言葉にできなくても、さすらって迷っても、原点に戻ろうと思った日の日記
目が覚めると6:53。部屋の中に朝の空気が満ちている。夜中に目が覚めずに8時間も寝たのはどれくらいぶりだろうか。祝いたい気持ちになる。いつものように少ししてから起きる。
カーテンを開ける前から太陽の暑さを感じる。小学校の教科書に載っていたような大きな「くじらぐも」の上に、パッカーンと太陽が照っている。はい、きた! 今日はとにかく洗濯だ。見下げる位置になるお宅の屋上では、すでに洗濯物がパリッと干されている。はやいな。
トイレを済ませ、洗濯機をまわす。お湯をわかし、家じゅうの開けられる窓を全部開ける。
PCを起動している間に、カードを引く。ペンタクルの5と死神の逆。ドキッとする。「孤立しそう。自分の古い殻にしがみつかないで」とメモする。あ、もしかしたら早く持続化給付金の申請をしろってことじゃないか。
1週間のレトロスペクティブと、毎朝のルーティン。続けて、2階のトイレ掃除。洗濯機2回目を回す。1階のトイレ掃除。続けてシャワーを浴びる。もやもやしていたことについて考える。
昨日読み終わった『日本語の作文技術』の中で本多勝一氏は、「紋切り型」の文章に対してそこまで言うかと思うくらい語気を荒げてダメ出しをしていた。
「ヘドの出そうな」、「最初から最後までうんざりさせられるだけの」、「いい気になっているのは自分だけで、読むほうは「へ」とも思わない」と言われてしまう文章は気の毒だが、例に出された文章を読むと確かにそうだなあとも思う。
読んでいて「気持ち悪いな」と思う文章は過剰な自意識の show offから来ているのかなと思っていたが、どうも表現の稚拙さからくる部分の方が大きいのかもしれないとシャワーを浴びながら考えていた。
この本は長らく持っていた割に読めていなかったので、このタイミングで読んでよかった。本多氏の姿勢に否定的な意見もあるようだが、テンの打ちかたや助詞の使いかた、段落についてなど、あやふやだったこと、知っていたほうがいいこともたくさん書かれていて得るものが大きかった。
その分自分も書きにくくはなるが、自分でよく書けたと思った文章が、誰かにとっては「ヘドの出そうな」ものであるというのはとても悲しい。人がどう思うかはどうにもできないにしても、やはり最低限知っておいたほうがよいことはある。そのことと、書きたいことを書けないとか、言葉にならないというのはまた別の次元の話だ。と、もやもやが落ち着いた。
部屋に戻り、化粧水とジェルをつける。evernoteにここまでを打ち込む。部屋を吹き抜ける風が腕や頬をなでていく。こういう瞬間がたまらなく好きだ。
3回目の洗濯機を回す。観葉植物に水をやる。枯れそうだったウンベラータに元気な新葉が出ている。よかった。洗濯ものを干している間に、3回目の洗濯も終わる。2階のベランダと1階の2か所の5本の物干しざおを使っても場所が足りないので、残りは室内干しにする。
洗濯が一段落したら10:30だった。ここでブランチ。
昨日の夜作っておいた炊き込みご飯とだしなす、かぼちゃの煮物、紫玉ねぎのマリネ、アマノフーズのお吸い物。たんぱく質が足りない。
食べながらNetflixで『鬼滅の刃』を2話分見る。首がごろんごろんと飛ぶので、食事をしながら見るものじゃなかったかも、と思いつつだんだん登場人物に愛着がわいてくる。
江藤淳さんの『作家は行動する』を読む。この本は、言葉が、なんというんだろうか、強く、重く、刺さりすぎてなかなか進まない。Kindleでハイライトし過ぎて、ほっといたら全部ハイライトしちゃいそうだ(というのは大げさだが)。今日はとりあえずここだけ引用しておく。
ことばでいいあらわせないから、いわないですませる。これは日常生活者の論理である。ことばでいいあらわせないから、いわなければならない。これが文学者の論理である。ことばでいいあらわせるものだけを書くこと、それは中間小説家の論理にすぎない。
江藤さんの文章は、内容がというよりその文体によって、身体に喝が入る。ただ、肚のあたりというよりは、反応しているのは胸のあたりだ。
読みながら、そういえばだいぶ昔に読んだ保坂和志さんの本に似たようなことが書いてあったような気がして本棚を探す。『書きあぐねている人のための小説入門』。以前ページを折ったところを読み直す。
小説家が小説を書くことによって成長することができるのは、難しいところで簡単に済まさずにそこに踏みとどまるからだ。
「力がない」という言い方を簡単にするけれど、プロの小説家に力があって、小説家になろうとしているのになれない人に力がないのではない。その人たちは力を振り絞れない(力の振り絞り方がわかっていない)のであって、力そのものはプロもそうでない人ももとは同じだけしかない。力は、振り絞らないとつかないし、振り絞れるようになるためには、そのつどそのつど苦労して書くしかない。
見直してびっくりしたのは、江藤さんの本との共通点というより、そこに書かれていることと似たようなことを最近自分が語っていたということだ。
文中の「小説家」を「何かを書いて表現したい人」と置き換えてみると、これは、以前インタビューのときに話して書いた「負荷」ということだ。
書いていて手が止まったときに「試される感覚」、すぐにそこから逃げてしまい感じていた「ふがいなさ」のようなものとつながって納得がいった。
保坂さんの本の内容は覚えていなかったけど、ページを折っていたということは意識の深い部分に残っていたのだろう。それが最近書き続けていたことで、自分の声として出てきたのだと思う。
「ふうっ」と思いながら、またここまでを打つ。今日はもはや日記じゃないな。備忘録とか感想録みたいになっている。気づけば13:00を過ぎていた。
コーヒーを淹れようとお湯を沸かす。ペーパーフィルターが残り少ない。冷蔵庫に貼ってあるマグネット式のホワイトボードに赤いペンで「コーヒーのフィルター」と書く。量りの上にマグカップを乗せて、ドリッパーとフィルターをセットする。コーヒーの粉が入っているキャニスターを開け、匂いを深く吸い込む。高い豆じゃないから「香り」という感じじゃないが、HILLSの匂いは好きだ。粉を量る。お湯が沸く。ゆっくり3回にわけて注いでいく。
郵便物が届いていないか、ポストを見に行くと「あ~あ~あ~」と3回カラスの鳴き声が聞こえてきた。今日はなんだかのどかなトーンだ。カラスには何種類もの鳴き声があるという。今日のはどういう意味なのかな。今度調べてみよう。
時間がきたので、ZOOMにアクセス。まるネコ堂の文章筋トレ6回目。今日は6人で、10分と60分の2本。
時間をとって、昨日書きたかったことを書けてよかった。1日おいたことが、逆によかったかもしれない。60分で書けることは限られているが、これもひとつの昇華の形だ。5人の人に読んでもらえたことが、弔いになったはずだ。ありがたい。しょうこさんにこの文章筋トレのありがたさをあらためて思い出させてもらったし、てるこさんの文章には「遠回りしていいんだよ」と大きく承認をもらった。
加えて、午前中に本で読んだようなことや始まる前にこの日記に書いたことが話題になっていたのも興味深い(過去にも交わされた会話なのかもしれないが私はその場にいなかったので)。
「言葉にできない」に逃げていたら、書く道を進んでいけない、と私は思っている。だからもう「言葉にできない」とは言わない。言葉は実体じゃなく記号だ。そもそも言葉にできないのが当たり前だから。言うのならばプライドを持って「まだ言葉にはしない」「今は寝かせておく」「明日以降の私が担当する」だ。
それでも。誰かが何かを言おうとして連綿と作られ、体系化されてきた言葉を、私の場合は日本語を、使うことができる立場にいる。だからこそ、泥の中から言葉を探し出すように「言葉にできない」に立ち向かい続けることが、それこそ書くことを続ける醍醐味ではないか。完璧に書き切ることなんておそらく誰にもできないだろう。それでも書きつくそうとして、その域でも書けないことが行間から漂うのではないだろうか(←これも言語化に挑んでいる)。
さらに、エチケットとして何気なく置いた文章が、読み手の読むスタンスに影響を与えてしまうのだという、文章というメディアの特性も感じた。煮物などで塩味を先にいれないのと一緒だ。料理にも文章にも、素材をおいしくするための適した順番がある。
だが、場づくりを自分がやるときには必ず最初に触れる。もしくは哲学対話のようなルールを共有して後だしじゃんけんや通り魔みたいなことが起こらないよう場をホールドする。それは職業倫理の問題か価値観の問題か。前回もそういう葛藤があって、思いっきり書けなかったんだよな。マイルドにくるんで書いてしまった。
ここまでの続きを打って、洗濯物をしまったら18:00。
本を読んでも文字が泳ぎそうだし、散歩に行っても続きを漂ってしまいそうだ。ブルブルマシンに乗って強制的にモードを変える。贅肉がかゆくなる。
その後はNetflixで『深夜食堂』を1話分観た。深夜食堂は自分をニュートラルに戻してくれる「心の実家」みたいな存在だ。シーズン1の10話は、マスターの「世の中は さすらい迷って戻り川 人生なめんなよ」で終わった。