#15 John Spinks Harrowdown Hill
John Spinks Harrowdown Hill
伊藤 明日香
もう一度、最初から始めよう。
同じことを言い続けたら、何も言っていないのと同じになっていくのだろうか?
そうはいってもこの本には始まりも終わりもない。ただひたすらに道が続いている。頻繁に現れる似たような風景にはいつの間にか既視感を抱き、まるで彼がこの本をつくるきっかけとなったと記しているDr. David Kellyがみていたかのような心理状態を感じさせるようだ。
タイトルの『Harrowdown Hill』はトム·ヨークが2006年に彼のソロアルバムからファーストシングルとして出したものと同タイトルであり、制作への創起も同じであると記されている。この本の始まりはイラク戦争の開始、つまりは米英軍がバグダッドへの空爆に至るまでのきっかけとなる、”フセイン政権による大量破壊兵器所持の危険性”を示唆する情報を集めた人物が David Kellyであり、実はそれらは虚偽の誇張された情報だったのではないか、そして政治的圧力によりそれらを報道に流したとされていることがDavid Kellyの自殺と関係しているのではないかという背景から始まっている。(David Kellyの死因については引用でしかここでは触れられないため Wikipedia の通り自殺と記している。)
David Kellyは彼が遺体で発見されることとなったHarrowdown Hills Oxfordshireに当時暮らしており、亡くなったとされる日の朝も散歩へ出かけると家族に言い残していたことから普段から日常的にこの丘の景色をみていたはずだ。
この本の制作にかかった年数は2008-2023とあるように彼のキャリアでも際立って長い制作期間がかけられている。しかし、本を開いてみるとその内容はクラシックでありながらも挑戦的に感じられる。私自身、ここまで記憶力が乏しいのかと感じさせられてしまうほどに、いったい何度同じ風景を見せられているのか初見では把握できない。美しさを超えて退屈なまでに貫かれた一点透視図法80点超のプレートたちはタイポロジーやコレクティブという類の方法論ではなんだか説明がつかず、時折挟まれる空の写真は息継ぎのための水面上昇を与えてくれるかのようだ。この本が単なる Harrowdown Hill の自然や生態系への賛辞を示すためのものではないという点をいくつかあげたい。
まず第一に、同じ景色の見開き並列写真。光の質が若干変化しているがこれは季節の移ろいは感じられず、おそらく数分後、数十秒後に雲が移動してから撮影されたものだ。同じ被写体を撮影する作家は山ほどいるが大多数のそれは変化や時間を表出させるための手法だったり時には”なんとなく”だったりする。Rineke Dijkstraのように10年以上に渡って同じ画角で被写体の外見の変化、成長もしくは老いを捉えるものやRoni Hornのポートレート連作によって表情を通しての空気自体が私たちに視覚の情報として認識されるもの、最近の写真集だとBrigham BakerのONLY APPLES(EDITION TAUBE)などが例として挙げられる。他にもWolfgang Tillmansのようにサイズを変えて同じ写真を幾度となく展示することで写真が得られたのは、Editionという概念とは異なって、反復するイメージに対する価値、MatterやPotentialだった。しかし、John Spinksの写真で個人的に興味深い点はわずかながら画角がパーンするように左右にずれていることだ。なぜだろうか。三脚をすえて低速シャッターで撮影していることは木々の揺れとそのほかの静止の差をみると間違いないと思われる。大判カメラで撮影していたことはわかるが彼のキャリアを考えればフィルムチェンジの際にこのように画角が動いてしまうことはおそらくないだろうしここまでストイックに撮影を続ける者がわずかでも画角に対して手を抜くことはないだろう。大判のネガ故にフォルダー内でのわずかなズレができてしまったのだろうか。もしくは暗室作業でキャリアにネガを入れる際にわずかに画角がずれてしまったことも考えられる。製本での編集作業の際にずれてしまったのか。並列で並んだ写真の同ポジをミスするだろうか。そう考えると、おそらく意図的にずらしているのではないかと思えてならない。意味不明なのは左右という点だった。前後ならまだ理解がしやすい。撮影者が1歩でも前進したのなら写真のわずかながらの変化でも左右のそれとは今回なら全く違った意味をもちえるが、その画角の変化ではなく、本当に左右の移動にみえる。それなら同じ写真ではダメだったのだろうか。全く同じ版からつくられたであろう写真も実際にこの本の中に登場する。そして全く同じ画角の時間違いの写真も登場する。(これは本当に全く同じ画角)もう読むのもめんどくさくなってきただろうが、説明するのもめんどくさい。写真集を実際にみていただくのが早い。
この本の中盤でわかりやすく連続した写真が続く。一つは自殺を思わせるような木にかけられたロープだ。こちらも左へと回り込むように画角が変わるのが不思議だ。霜が降りていることから季節の変化が伝わってくるが、なぜここでそれを伝えてくるのかはわからない。そして前進をするようなシークエンス。
さて、撮影方法のことについてはいいとして、最も重要な点であると思われるのはこの本がイラク戦争を背景として制作されたJohn Spinks流のドキュメンタリーであるということだ。Harrowdown Hillという土地が抱える物語があり、そこには政治的圧力により命を落としたDavid Kellyという人物がいた。しかし、こうした政治的な物語を背景としながらも非常に繊細で詩的につむがれているためタイトルや序文抜きにしてみるとそれは自然の移ろいや光の美しさを讃えてしまうほどではないか。ただただ道が続いていくページをめくることはただただ歩くことに等しくも感じられる。そしてひたすらに前を向き続ける視線に明確な対象や意図は感じられず、歩くという行為を視覚的に表現しているかのようだ。何かを言及してしまうこと、そして一度外に出てしまった情報は危険性を含んでくるからこそ、John Spinksが選択したアプローチの慎重さがこの物語の複雑さ、そして私たちがいかに情報の表面に左右されてしまいやすいのかを表している。何度も言うがあくまでもこの写真集に写っているのは道でしかない。だからそれ以外は何も言っていない。と表面的には言っているかのようだ。こちらからのアプローチでしか写真にうつるその土地が話す言葉を読み取ることはできないことから、撮影者が目指しているのは読み手との対話的な関わり方だろう。プロテストの一つのあり方とも言える。
Web上のイメージを0.5秒で次々にみていくことに慣れている現代にこのシークエンスともとれる執拗なまでの似通った情報は非常に退屈に感じられるだろう。しかし、その執拗さが語るものはこの形でしか成し得ないのではないかと読み込むほどに思えてくる。立体的、全身体的な展示ではこの微妙な差異を感じ得ないかもしれないし、超平面スライド式のweb上でもなおさらのことだ。この本という形をした執拗さがなくては立ち上がらない亡霊が確かに存在している。
そこに写る軌跡が、写真とはあくまでもカメラが写すものであることを教えている。Johnは撮影中に、肌をつたう風、その温度、地面に差し込んでくる光、木々が触れ合って擦れるようにサラサラと出す音、上空をはしっていく航空機のエンジン音、時には森が抱え込んだ強い湿度やなにかを感じていたはずだ。その身体性をもってして撮られた写真はカメラが前を向き続けているのにその先に彼が見据えているものは裸眼では見えないもの、何かであるように感じられてくる。しかしカメラはその何かを写すことはせずただ彼の眼前を収集していくのみだ。そしてJohnとカメラはその隔たりをたもったまま森を進んでいくが両者の間に立ち上がっていく写真はまるでその概念的な時間、空間という枠を抜けて全く別の空間にループを作り出しているように感じられてくる。その軌跡は撮影者であるJohn Spinksという人物すらも巻き込んでただただ森を広げていくだけだ。
同じような景色でも多方面から繋ぐことで立ち現れてくる情報がその景色を一変させる。一見ソリッドでコンセプチュアルなアートブック的様相を持ちながらも、情報一つで確固としたドキュメンタリー、真実の追求、問題提起へと中身を変え、美しい自然の中に見えてくるある人物の姿を捉えたような擬似体験にまで幅を広げる写真集ではないだろうか。
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執筆者
伊藤 明日香
言葉が好きです。写真も好きです。
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