地獄の底の花───他人軸と加害性の狭間、相対、自己矛盾
きっと、何もかも向いてないんだろうと思う。
ここ最近、地獄のような日々を過ごした。眠っているのか、眠っていないのか、よくわからない日々を過ごした。謎に涙が溢れ、つねに自分が向かうべき道をただひたすらにまっすぐ歩みながら、その裏では何度も転んでいるような、そんな日々を過ごした。否、今もそうだ。というか元々そういう性質は私の中に眠っていて、私はいつも矛盾した自分を飼い慣らして生きている。
そんな折、友人と話していてあることに気づいた。それは「私は私を軸に生きていない」ということだった。自分が想像している以上にこの世界は利己的で、自分本位に生きていることに気づいた。でも同時に、それは私が今まで無意識の奥底で気づいていたような気もした。複雑だなあ、そう思うだろう。私が1番思う。自己矛盾を繰り返し、思考は常に真反対側が揺らめいている。それに時折疲れて、なにもしたくなくなって、塞ぎ込んでしまう。それが、ここ最近の地獄のような日々だった。
特に地獄だったのは、己の加害性を自覚してしまったことだった。ある日、フェミ系統やLGBTQ+のニュースを見ながら、私は多様性と私の持ちうる加害性に思慮を向けていた。その時、私の心の奥底に絶対にマイノリティには属せない自分を自覚してしまった。だから私は多様性は認めたいけれど、私自身の加害性には目を向けたくなく、でも向ける必要性も感じて向けてみれば、この加害性に足を取られて死にたくなった。自分の立場もわからないまま、ゆらゆらゆらゆら、自己抑圧に終始する、この形はきっとマイノリティに属し、社会を変えようとする人からしたら唾を吐いて殺したいだろう。そう思った。きっと、甘えている、そう唾棄したいだろう。というからするだろう。だが、これが事実なのだから仕方ない。そうやって自己抑圧に埋れてみるが、己の良心がそれを許さなかった。でも人間は楽な方向に動く。私にとって簡単な逃げ道、自己抑圧に埋もれるほど、上と下の立場で人間を判断する人間そのものに嫌気が差して、見えなければよかった、考えなければ良かった、知らなければ良かった。そんなことまで考えてしまっている。というか、いた。だから私はそういった話をする人たちを見ながら、私は生きる価値のない人間だなあと自らを定義していた。と同時に生きるのが辛かった。私だって辛いのだと叫ぶことが許されないことだと自分が1番自覚していてそれが苦しいのにそれを認められたくてでも認められたらられたで、きっと加害された人間は恨みつらみを忘れないだろうというのも理解していた。そんな気持ちを押し殺して、仲良くするのが、正直苦しかった。そして苦しいと同時にたまらなく愛おしかったし、愛おしい。わたしには眩しすぎるのだ。そういう生き方ができる人間は。そして私はそんな自分の加害性を認める必要性を理解しながら、自分についた傷を癒す方法はわたしが加害しないようにすること、そう理解してそう努めているはずだった。でも彼らからしたらそうではないらしい。そんなことを考えながら、自分の限界を悟っていた。でももう片方の頭の片隅では、自分より生きるのが辛い人がいることを、傷が擦り切れて痛くなるほど理解している。そして、私はそういう人たちを心から愛していた。否、愛している。けれど、同時に自分を苦しめる一面をも含んでいることを理解している。面倒な人間だろう、そんな人間とは関わりたくないよ、きっとそう思うだろう。そう思うから、隠してきた。でも、もう無理だ。そろそろ限界を迎える。でも、心からこれは言う。加害性に気付けたことには、心から感謝しているのだ。そしてそれを直接言う勇気は私には持ち合わせていない。だからこんなクソデカ文章を書いている。
大好きで、大嫌いで、寄り添いたくて、でも寄り添えなくて、でも理想的でありたくて、でも現実を見ようよと思う。抽象的で伝わりにくいと思うけれど、具体的なことを考えたいとは思っている。私という人間は、本当に自己矛盾の塊だと思う。でも全部本当の私で、でも全部私の一部だ。
きっと、考えないほうが楽だろう。
そう思う時もあったし、そう言われることもあった。でも、考え続けたいのだ。考えるのが嫌だと言いながら、考え続けたい。人間は考える葦である、なんてことを言い出した人間は殺したいほど憎いが、私から考えることを奪われれば生きていることは難しいのではないかと思う。
相対している人間性、自己矛盾とその受容。これは私が生きる上できっとずっともう生涯付き従っていく命題だと思っている。でも、私はそんな命題に考えをすり減らす自分が大っ嫌いで、同時に大好きなのだ。
けれど、私はふと考えることがある。
どうしたら、楽に生きられるだろう?と。
私を自分本位の生き方をしていないと断罪した友人のように、自分本位で生きる生き方に、ひどく憧れている。でも、自分にはどうにもできそうになかった。それが眩しくて、目が眩みそうだった。生まれつき私は片方の腎臓がないのだけれど、どうやらその腎臓の中に私は自分本位という考え方を置いてきたのだろうか。そんなありもしないことがよぎるほどには考えていた。
そんな思考回路を巡回していたある日、私はひとつだけ気がついたことがある。
「私は、私を大切にしてくれる人のために生きれば、いいのではないか」
自分の大切な仕方はわからない。けれど、自分を大切にしてくれる人のために尽くせば、それは自分を大事にしていることにつながるのではないか。そんなことを考えた。一見、短絡的なように見えて、かなりいい考えではないかと思っている。でも、もしかしたら続かないかもしれない。
そんなことを考えながら、地獄の底で見つけた花を撫でている。
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