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京都国立近代美術館『LOVEファッション』

 京都の『LOVEファッション』展、ついでのつもりで行ったらめっちゃよかったので備忘録残しておきます。いやもう、今のところ今年の展覧会三本の指に入るレベルでよかった。熊本と東京も巡回あるみたいです。行くべし。

 展覧会では一貫して、人間の欲望を受けとめる存在としてのファッションに焦点が当てられています。服の歴史をたどったり、メゾンの特色を打ち出したりする展覧会とは一線を画しているようです。そのため全体の構成も時代ごとやメゾン・デザイナーごとではなく、欲望ごとに5つのテーマに区切られていました。アート作品や文学作品からの引用も挿入され、思考をいざなう構成になっています。

 「自然にかえりたい」「きれいになりたい」「ありのままでいたい」「自由になりたい」「我を忘れたい」

 この5つを見てピンと来た人はこの先の文章とか読まなくていいから行ったほうがいい。後悔しないから。まあこれは備忘録なので誰が読まなくても書くんですが……


自然にかえりたい

 展覧会は18世紀以降の絢爛なドレスから幕を開けます。

 18世紀のローブ・ア・ラ・フランセーズ、19世紀のクリノリンスタイル、S字型ドレスからガリアーノの2019年春夏コレクションなど……時代や形は様々ですが、共通点は「花のモチーフが使われていること」。

ローブ・ア・ラ・フランセーズ 1775年

 Chapter1のテーマは「自然にかえりたい」。花の刺しゅう、動物の毛皮、鳥の剥製など、自然を感じさせるものを身につけたいという私たちの欲望を感じさせる服が集められています。

 花を身につけたい……という人間の欲望は考えてみれば不思議で、時代、地域問わず共通しているとうことに気づかされます。

 もっと不思議なのは毛皮への欲望。もとは暖を取る手段だったはずの毛皮ですが、ほかの素材が開発されてからも毛皮に対する憧れは留まることがないようです。

ダチョウの羽のケープ 1960年代後期

 環境に配慮したフェイク・ファーの存在を、この展覧会では「いびつともいえる毛皮への思慕」と呼んでいます。なるほどな~。「太古に失った体毛への執着から毛皮を愛好していたはずのなのに、それが自然のものでなくなってもなお毛皮に思慕を募らせている」という考え方。不思議ですね。どうなんでしょう。みんななんで毛皮(フェイク含む)の服買ってる?

 おもしろかったのは20世紀初頭のこの帽子。

帽子 1910年頃

 見えますかね? 鳥の剥製がそのまま乗ってます。すげー。18世紀にフランスで生花をそのまま髪にさすのが激流行りしたんですが(この流行は行くとこまで行ってついに髪に花瓶を仕込むようになった)、剥製とはまた……。しかし考えてみればテーマパークのカチューシャとかも変だもんね。人間は頭にいろんなものを乗せたがる生き物ですね。

小谷元彦《ダブル・エッジド・オヴ・ソウト(ドレス2)》 1997年

 それからこちらの小谷元彦《ダブル・エッジド・オヴ・ソウト(ドレス2)》は人毛で編まれたドレス。髪には情念やパワーが宿る……というのは私たちにはなじみ深い考え方ですが、これって日本特有なんでしょうか? 自由研究のテーマになりそう。


きれいになりたい

 Chapter2のテーマは「きれいになりたい」。

 コルセットで腰を締め上げたり、スカートを膨らませたり……といった19世紀以前のシルエットの「加工」、そして20世紀にそれらを参照し成功したディオールやバレンシアガといったメゾンの存在。これらは「きれいになりたい」という欲望を顕著に表したものです。

ジゴ袖のドレス 1895年頃(左)
クリノリンスタイルのドレス 1865年頃(中央)
クリスチャン・ディオール 1951年春夏

 腰をきつく締めあげるコルセットや、裾が広すぎるあまり暖炉から引火する事故が多発したクリノリンの存在は現代の私たちには不可解です。なんでそこまでしてシルエットを「加工」したいの? と思います。しかしこの展覧会では、その美への執着は現代の私たちにも共通しているのではないか、と問いかけてきます。ダイエット、アプリを使った写真の加工、整形など。「きれいになりたい」という欲望は、時代を経ても変わらないようです。

 以前、ディオール展に行ったときのnoteで「ポワレやシャネルが解放した女性のウエストをディオールは再び締め上げた」というようなことを書いたのですが、締め付けないほうが絶対楽だってわかってんのに締め付けられたシルエットに惹かれてしまう女性の心って不思議ですね~。私も普段はだるだるの服着てますが気合い入れてお出かけする日は細見えするワンピースとか着るもん。

 一方で、川久保玲のいびつなフォルムのコレクションが展示されており、「均整の取れたシルエットでありたい」⇔「逸脱したい」という人間の矛盾を考えさせるような展示構成になっています。おもしろい。

川久保玲 1997年春夏

 そもそも均整の取れたシルエットってなんでしょうね? 突き詰めれば西洋中心的な価値観がありそうです。

 このChapterに展示されていた澤田知子《ID400》は内面と外見の関係に迫った写真作品。さまざまな扮装の人が写った証明写真……と思えば、どうやら全員同じ顔のようでした。アーティスト本人らしいですね。外見が変われば別人のように思えてしまう私たちの感覚に揺さぶりをかけてきます。この感覚があるから私たちは「きれいである」ことに憧れ続けるのかもしれません。


ありのままでいたい

 このChapterに展示されているのは、主に20世紀後半から2000年代にかけての服です。テーマは「ありのままでいたい」。

 コルセットで締めつけたりスカートを異様にふくまらせたり、逆に異端なフォルムで着飾ったり……ではなく、体そのものを素材とするような服が並んでいます。

ガブリエル・シャネル 1930年代初頭(左)
ミウッチャ・プラダ 1994年春夏(右)

 このシャネルのイヴニング・ドレス(左)は象徴的ですね! 体のラインがそのまま見える。シャネルは「ありのままでいる」ということをいち早くやった女性だと思います。

 体のラインが見える、ということは、多くの女性にとっては恐怖でもあります。私も足が短いのがばれないようにスカートばっかり穿いてる。しかし「自分の体を愛そう」というボディ・ポジティブ運動が興隆したことは、「ありのままでいたい」という人間の欲望を何より証明しているようです。

 一方で、「自分の体を愛せなくてもいい」というボディ・ニュートラル運動が出てきたように、ありのままでいることはやはり困難でもあります。「ありのままでいたい」⇔「ありのままを愛せない」という揺れ動きは、一個人の間でも起こりうることだと思います。

 (G)I-DLEというK-popアイドルがいるのですが、彼女たちがNxdeという曲でありのままの自分を賛美したあとに、Allergyという曲で整形に走る女の子のMVを出したことなんかはまさにこの揺れ動きを表しているな~と私は思っています。どちらか一方だけが人間ではないというか。ありのままでいたい日もあればありのままが恥ずかしい日もあるよね。

ヘルムート・ラング 2002〜3年

 これはヘルムート・ラングのコレクション。一瞬えっちなお洋服かと思ってびっくりしたんですが(ごめんなさい)実際のコレクション映像を見ているとシンプルなシャツやパンツと組み合わせて使うアイテムのようです。なるほど~!

「服は無難であるべきでなく、過剰に目立つべきでもない」

 これがヘルムート・ラングの言葉だそうです。おもしろいね。ミニマリズムの旗手として知られる彼の服はたしかに「ありのままでいたい」という欲望を体現するものかもしれません。


自由になりたい

 このChapterに並んでいるのはコム・デ・ギャルソンの『オーランドー』に関するコレクション。『オーランドー』は男として生まれた主人公が途中女性に変化を遂げながら300年の時を生きる物語で、「作家ヴァージニア・ウルフによって、アイデンティティの解放と選択が鮮やかに描かれた小説」です。

川久保玲 2020年春夏

 私たちにとって服とはアイデンティティです。どんな服を着るか、どんな着こなしをするかによって個性を表現します。それは「自由になりたい」というよりはむしろ、「私でありたい」という欲望と呼んでいいように思います。私たちはファッションを通して「私でありたい」と願っています。

 一方で、私たちの好みは固定されてはいません。流行の移り変わりとともに、あるいは成長とともに、もっとミクロに言えば天気や気分によって「どんな私でありたいか」は姿を変え、それとともに「着たい服」も変化していきます。

 「次の私になりたい」と欲望することは、もしかすると「自由に自分を選びたい」と望むことかもしれません。このとき、「私でありたい」と「自由になりたい」はイコールで結ばれます。

「自由」とは空想上のユートピアを求める欲望ではなく、日々変わり続ける〈私〉の生そのものなのだと訴えかけているようです。

展覧会キャプションより

 新しい服を着る、ということは、自由になるということなのかもしれません。服によって自由になる──というのは考えたことがなかったので目からうろこでした。おもしろい。

 でも言われてみれば、小学校から高校までずっと制服だったのに大学で初めて私服登校になったとき、うわーーめっちゃ自由! て思ったもんね。良かれ悪しかれ。

 明日は何を着よう? と考えるときの私は自由です。それは明日、私がどんな私でありたいかを自分で決めることができるから。そう考えればたしかに、服を着ることは自由になりたいと欲望することなのかもしれません。


我を忘れたい

 最後のチャプターに並ぶのは1980年代から2020年代までの見るからに前衛的なお洋服。

ヴィクター&ロルフ 2005年春夏
久保嘉男 2023年春夏

 わははなんだこれ。テーマは「我を忘れる」です。

 服を着ることによって「自分ではない自分になる」というのはまさしく服の魔法で、バレエのお衣装のかわいいチュチュを着れば私は貴族や村娘やジプシーや白鳥になれるわけです。

 もっと言うと、新しい服に袖を通したときの私は今までの私とは違っています。ハーフパンツなんて穿かなかったのに買ってみたり、緑の服なんて持ってなかったのに着てみたり。そうして新しい服を着て鏡の前に立つと、たしかに私たちは「我を忘れる」ことができます。

 で、服ってすごいね! で、終わらないのがこの展覧会のおもしろいところで。

 「我を忘れたい」という欲望には終わりがない、あれほど欲しがった服もある瞬間からは色褪せて見え、新しい服を探している。この展覧会ではそう投げかけてきます。

(服の)魔法とは限りない人間の欲望という無間地獄そのものなのかもしれません。

展覧会キャプションより

 「LOVEファッション」という展覧会で無間地獄とかいう言葉が出てくるか!? おもしろすぎる。

 この部屋にはAKI INOMATAの《やどかりに「やど」をわたしてみる》という作品も展示されています。これはさまざまな国の建造物や地形をかたどった樹脂製の「やど」をやどかりにわたすという趣旨の作品群です。やどを替えるやどかりが、ここでは飽きることなく服を着替える私たちに重なります。こうして客観視して見ると、お洒落に凝る人間はどこか滑稽でもあります。「やど」ならなんでもいいのに、さまざまな土地をかたどった「やど」に着替えるやどかりが奇妙であるように。

 しかし抗えないのが服の魔法というやつなのだと思います。……と言いつつ私はもう一年以上新しい服を買っていないのですが。なはは。神戸のファッション美術館とか定期的に行くから服欲(服欲?)が満たされちゃってぇ……。


 そんな感じでいろんなことを考えさせられる展覧会でした。ただ綺麗なお洋服を見てすごいね〜って言うだけじゃないのがおもしろかった。でも綺麗なお洋服たくさん並んでたのでシンプルに目が楽しかったです。おすすめ。

 冒頭でも言いましたが熊本と東京も巡回あるみたいなのでぜひ。京都は11/24までです。急げ!

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