もっと、自分のいる世界を信じること。
「スピリチュアル的には、”自分の周りにはいい人しかいない”って信じてそう決めてしまったら、本当にそんな人にしか囲まれなくなるんだよ」
という話を聞きました。
聞いた話ですし、私には真偽もわかりません。
ですが、スピリチュアルかどうかをさておいても、心理的にそれってそうかもな、と思ったのでここへ書き残しておきます。
例えばAさんとBさんがいるとして。
Aさんは「自分の周りにはいい人しかいない!」というポジティブ思考の持ち主。
Bさんは「世の中には悪い人がたくさん。気をつけて生きていかないと」と思っている。
多分、何かにつけてAさんは気軽に他人を頼れると思うんですよね。
アドバイスをもらったり、困った時に「どうしよう!」ってすぐ助けを求められると思う。
Bさんは、それがしづらいんじゃないかな。だってどんなアドバイスをされるかわかったもんじゃないから。
うっかり困っているところなんて見せたら、つけ込まれるかもしれない。騙されるかもしれない。笑われるかもしれない。
という2人だったら、きっときっと、Aさんの方がいろんな選択肢を得られるし、いろんな行動を起こせると思う。
そしてそれは、どんどん自分の世界が広がること。
Aさんの世界は、もっともっといろんな色で彩られていく。
仮に頼った人の中に”わるいひと”が混ざっていたとしても、もらったアドバイスの分母が大きいぶん
最終的にそのアドバイスを選択する確率は減るだろうし、もっと素敵なアドバイスの実行に目が向いていたら
そんなもの余裕でスルーしてしまうと思うんですよね。
結果、そんな人が混ざっていたという印象はAさんの中では薄くなる。
でもBさんの方が選択肢が少ない分、世界の広がりは少なくなるし
よくないアドバイスを選択する可能性は膨らむ。
結果、「やっぱり…」となることも多くなって、余計に人を頼ることに慎重になる。「悪い人もたくさんいる」という印象が強くなる。悪循環。
そもそも疑ってかかっていた方が、粗探しもしてしまいがちになると思うんです。
まるで福袋みたいな。
「どうせいらないものもたくさん入ってる」と思っていたら、「やっぱりね」って思うだろうし、「わくわく!」と思っていたら、結構なんでも面白がれる。
どこに目をむけるか、ですよね。
とはいえ「世界が広いこと」「選択肢の多いこと」が必ずしも「その人にとって幸せなこと」かどうかはわからないし、その塩梅は人それぞれ心地いい範囲でいいと思うけれど。
そして疑ってかかることもリスク回避としてはとても重要なこと。
だけど……きちんと真正面から向き合って分析した上でリスク管理をすることと
初めからただ疑ってかかることは全く別物ですよね。
前者は「いい部分もあるかもしれない」とフラットに向き合っているけれど
後者は前提として疑いに比重があるから。
まあなんというか、恥ずかしながら私はずっとBさんのスタンスで生きてきてしまったので、
これからはAさんになりたいなって、冒頭の話からそういう気づきがでてきたよ、という自分メモでした。
そういうスタンスで生きてきていたことも、割と“やっと気がついた”に近いです。
もっと、自分の生きるこの世界を信じてみたい。
もう、怖くても怖がりながらでも、自分の世界を広げたい。
いろんなものを見て、いろんな人と関わって。
いろんな色を、感じたいです。