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「そんなつもりはさらさらなかった。」


あほらしいなと、朝のニュース番組を横目にバタートーストにかぶりついていた時期がわたしにもあった。先月まであった家族はみな家を出てがらんどうとしている。大幅なリストラ。首切りの対象にされたわたしは24年間勤めたハウスクリーニングを専門とする小企業を本日退社した。手に残ったのは給与3ヶ月分の退職金。手からこぼれ落ちたものを拾うにはわたしは年を取り過ぎた。

11月の夜風は十二分に冷たく、急ぎ足で駅に向かった。タイミング良く来た電車に乗り込むため小走りで改札を通り抜けると、閉じかけのドアから電車に滑り込んだ。座れはしないが混んでもいない。優先座席の前にあるスペースにもたれて顔を上げようとしたが、息が上がってなかなか思うように顔を上げることが出来なくて膝に手をつく。呼吸が静まると共に、理由はそれに留まらないことに気付いた。次の駅へまもなく到着することを知らせるアナウンスが車内に流れた。このままだと体が沈む一方なので、膝と腕に力を入れて無理にでも体を起こす。その際、優先座席に座る少年と偶然目が合った。耳から白く垂れ下がる一対の機械、黒に茶色のメッシュをいれた長い髪、冷ややかな嘲りを感じさせる細い目、大きく開いた足、手に持ったスマートフォンの裏側には暗い目をした河童が「笑えよ。」とつぶやくステッカーが貼ってある。不快の波が来るより体が先に動いた。「ぐるるぅぅ」低くうなり声を上げてその少年の顔の前に近づきすぐに距離をとった。冷静になってはいけない。そう結論を出したわたしは満面の笑みを少年に向け、もう一度咆哮を上げると、笑いながら開いた扉から歩みを始めた。



お腹が重い。元々痩せ型だとはいえ、そろそろ腹の膨らみが目立つ時期に突入する。ロングコートで体型をカバーして平気なふりをしているが、育休を取りたいと密かに考えている。冬の窓ガラスの冷気がもたれる背中越しに伝わる。体を冷やすのは胎児にとって悪影響かと思って体を窓ガラスから離して自立すると、一層お腹の生命の重みが感じられた。背筋を前で大きく足を開ける少年が席を譲ってくれればよいのだが、イヤホンをしているので声をかけがたい雰囲気だ。突然左から聞こえた奇声に体が硬直した。怖い。1mも離れていない中年男性。先ほど駆け込み乗車した後、膝をついて長い間息を整えていた。少年に顔の前に近づいて、離れて、そしてにっこりと笑った。それからもう一度雄叫びを上げると、改札に向かって歩み去っていた。

またか、というような雰囲気が電車の中に流れた。スズメバチが車内を飛行しているのに乗客は誰も気付かなかったことがあった。わたしは体を動かさず、目線のみでハチを慎重に追っていた。スーツ姿の男の肩、女子高生のポニーテールの大きな髪飾り、数秒止まって飛び去ることをハチは繰り返す。その度わたしは声を出そうとして出せなかった。結局、危険を冒してまで他者を助ける勇気をわたしも持ち合わせていなかった。刺されるまで、他人事。結局自分の痛みがみんな一番かわいいのだ。

少年はさすがに気まずさを感じたのか、しぶしぶ席を立ち別車両へ移動していった。少年の両隣の人はわたしに伏し目がちながらも目線をやる。座っていいですよ、そんな意図を感じる視線を投げる彼らはただ目をやるだけで、実際には何もしない。一歩ずつ歩みを進めていく。先ほどの男の咆哮、微笑、雄叫び。奮起かそれとも絶望か。私には分からない。けれどもわたしは今席に座ることができている。中年男の叫びのおかげで、わたしは席に座ることができている。

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