小説|鏡面世界
目の前に広がるのは鏡の世界。
この淡い境界線を飛び越えれば、私は宇宙になれる。
全てを支配できる、少し変わった人間だ。
でも一歩踏み出してしまえば、私は後ろを見ることはできない。
ただ分岐する道を進むしかない。
そして、どこかからか複写された道を進んでいくことになる。
それは決められていない迷路。
私は迷ってしまった。
□
私の家には不思議な鏡があった。
その鏡はとてもきれいで、私の身長と同じくらいある。教科書で見たことのある、とても古めかしい形をしたものだった。家の倉庫で見つけてこっそり部屋に持ち込んでみたけれど、それをオシャレのために使うことはできなさそうだった。それは大昔に流行っていたような豪勢で無駄だらけの装飾や、隅のひび割れのせいではない。これの目の前に立ってみればわかる。
私の体が映らなかった。
本当に不思議な鏡だった。私が手を振っても、変顔を思いつく限りやってみても、全く反応がない。でも部屋の中身は映ってるから、鏡のはずなのだ。光を反射して眩しくなるのだから、そのはずだ。それなのに、一番必要な機能がこの鏡には備わっていない。どういうことだろうか。
これが何の鏡かを誰かに聞きたかったけれど、もしこれが先祖代々受け継がれていた家宝だったりしたら私はとんでもなく怒られるだろう。家から放り出されるかもしれない。いつも笑っているおばあちゃんですら、鬼のような顔になって歯をむき出しにするかも。そんなことは嫌だから、私はおとなしく部屋の隅において首をひねって理由を探した。一向に答えが見つからないおかげで、私の興味はどんどん薄れていった。いつしかクローゼットの中に仕舞われ、存在すら忘れられていった。
それから十年がたって、私は高校生になった。夏休みということで友達とのお泊まり会を企画し、あろうことか私の家に泊まることになってしまった。他の家がどうなっているのかを知りたいがための企画だったのに、自分の家で開くだなんて全く意味がない。それでもせっかくできた友達を手放すわけにもいかないので、内心泣きながら笑顔で了承をした。明日のお昼頃に荷物を持ってくるらしい。
思い切って、模様替えをすることにした。小学校のころから全く同じ部屋で生活していたものだから飽きていたのもまた事実だ。高校生デビューということで、景気よく家具の配置を変えてみよう。手当たり次第にベッドと机の位置を変更した。本棚も反対側の壁につけ、クローゼットの中身も少し整理する。
ごとり、と音がした。
何事かと思ってみてみれば、クローゼットのわきから何かが倒れてしまっただけのようだった。
あの鏡だった。
すっかり忘れていた鏡にはもっさりと埃が積もり、息を吹きかけたら不健康に宙を舞った。窓を開けて埃を逃がしたところで気づく。
この鏡、こんなに大きかったっけ。
私が見つけたころ、小学生くらいだったと思うのだが、その時は私の身長と同じくらいだった。そう考えると、私の胸くらいまでしかなかっただろう。しかし今目の前に転がっている鏡は、今の私の背丈と同じくらいあった。つまり、記憶よりも大きくなっている。鏡を覗き込んでも私の姿は映らなかった。もう何が何だか分からなくて怖くなって、この鏡をもとあった場所に戻そうかと思った、その時だった。
指がするりと表面を突き抜けた。
思わず鏡を持っていた手を離してしまう。持ちなおそうと鏡面に触れた途端、まるでそこが水であるかのように入り込んだ。今度は鉛筆を当ててみるけれど、かつん、と小さく音が鳴るだけだった。どの指でつつこうかと考えた結果、とりあえず無くなっても平気そうな左手の小指を突き出してみる。鏡面に触れた瞬間、やはり入り込んだ。同時に、少しだけ引っ張られるような感覚もある。鏡の向こう側を見てみたけれど、そこには何もなく、ただ平べったい鏡の背面があるだけだった。そのとき胸の中に湧き上がったのは、怖いという感情ではなく、面白いという興味だった。何がどうなっているのかはわからないけれど、こんなことは滅多にないだろう。いや、あるはずがない。アニメとかゲームが好きな弟なら喜んで飛びつきそうなことだ。
私は恐る恐る手を伸ばした。第二関節ほどまでしか入っていなかった小指も今は根元まで入りきっている。そのままゆっくりと左手全体を入れようとした。
「あ、」
急に何かに引っぱられて、私はなすすべもなく鏡に引きずり込まれてしまった。プールに入っていくときのような、冷たくてパリッとした境界線を私は越えていく。手首から肩へ、そして首。転んでしまった時のように前のめりながら鏡を進んでいった。そして見えたのは、私の部屋ではなくて、とても白い、何もない場所だった。
「(どこだろう……)」
そこはどこもかしこも真っ白だった。床も壁も天井も、全部同じ色。だけれどどれがどれかを認識できているのはなんだか不思議な気分だった。体育館くらいの広さがある空間。そのかわり、だだっ広いだけで何もない。振り返っても何もなくて、私は完全にこの真っ白に閉じ込められてしまった。
急に不安になった。何が起こっているかはわからない。けれど、こういうことは何度も経験したことがある。記憶だけれど、空を飛んだり動物と話したりできるところを、私は知っている。そこでは痛みを感じないはずだった。わたしはそこで転んでも全く痛くはなかったし、平然と走りまわることができた。夢ならば、こんなおかしなことが起こっても全く問題がないだろう。私は腕の皮膚をつまんで、思いっきりねじった。
「っ——」
予想以上に痛かった。痛みを感じるということは、ここは夢ではないということか? でも、こんなことが本当に起こるのだろうか。
「本当じゃないけど、嘘でもないよ」
唐突に、後ろから声が聞こえた。聞いたことのある声だ。振り返ってみれば、白いワンピースを着た少女が立っている。手を後ろで組み、晴れやかな笑顔を張り付けている女の子だ。
私。
身長も、丸まった毛先も、そばかすのある鼻も、私と同じだった。
ここが鏡の世界だからだろうか。
「そうだよ。ここは鏡の世界。鏡っていうのは、ただそこにあるものが反射されるだけのものじゃないって知ってた?」
私は首を横に振る。
「鏡っていうのはね、存在の投影なんだよ。あるものないものすべてを吸収して、複写して、それでいて必要なものだけ映し出すの。だから、身の回りにあるものがたまたま映っているからそれが本物だって思うでしょう? だから鏡は反射だと思い込んでしまう。だけど、本当はそういうことじゃないの。鏡の向こうには世界がある。大きさはそれぞれだろうけれど、その鏡がこれまで吸収してきた景色がそのまま蓄積されていく。表現されなかった世界は鏡の向こうで一つにまとまっていく。そして、その世界の中心に出会った時、全てが終わる」
彼女はゆっくりと歩きながら言葉を紡いだ。それは子守唄のように優しく、しっとりと耳に響く。けれども、外国の言葉のように、言葉を聞きとることはできても何を言っているのかを理解することはできない。それでもその中に含まれる意味というか、彼女の本意をそれとなく感じ取ることができるのだから不思議だ。
私が相当変な顔をしていたからだろう。彼女はクスリと笑うと言葉を加えた。
「要は、いらないものを捨てることができずにためておいてしまう人がこの世界の中心であるということだよ」
彼女はついに私の目の前へとたどり着いた。
細くて白い指で、私の顎をそっとなでる。
彼女の滑らかな肌が、骨を伝って脳へと届く。
「あなたは気づいていないかもしれません。世界の中心であるということは、誰もが気付かないことです。それに、全てが自分の幻想だっただなんて誰も思わないでしょう? 目に見えるからと言って、質感があるからと言ってそれがすべて本物とは限らないんです。視覚や感覚ですら自分で操作している可能性もある。そういった中で、この鏡の世界、本当の中心の世界では、全てのことが本当になる。蓄積された偽物は本物によって上書きされ、新たな本物へと変わっていく。そのために世界の中心は存在するのです」
彼女は小さくほほ笑んだ。
「これからも宜しくお願いしますね」