出ていく。私は追いかけようと軋む身体を精一杯動かしたが、ある程度行ったところで止まってしまった。何かが手首絡みついている。
 手錠だ。
 それによって私はベッドに縛り付けられていた。どう頑張っても、それを外すことはできない。手を抜こうとすれば皮膚が削れて肉が出る。脱出方法は、見つからなかった。
「……お腹すいた」
 呟く声も、どこへとなく消えて行った。

 空腹に耐えきれなくなった。私は、身体を丸めて手錠のかかった手を眺める。そして、その指を口に含んだ。思いっきり顎を閉じる。
「————っ」
 痺れるような痛みがあって、私の上下の歯は無事接することができた。口の中には、硬いような柔らかいような良くわからないものがある。それを吐き出すわけにもいかず、私は奥歯を使って噛み砕き、喉へと誘導した。
 飲みこめば、胃が一斉に動き出す。
 おいしかった。
 今まで一度も食べたことはなかったけれど、自分の指はとてもおいしかった。
 これをすべて食べれば、私はここから抜け出せるかもしれない。
 頭の奥底から活力がわいて出てくるようだった。私は必死になって自分の指を噛み千切り、腹の中へと入れていく。渇いた喉は血を飲んで潤した。顎が疲れても、筋肉がなくなったような感覚になったとしても、私は食べることを止めなかった。止められなかった。
「……おいしい」
 手の平は思ったよりも柔らかかった。まるで高級な肉を食べているようなものだった。程なくして、私の左手はほとんどなくなった。手錠は、するりと私から抜けていく。
 勉強机から、カッターナイフを取り出した。
 刃を最大限までだし、前腕の半分くらいまでを切り落とす。さくり、と砂糖菓子を切るように問題なく落ちた。吹きだす血は、口の中へと入れる。舌で切断面を舐めあげれば、血の勢いは少しだけおさまった。
 切り落とした腕の一部を銜える。少しずつ、食べていった。
 部屋から出た。
 リビングや食卓には、父の姿はない。
 私は、腹が減っていた。
 食事がないのならば、私が食べ物を探せばいい。
 キッチンに入り込んだが、そこには一つも物がなかった。冷蔵庫も、炊飯器も、何一つない。食べ物も、何もなかった。
 今まで食べていたものは、なんだったのだろうか。
 どこから、あんな豪華なものが出てきていたのだろうか。
 お腹すいた。
 何か食べたい。
 気づいたら口の中が空っぽになっていた。補充するために肘から下を切り落とそうとするが、そこで思い出す。
 一つだけ、いい食糧があるではないか。
 家の中を徘徊する。腕から滴る血が、床を彩った。足の裏にまで付着し、家じゅうの面に足跡をつけていく。
 書斎の扉からは、光が漏れ出していた。その奥には、書物を読む父親が見える。
 おいしそう。
 食べたい。
 食べたい。
 私は静かに扉を開けた。
 音を立てずに進む。
 そして、彼の喉にカッターを突き刺した。
「!!」
 父親は驚いたように目を見開いていた。どうして私がここにいるのかを、まったく理解できていないようだった。私の腕がないことも、顔が血まみれなことも、喉に刃物が刺さっていることも、まったくわかっていないようだった。
 彼が口を動かす。
 その度に、裂け目からは血の泡が数個、はじけるのだった。
「……いただきます」
 私は最後の食事を開始した。

【情報】
2012.10.18 20:31 作成
2023.12.08 22:24 修正

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