2024/3/11
「あの時ちょうど中学校の卒業式の前日でー」
黙祷がおわってすぐに目の前の先輩2人がそう話し始めたので、座ったばかりの椅子からそそくさと立ち上がって廊下に出た。
自分はまだ記憶を共有するまでにはいたっていないようだ。
こないだ、せんだいのメディアテークで震災の展示を見かけた時には「今、当時のことを話したい相手はだれか」という質問に「自分と同じ体験をしていない人」かなあと考えたが、撤回する。
まだ誰とも話したくはないかもしれない。
昨年の黙祷の時間は何をしていたのか思い出せなかった。コンクール中だっけ。
月曜日だったようだ。じゃあ会社か。
その前の年は新しい部屋への引っ越しの日で、母と一緒に車に乗っていた。
2019年の「月の流した涙〜」もそうだが、毎年3月の頭くらいに何かしら公演をしていて、そのどれも「別れ」や「記憶」にまつわるものだ。でも公演をしていなくても、3.11は「思い出さなければいけない」気持ちにかられて、1年でこの日くらいは記憶とちゃんと向き合うようにしている。
ずっと日記にとどめてきたその行為。
2023年のコンクールに際して、かながわの『レーン』と、せんがわの『リバー』でわたしは震災のことをとても鮮明に、そして初めて、周りの多くの人に発信した。
『リバー』は秋田と石巻でも上演した。
とてもこわかった。
自分から「これが言いたい」と決めたことだったからこそ、どう受け取られるのか、どうジャッジされるのか、嫌な気持ちにさせてしまわないか、こわかった。
一緒に創作してくれた人と、最後まで見てくださった方の力で、その生々しさが舞台上に乗るのをゆるされた気がする。
嫌な気持ちにさせてしまわないことは不可能だった。
しかしそれが善でも悪でもない、ただそうであるということを知れた。
「誰か」の存在があり。
「誰か」のことを想像して泣いていたし、「誰か」がいたから笑ったり、1人じゃなかったりした。
あらためてわたしは何ができるんだろうと考える。最近、何がしたいんだろう、に変わった。
お正月のニュースでひどく動揺した時に自分にできたこと、できなかったこと、あれが今の自分の全てな気もする。
これからもこの記憶とこの身体のまま死ぬまでいくのだから、演劇をしたり、ご飯を食べたり、東京に行ったり、寝たり、積み重なる時間の、でも一点には東日本大震災があるし、これからもっと沢山経験するんだろう。
もうその、なんか、悲しみの区別というか、人が出来事に悲しむことにそういう違いってないし、悲しいことは悲しい。すべて。そして、亡くなる人はみな等しく亡くなるという状態は同じで、っていうことを、上手く言えないなあ。
今日職場で黙祷をしながら、土曜日に見た市民劇と神楽、日曜日に見た演劇、その奥に高田の地面や、小学校の時に読んだチリ地震津波のこと、そして自分の家の墓地のことを考えて、全部人の営みの中の流れの一つのようだと思った。
黙祷の時間が終わる間近、光あれ、という言葉からわたしが感じ取る印象とおなじように、みんなのこれからがただ幸福であれ、と誰に願うわけでもないけど、そう願った。