読了『さくらのまち』
ここしばらくの間、それなりに忙しく動いていたのだけれど、ようやく読み終えることができたので残しておく。
いきなりこういったことを書くのはどうなんだろうと思う自分がいないわけでもないけれど、思ってしまったものは仕方がないので書いておくことにする。
僕は毎回、三秋縋という物書きの作品を読むたびに「自分という人間はきっとこの本を読むために生まれてきたのだろう」と思う。さすがに大袈裟に言っているところはあるけれど、僕という人間の歩いて行く道のどこかにはこの人の書く物語が置かれているのだろうなとは本気で思っている。
この『さくらのまち』という作品は、詐欺まがいの行為によって生計を立てる、いわば“サクラ”を生業としている主人公・尾上が主な語り手となって展開されていく。メインヒロインの枠を取るのは高砂澄香という女の子だけれど、物語の現在時間軸ではすでに故人となっている存在だ。
自殺願望をもつ人間、作中では「自殺ハイリスク者」と呼称されている人間に対して、その自殺を防ぐための“サクラ”があてがわれることがあるという世界観の中で、尾上が自身の過去に対して復讐を目指すというのが大筋といって差し支えないと思う。
三秋縋という人が「死」というものについて書くときに、「緩やか」やそれに類する形容詞をつけて語ることが多い。この「徐々に」というような死への導線が、読み手のページを捲って物語を読み進める動作をどこか小さなところで共鳴しているような感覚がして、この物語が伝えてくる内容を一段深いところで捉えられる。
この物語を読み始めてから中盤を過ぎるくらいまでは、どことなく違和感を覚えるものだった。この違和感を明確に言葉にしろと言われたらそれはできないのだけれど、一番近しいのは「物足りなさ」だと思う。この感覚は今までに三秋縋作品に触れてきている人にのみ伝わる感覚だと思う。ものすごく平易で安っぽく言ってしまえば、「三秋縋感」が足りないということだ。
しかしそれも終盤の展開で消え去って行く。登場人物たちの感情に沿って怒涛の勢いで感じさせられる「作風」に、これこそが三秋縋だなと思わずにはいられなかった。この人の描く“ボーイミーツガール”(この『さくらのまち』はミステリとして分類されているが、側面としてはBMG要素を持ち合わせているといっていいはずだ)は本当に素晴らしいと改めて思った。何が素晴らしいかといえばそれは極限まで突き詰められた「どうしようもなさ」を持っている点だ。もう何をどうしても覆らない後悔をここまで美しく儚く書ける人はいないとさえ思う。
序盤〜終盤にかけてひたすらにずっと“最良の面白い”を届けてくれる物語というのはきっと類い稀の中の奇跡のようなもので、そうそう存在しないと思う。
『さくらのまち』も例には漏れず、読み始めから終わりまで完全なわけではない(ミステリだからそれはそうだろうと言われたらそれまでではあるが)。
終盤に畳み掛けてきて、かつ三秋縋という人間の持つ絶対的な文章力を味わえる一冊になっていると思う。
この“メリーバッドエンド・ボーイミーツガール”を味わわずに過ごす読書人生はおすすめできないので、是非一度手に取ってみることをおすすめしたい。