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歴史的にみる足半

ずっと平仮名で明記してきましたが、あしなかは漢字では「足半」と書きます。文字の通り足の半分の長さしかないので足半と呼ばれているようです。
私が作った足半をはじめて見た方の中には、これは子供用でしょと言われる方も少なくありません。しかし手のひらにのるほど小さいサイズが大人用の足半なのです。

足半がいつ誕生したのかについては諸説あります。
しかし、鎌倉時代の絵巻物語「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」や「春日権現霊験記(かすがこんげんれいけんき)」にはすでに足半を履いたイラストが登場しています。
つまり約800年前にはすでに日本に存在していた可能性が高いです。
足半は通常の藁草履に比べて軽量である利点を生かし、主に農作業や漁業などの労働者が動きやすいようにと開発されたのではないかと言われています。さらに当時の藁草履は数日ほどで消耗してしまうものであったため、材料が半分で済むことと作る手間も減らせるという利便性も含めて足半が重宝されたのではないかと推測できます。


蒙古襲来絵詞 足半を履いている


藁の足半

あの有名な戦国武将織田信長もまた足半を愛用していたと思われる記録が残っています。
尾張の武将で織田信長に仕えていた兼松正吉(かねまつまさよし)という方がおり、朝倉義景との刀根坂の戦いの折、正吉は敵の首級をとって信長の御前に参上したが、裸足で山中を駆け回ったために、足が血に染まっていたそうです。信長は彼の働きを賞して、日ごろから携帯していた足半を与えたと伝えられています。(しかもこの足半、本当は信長本人が履くために持参していたそうで大変な名誉なことだと正吉も語ったそうです)
この足半は正吉のご子孫の方が秀吉清正記念館に寄贈されて、現在は名古屋市指定文化財となっているそうです。

こうして足半は庶民や武将に重宝されて日本人に必要とされ続けてきました。
江戸時代になっても足半文化は衰えることなく、庶民の間で広く履かれ続けていきます。
飛脚という手紙や荷物を迅速に届ける役割を担った職業の方たちは、長距離を走るために軽くて動きやすい足半を使いました。
長距離を走るためには履物がとても重要であり、足に負担をかけない足半は飛脚たちのスピードと持久力をサポートしていたと考えられます。


足半を履いている西郷隆盛像 

西郷隆盛像も足元をよく見ると足半を履いています。
鎌倉時代ころから日本人と密に歩み続けたあしなかは、こうして江戸時代後期ころまでの約700年という長い年月存在し続けたことになります。

しかし、江戸時代が終わり明治時代がはじまると西洋の靴が日本にも入ってくるようになります。それでも庶民にとってはまだまだ藁草履を履く文化が続いていましたが、昭和に入るころには洋式の履物が一般的になっていきました。こうして足半文化は衰退していったのです。

現代に残る足半

鵜匠さんの足半


岐阜県長良川の鵜飼い

岐阜県長良川で現在も行われている鵜飼では今でも鵜匠さんは足半を使用しています。
ちなみに織田信長は鵜飼も好んでいたそうで、鵜飼する人のことを鵜匠と名付け保護したのも信長だそうです。
川や船の上で行う作業のときに足半を履いているとすべりにくいそうです。
「すべりにくい」と「鵜飼」をかけて「ご鵜かく祈願お守り」「すべらない!鵜かるお守り」なども販売しているようです。


ご鵜かく祈願お守り

次回 再び現代に現れたあしなか

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