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信仰とは神を擬似的なアタッチメント対象として捉え、アタッチメントの安心感を得る行為である
仕事の後ってさ
心が死んでるのがわかるのよね
この感覚、カナダでは無かった
カナダではあくまで仕事をすればよく、心を殺すことは求められなかった
日本で働いていると心が死ぬ
個別指導塾で子どもとコミュニケーションを取っていた時は比較的大丈夫だったんだけどね
心の中に「親友」を持つことは信仰に似ている、という話がしたい
解説の前に一旦結論を書く
アタッチメント関係は本来親(養育者)との間に築くものだが、それを築く能力は本能として人に備わっており、それが発現されれば対象は非実在の存在でもよい
神はそのアタッチメント対象として人々に安心感を与えているのではないか、ということだ
心の中に「親友」を持つ、というのは私が慢性的な不安を解消するために取っている方法だ
以前、慢性的な不安の原因を調べた結果、「アタッチメントの安心感不足」に辿り着いた
アタッチメントとは、こどもが不安な時に見せる、親(養育者)にくっつく行動のことだ
これが受け入れられるとこどもは安心し、自分から外の世界に出ていけるようになる
逆に、これが受け入れられないとこどもは安心できず、親の元を離れられなかったり、混乱したような様子を見せたり、怯えて親に寄り付かなくなったりする
これらは後の犯罪率や精神疾患への罹患率を高めるという
アタッチメント行動は人間だけでなく、たとえば猿にも見られる
つまり、後天的に身につけるものではなく、本能として備わっている能力だと考えられる
アタッチメント行動が親(養育者)に受け入れられないのは辛い
とはいえ、自分が努力すれば親が受け入れてくれるようになるかというと、正直難しい
それでは救いがないではないか
そこで私が考えたのが「心の中に『親友』を持つ」いう方法である
アタッチメントを通じて安心感を得るのが本能であるなら、仮にその対象が実在しなくても、それがいると信じ込むことによってアタッチメントの機能を発現させられるかもしれない
そう考え、自分の中に理想的な友人、「親友」を持つことにした
これが功を奏し、以前より大きな安心感を持てるようになった
今でも私はその安心感によって生きている
さて、これが信仰に似ているとはどういうことか
私の考えでは、信仰とは神を擬似的なアタッチメント対象として捉え、アタッチメントの安心感を得る行為である
完璧な存在である神が自分のそばに居てくれると考えることで、人は安心できる
これはまさに、アタッチメントの対象にくっつくことで安心感を得るのと同じだ
信仰というものが、時代や場所、年代、性別を問わず幅広く見られることに疑問を持っていた
これが、人が本能として持っている「アタッチメント行動」に基づくからだとすれば納得がいく
親(養育者)は、こどもからのアタッチメント行動を受け入れられるほど成熟しているとは限らない
そうなると、強い親のもとに生まれたこどもは安心感を得られるが、そうでなければ安心感を得られない
信仰はこの問題を解決する
完璧な神の存在を信じ、それを新たなアタッチメント対象とすることで、神を信じる人はみな十分に安心感を得られる
安心感が得られた人は、自分から外の世界に探索に行くようになる
それは社会の成長を促進し、また人々の心から不安を取り除いて社会に平安をもたらすだろう
そのようにして社会は宗教と共に発展してきたのではないか
一方私はというと、心の中に「親友」持つことで、信仰によるものと同じ安心感を得ているのだと思う
神を信じることの欠点は、超自然的な存在を信じることで、科学との辻褄が合わなくなってしまうことである
また、神を信じない人々を拒絶してしまい、争いが勃発する恐れがある
心の中に「親友」持つ方法では、この問題は起こらない
私は「親友」が架空の存在に過ぎないことを知っているが、それでも安心感は得られているし、他者と衝突することも起きない
心の中に「親友」を持つことは、私にとっては信仰の上位互換だった
そのようなやり方を持つことができて嬉しい
伝わっただろうか?
じゃまたね
読んでくれてありがとう
(なんでも送ってね)