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心配

心配症の母の元で育った。
その結果、跳ね飛ばそうとしてアグレッシブな人に育ってしまった。先回りして止められることが支配されてるように感じていた。なんで信じてくれないんだろうとずっと憤っていた気がする。だから今も事後報告しかしないし、もちろん相談もしない。

しかしどんなに抵抗しようとも心配性のDNAは引き継がれ、私も超ビビりである。なので、やると決めるまではめちゃ悩むし、新しいことにはいつだってぶるぶる震える。ほとんどのことは「やらない」選択を取る。

でも、震えながら悩むことって決意するための時間であって、結局のところやりたいんだという答えに辿り着く(このルートを辿らないと決意ができないめんどくさい性格)。未知の自分が見たくて、一歩を踏み出す。自分で決める。

そんなわけで、自分の心配で相手を覆ってしまう人を見ると、ちょっと冷ややかな目で見てしまう。対象の人には、がんばって跳ね飛ばせよ!なんてエールを送ったりして。

大人になったら今なら、大事な人ほど心配になる気持ちとか、手遅れになりたくない気持ちも少しだけわかる。自分の思い描いた人生を歩んでほしい気持ちもちょっとだけわかる。でも、それはその人の気持ちなので、それを第三者が解消する義務はない。甘えちゃいけない。

大事であればあるほど、ギリギリまで信じて優しい気持ちで見守ってあげてほしい。未知の自分を見たい衝動を壊さないであげてほしい。なんて思うのです。

わからないことの方がおもしろいし、若い時の失敗なんて、後から取り戻せることの方が圧倒的に多いんだよね。

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