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私小説と写真──荒木経惟『冬の旅』

文: 東雲かやの(Turn the Page)

 写真をめぐる言説においての<私>ブームは、一九七〇年代前半に最盛期を迎えた。そのタイミングは、個人の社会参加で世界を変えられるというロマンティシズムに沸いた六〇年代的ムードの中で “公=public" に向いていた人々のまなざしが、ある種の失望感を持って “私=private” の方向へと急転換されていった時期と重なっている。私写真・私現実・私日記・私景・私性といった表現を次々と生み出し、この<私>ブームの火付け役となったのが、荒木経惟だ。

<私の場合ずーっと私小説になると思います。私小説こそもっとも写真に近いと思っているからです。>

(『センチメンタルな旅』1971)

との宣言どおり、荒木は私小説=<私写真>を撮り続けた。愛妻・陽子の死を撮った『冬の旅』(1991)も、その延長線上に位置している。

<この写真がふたりで最後の写真になってしまった。>──そんな悲しい言葉の隣に配置された、一枚の写真。そこには、微笑みながら手をとり踊る、荒木と陽子の姿がある。日付入りの写真と日記風の文章とで編まれた『冬の旅』は、ここから出発する。この最初の一ページは、『冬の旅』の二つの特性を如実に物語っていよう。まずは、絶対的な時間=変化によって、写真の中の荒木と、言葉を紡ぐ荒木とが分断されているという点。次に、写真を撮っているはずの荒木自身の姿が自然に写り込んでいるという点。この二点は、<私写真>を撮り続けてきた荒木の<私>を考える上で、重要な要素であると思われる。

 <私>を語るという行為の過程で姿を現すのは、語る<私>/語られる<私>という二人の<私>である。そしてそれらと同時に、相関的に浮かび上がってくるのが、二人の<私>の境界に横たわる時間=変化であり、また、時間=変化が抱かせる感懐そのものであると言えるのではないだろうか。
『冬の旅』における陽子の死は、作品の主題であると共に、荒木の<私>を分断する境界面としても機能している。愛する人の死は、自らの知覚世界から永遠にその人を喪失することを意味する。肉体に触れることを許されず、見ることすらかなわない。その人は、もはや、自らの言語概念の中でしか存在し得ないのである。《それは=かつて=あった》(ロラン・バルト)という現実だけを視覚的に突きつけてくる非情な写真と、かつての現実を想像的に手繰り寄せようとする荒木の言葉。不可逆な時間の中で起こる死というドラマは、<私>なるものを分断する。『冬の旅』が私小説= <私写真>として成功している理由は、語る<私>と語られる<私>の両方を、言葉と映像という形で明確に呈示した点にこそあるのだろう。その構造は、時間=変化によって分断された多層的な<私>を描き出すという私小説の特質を、図らずも鮮やかに示し出しているのである。

 次に、写し出された荒木の肉体について考えてみたい。最初の一ページのみならず、『冬の旅』には荒木自身の姿が写された写真が数枚収められている。陽子の病室で紙マスクをした荒木、<お互いにいつまでもはなさなかった>二人の手、<カシミヤの赤いマフラー>をした通夜の日の荒木──。それらはどれも、荒木自身には撮ることのできないはずのアングルである。

<写真で、被写体をさらけだすことはできないであろう。しかし、自分自身をさらけだすことはできる。>

(「ストリップ・ショウは写真論である」『芸術生活』1976.10)

と荒木が言う時、そこには、“対象を客観的に写し撮るための手段”という従来の写真概念の、ダイナミックな転倒が見られる。荒木が作品の中に、積極的に自分の姿を写し込む背景には、これに類する転倒があるのではないだろうか。
 写真における客観性を主観性として捉え直す荒木は、おそらく『冬の旅』の中で、記録という客観を、記憶という主観に反転させているのだ。頭の中で、自らの過去が到底あり得ないアングルで想起される不思議を、誰もが一度は経験しているだろう。あり得ないアングルで思い起こされる<私>、紛れもない<私>の姿として認知される、あり得ないはずの<私>の像──。
あり得ないアングルの荒木の写真は、この、想起される自身の姿をストレートに表現したものであり、それゆえ見る者の眼に自然に映るのだと考えられる。

写真の対象となり得る生は、この肉体でしかない。写真は、本当は、恐ろしいものなのだ。それは、私らが生きているということと思っている私らの頭や心の中のことを一切写し取ってくれないのだ

(鈴木志郎康「事実から脱可想へ」『写真批評』5号/東京総合写真専門学校出版局/1974.2)

鈴木の指摘とおり、写真の中のものはすべて、《この世の一つの事実でしかない》。元来、写真の特性はその揺るぎない客観性にあるとされ、そのことこそが人々に信頼や感動を与えてきた。しかし、客観性は見方を変えれば残酷さであり、浅薄さでもある。たいへん、《恐ろしいもの》だ。
荒木は写真のスタティックな客観性を逆手にとり、写し出された自らの肉体を、記憶という"想像物”に変えてしまう。肉体のリアリティは、実体としてではなく想念として浮かび上がる。事物を自分の側に手繰り寄せたところに表現を成立させるという点において、荒木の写真は、非常に言語的であると言える。陽子の死顔や遺骨の映像が美しく詩的であるのも、実体を想念に変えてしまう荒木作品の世界ゆえであろう。

 <荒木が撮ったんだっていう写真>、<おれが撮った陽子>でなければ嫌だと言う荒木は、写し取るすべての事物を、そして自分自身をも、<おれの>ものにしてしまう。荒木は、《それは=かつて=あった》という写真の中の事実を、今現在<私>の中にある想念として語り直してしまうのだ。そして、そのダイナミズムが、時間=変化で分断された<私>を辿る過程と重なり合いながら、『冬の旅』という私小説=<私写真>を形作ってゆくのである。(初出 『私小説研究』第5号/法政大学大学院私小説研究会/2004.3)

東雲かやの
鎌倉長谷のセレクト本屋、ARTS & BOOKS Turn the Page店主。
IG:@turnthepage_kamakurahase
WEB:https://turnthepage.stores.jp/


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