あぁ、私はきっとこの言葉を待っていた。
いつからか、心のどこかで「幸せの順番待ち」をしているような感覚があった。ほんのちょっとのひっかかり、という程度だけれど。
別にそんなことしなくていいし、誰のことも待たずに思い切り自分が幸せになったっていいのに、なんとなくそうなりきれない自分がいた。
右にならえ、で不幸でいる方が安心したのかもしれない。
幸せになるためには、自分で責任をもって行動しなければならないから。
仲の悪い両親を差し置いて、我が道をゆく。幸せになる。
婚活に苦戦している友達を差し置いて、自分が幸せになる。
……できなかったな。
多分それは、優しいとかじゃなくて怖かっただけ。ひとりになるのが嫌だっただけだと思う。ひとりぼっちになるくらいなら、なんとなく不満を抱えていても、幸せになれなくても、馴れ合ってそのままでいたかったんだろう。
この年末年始も実家には帰らず、年始の挨拶を電話一本で済ませることにした。
いつものように「地元には戻らないのか」「いい人はいないのか」と問われることを覚悟して、5日ごろになってようやく発信ボタンを押して。
でも、今年言われたことは意外なことだった。
「元気でやっているなら、良かった」
「お仕事と人に恵まれているなら、良かった」
「そっちで楽しく過ごせているなら、良かった」
「私も元気で楽しくやってるから、心配しないでね」
ただ、それだけ。
覚悟して、目をぎゅうって瞑るくらいの気持ちで電話したのに、何かを問い詰められることは何もなくて。
本当にただ、それだけ。
だけど、「それだけ」であることが、びっくりするほど嬉しかった。
嬉しいと感じたことで初めて、私は相手の期待を勝手に背負いすぎていたんだということにも気がついた。
私が地元に戻らなければ、結婚しなければ、子供を持たなければ、この人の人生が幸せになることはないのではないかと。
そんなことないし、気にもしなくていいって頭ではわかってるのに、結局ずっとそれが心に重くのしかかっていたことに初めて気がついた。
だから本当に嬉しかったな。
私の近しい人のなかでは、この人が最後の「順番待ち」の相手だった。
でも、この人ももう、大丈夫。
そう思えたことで、やっと、私も好きに生きていいのだとそう実感した。
そしたらそれ以降、びっくりするほど毎日心が軽く生きられているし、どれだけ(勝手に)他人の幸せを背負っていたのか……とも思った。
そして、今回もらったこれも「愛すること」のひとつなのではないかと。
何も押し付けず、変な期待もせず、ただその人がその人らしくその人なりの人生を送ることを願う。
愛、じゃないはずがない。
私は滅多に実家に帰らないし、人間っていつ死ぬかわからない。
もしかしたら、生きてる間にもう会わない可能性だってゼロじゃない。
だからこそ、電話越しでもその言葉を直接もらえて本当に良かった。
おばあちゃんありがとう。
私ちゃんと、自分の人生に責任を持って、幸せだって笑って生きられるように過ごしていくね。
そんな2025年の始まりでした。
……でもやっぱり私ははみ出して生きるの苦手だから(といいつつ結構自由に生きてるけどさ)、ちゃんと「幸せそうに生きてる人」たちと一緒にいる、っていうのも大事だなって思ったよ。
もう変な順番待ちしなくていいように。
そして私も、押し付けあい馴れ合いを誘発しないように。