『現代メタルガイドブック』著者 和田信一郎(s.h.i.)インタビュー
メタルという音楽を深く広く掘り下げ引き伸ばし、その魅力を現代的な視点によって再定義した『現代メタルガイドブック』の出版からもうすぐ1年が経つ。
2022年に和田信一郎(s.h.i.)氏の監修によってele-King booksから発表された『現代メタルガイドブック』は「新しいメタルの教科書」として紹介されているが、まさにその役割を果たした素晴らしい本だ。有難いことに自分もディスクレビューにて参加させていただき、かなり大きな影響を受けた。
詳しくはele-kingのサイトにて確認できる『現代メタルガイドブック』の内容一覧を見ていただきたいのだが、今までになかった視点によってメタルが解釈/再考され、メタルという音楽の幅広さと楽しみ方が提示されている。監修をされたs.h.i.氏の圧倒的な知識量と愛情によってまとめられた『現代メタルガイドブック』はメタルのファンは勿論、メタルを知らない/興味がないと思っている人にも絶対に突き刺さる作品に出会えるようになっており、この本が成し遂げた功績は非常に大きい。
もうすぐ出版から一年が経とうとしていたので、改めて『現代メタルガイドブック』の素晴らしさを紹介したく、このタイミングでs.h.i.氏に『現代メタルガイドブック』についてお話をお聞きした。
s.h.i.氏の音楽的ルーツからメタルを取り巻く状況の変化、『現代メタルガイドブック』のテーマについてなどを語っていただき、とても濃く読み応えのある内容となった。このインタビューを読めば『現代メタルガイドブック』を更に深く理解することができるだろう。『現代メタルガイドブック』を未読の方はこの機会に是非手に取っていただきたい。
和田信一郎(s.h.i.)
https://twitter.com/meshupecialshi
医療職、音楽関係の文筆。『rockin’on』や『Rolling Stone Japan』、各種webメディアに寄稿のほか、DOMMUNE(長谷川白紙特集、G.I.S.M.特集)やJ-WAVE(ブラジル・ミナス音楽、ENDRECHERI特集)にも出演。ブログ『Closed Eye Visuals』。
Q1. s.h.i.さんがメタルの存在を知ったのはいつごろでしょうか?メタルの第一印象は?
自分は2002年(20歳のとき)に初めて意識的に音楽を聴くようになり、入門編としていくつかベストアルバムを買ったのですが、そのうちの一つがMegadethの『Capital Punishment: The Megadeth Years』(2000年発表、マーティ・フリードマン在籍期までの選曲)でした。同時期に入手したThe Beatlesの赤盤・青盤やQueenの『Greatest Hits Vol.1』にも惹かれてはいたのですが、Megadethの分厚く潤うギターサウンドや、不協和音とメロディアスな展開の兼ね合いが絶妙な曲構成のほうが、大学受験の浪人生活でフラストレーションを溜めていた当時の自分には数段深く刺さったのだと思います。それから自分はメタルというものに興味を持つことになり、当時の予備校が市ヶ谷で御茶ノ水のディスクユニオン街が近かったこともあって、HR/HM館やプログレ館に足繁く通うことになりました(メタルと並行してKing Crimsonにも惹かれ、短期間で全アルバムを集めていました)。そこで出会った店頭フリーペーパー「鋼鉄魂」でAngra『Rebirth』(2001年)やDream Theater『Six Degrees of Inner Turbulence』(2002年)などを知り、本格的にメタルにハマることに。メロディック・パワーメタル(メロパワ)やメロディック・スピードメタル(メロスピ)、メロディック・デスメタル(メロデス)のような聴きやすいサブジャンルの名盤を入り口に、少しずつ深入りしていくことになったのでした。
こうした流れの準備段階としておそらく重要だったのが、自分はそれ以前に重度のマンガマニアになっていて、アンダーグラウンドな領域の掘り方や歴史分脈の辿り方をあらかじめ身につけていたことでした。高校2年の冬から昼食代をマンガに注ぎ込みはじめ、高橋留美子や藤田和日郎を入り口に月刊アフタヌーン(2000年から今に至るまで購読を続けています)あたりを経てガロやアックスに到達、花輪和一や駕籠真太郎、内田善美などの作品を揃えるようになったことは、『マンガ地獄変』や『マンガゾンビ』、最初期の『Quick Japan』といった紹介本(そのいずれにも、ノイズやエクスペリメンタル領域の探求でも知られる宇田川岳夫が関与していて、音楽方面への接点が用意されていました)の精読、中野まんだらけや神田の古書店街、各地のBOOK OFF巡りもあわせ、情報を集めて実店舗で現物を探し相場価格を知るサイクルの体得に役立ったように思います。こうして実家に収集した本は浪人生活が続いたことから全て封印され、受験期間中は新たに買うのも禁じられることになるのですが、そうやって絶たれた欲のはけ口が音楽に向かい今に至る、と考えるとなかなか感慨深いものがありますね。
なお、自分が音楽を聴き始めるにあたっていわゆる洋楽の有名バンドを選んだのは、上記のようなマンガマニア遍歴を通して「ジャンルの重要人物とされているアーティストの作品は実際凄い」のを度々実感していたことに加え、『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる超能力=スタンドの名前が洋楽のバンドや楽曲に由来しているのを知っていて、それを参考にしていたのが大きいのだと思います。第5部の「キング・クリムゾン V.S. メタリカ」とか。あの有名な擬音の数々はハードロックのギターサウンドを模したものという話もあるし、主要キャラクターのDIOは80年代HR/HMを代表する名バンドが由来で、そのリーダーである超絶ボーカリストのロニー・ジェイムス・ディオが参加したBlack Sabbathの名盤『Heaven And Hell』が、第1部のタルカス(由来はプログレバンドEmerson, Lake & Palmerの名盤『Tarkus』)が繰り出す必殺技の名前『天地来蛇殺(ヘルヘブンスネーキル)』に用いられているなど。こうした意味で、荒木飛呂彦が日本の音楽ファンにもたらした影響は相当大きいのではないかと思います。
自分のメタルに対する馴れ初めはだいたいこんな感じで、
・適切な入門作を見つけ少しずつ深みに入っていく方法や世界が広いという認識をあらかじめ備えた上で
・聴取力や偏見があまりない状態から、メタルとメタル以外の音楽を並行して聴き進めていった
というのがリスナーとしての個性になっているように思います。
そこに絡む事柄としておそらく重要だったのが、
・聴き通したアルバムの名前は、2002年8月から今に至るまで全て順番通りにノートに手書きで記録している(日記のようなものとして:現在47冊目)
・大学ではアカペラサークルに入り、メタルの話題が一切出ない環境で音楽活動を続けた
・『Nothing』(2002年8月発表)でMeshuggahにハマり、全アルバムを100回以上(『Nothing』はremix盤を中心に10年で2,000回以上)聴く過程で、リズムと和声の解釈力が継続的に鍛えられた
ということで、こうした経歴や習慣付けが個人的な嗜好/志向の礎になっているのだと思います。
s.h.i.というのは和田信一郎=Shinichiro Wadaの頭3文字が由来で、中学2年から20歳までやっていたアーケードゲーム(2001年の『CAPCOM VS SNK 2』では西新宿で50連勝するくらいにはなりました)でのスコアネームとして適当に打ち込んだのをそのまま使い続けているものです。大した意味はありませんが、文字の質感は好みだし(視覚的にも音韻的にも)、この文字列でエゴサすることが不可能なのは自分自身にとってかなり良いことな気もします。
Q2. その当時はどうやってメタルに関する情報を得ていたのでしょうか?
2002年から4年間ほどは『Burrn!』の熱心な読者でした。広告ページ以外は全ての記事を読んでいたのでは。ただ、『Burrn!』は日本を代表するメタル専門誌とはいえ得意とする領域はHR/HM=ハードロック/ヘヴィメタルに限られていて(『現代メタルガイドブック』でいえば第2章の大部分と第4章・第5章の半分程度)、大学に入りインターネットに触れるようになると、音楽誌では扱われてこなかったメタルを大量に知り、そちらのほうに惹かれていくことになります。『HR/HMこの曲を聴け!』や『Castle of Pagan』のような大手サイトはもちろん、今は亡き『Thrash or Die!』や『静謐の森』のようなサブジャンル専門レビューサイトからは多くを学ばせていただきましたし(特に『Thrash or Die!』のToshiさんには、リフや勢い≒崩壊グルーヴに関する鑑賞基準や美意識について、個人的に大きく方向付けられたように思います)、『scsidnikufesin』や『TOO MUCH MUSIC SITE』など特殊メタルも扱う超越境型の紹介サイトからは、守備範囲を広げ続ける姿勢やディグにあたっての具体的な探索領域を授けられました。何より、Meshuggahのほぼ公式ファンサイトだった『硫酸洗礼青化物』の管理人さんには、掲示板に入り浸りご迷惑をおかけしてしまった(自分のブログを作って書けばいいような長文投稿を繰り返した)ことも含め、本当にお世話になりました。以上のようなことを振り返ってみれば、自分は紙媒体のメディアよりも“インターネット発”のメディアに影響を受けてきた世代の先駆けと言えるのかもしれません。前項で述べたように同年代の方々と足並みを揃えているわけではなく、メタルが軸なのにメタル専門メディアで書くようになったのはつい最近なので、「世代」で括るのは微妙な気もするのですが。
そういう“タイミング”の話でいうと、実店舗で定期的にフィジカルを買う習慣を身につけていた書き手としては、自分は最後のほうの世代になるのではないかとも思います。冒頭で挙げた御茶ノ水のディスクユニオンHR/HM館は2〜4階の3フロア構成で(2022年9月末に1フロアの別場所に移転)、一般的なHR/HM(エクストリームメタル以外)を扱っていた2階からメタル全般の中古品を扱う4階に行く際には、デスメタルやブラックメタル、ゴシックメタルやドゥームメタルといったエクストリームメタルを扱う3階を必ず通らなければならず、過激なものを好まないメタルファン(Slipknotやメタルコアが広く聴かれるようになる前はむしろ多数派でした)もそうした音に触れる機会が作られていました。自分がアンダーグラウンドなメタルを掘り進めることになったのもこのフロアの影響が大きく、ここでEmperor『IX Equilibrium』やIn Flames『Colony』といったメロディアスなエクストリームメタルに出会えたからこそ、渋く変則的な展開を好むコアな領域へ掘り進んでいけたのだと思います。これはRECORD BOYや3LA(いずれも通販サイトのレビューには非常に重要なものが多い)をはじめとするサブジャンルに特化した小規模店についても言えることで、こうしたディストロが(マニアのZINEなどと並び)日本のメタル文化の奥行きを支えてきたのだと言えるでしょう。
こうした情報収集サイクルが一変するきっかけになったのがTwitterでした(自分は2014年5月に利用開始)。SNS上の音楽マニアは紙媒体の専門誌やブログが網羅していない優れた作品にいち早く反応していることが多く、『Metal Injection』『The Quietus』『BrooklynVegan』『Pop Matters』『Consequence』といったWebメディアも、そうしたマニアと同等以上に優れたアンテナを持って興味深いバンドを紹介し続けています。2016年にサブスク加入(自分はなんとなくApple MusicとSpotifyを併用継続)してからは、フィジカルでは流通の少なさから見かけるのも難しい作品も情報さえあればすぐ聴けるようになったわけで、“新しいもの”を探すにあたって紙媒体の専門誌を参照することはほとんどなくなってしまった感はあります。Bandcampも、オールジャンルのメディアとしては珍しくメタルを積極的に紹介してくれている点で重要ですね。Rate Your Musicに関しては、ここもメタルファンの影響力が実は強いのですが、高く評価される作品の傾向(“キャッチーな変態”という感じ)が個人的に求めるものとは少し異なるので、見に行くことは少ないです。ただ、“音楽好き”全般がチェックするこうしたwebメディアがメタルをそれ以外の音楽と分け隔てなく扱うようになった結果、少なくとも英語圏においては、メタルの地位というかポピュラリティ、偏見を抱かれずに聴かれる度合いは、2000年代までは考えられなかったくらい向上しているように感じます。こうした傾向は日本のSNSにおいても(少なくとも自分の周りでは)確実に増してきていると思うし、自分としてもその後押しに貢献していきたいと思っています。
自分の文章についていうと、基本的には我流だと思います。『Burrn!』などではライター/編集者の方々がそれぞれ個性的な文体を持っていて、一時期までの日本のメタルファンの文章はそこから非常に大きな影響を受けているのですが、個人的にはあまり好みでない言い回しも多く(「擁する」「ヘヴィネス」「アグレッション」「リフワーク」「スポンテニアス」「激音」みたいなやつ)、そういう言葉は意識的に使わないようにしています。ファンタジックな表現を多用する美文調も、いかめしい形容詞がゴテゴテした宝石みたいに浮いている(音韻やリズムの流れが悪くなる)ことが多いので好きではないですね。ZEROコーポレーション(メロディアス・ハードロックを得意とした名レーベル)の帯文くらいまで突き抜けて洗練されていれば素直に良いと思えるのですが。
ただ、我流とはいえ影響を受けた方は確かにいます。ナンシー関、村上春樹、近田春夫、菊地成孔など。これは文体というよりも対象の読み方、音とその表現力をどう描写するかという姿勢の話で、音楽の構造や演奏の質感、それらが醸し出すニュアンスについて、可能な限り具体的に記述するよう心がけています(例えば「ヘヴィネス」とか「アグレッション」だと、どんな類の「ヘヴィネス」なのか付記しなければ他の作品にも当てはまる文章になってしまうので、そうした言葉を用いる場合は必ず補足説明をつける)。こうした“レビューの刷新”は『現代メタルガイドブック』の裏テーマでもありましたし、実際にかなりの度合いで達成できたのではないかと思っています。
Q3. 最初に体験したメタルのライブは?
2005年5月のJudas Priest武道館。初日(18日)か最終日(19日)かは覚えていませんが、2階東の上の方の席だった記憶はあります。1992年に脱退したロブ・ハルフォードが2003年に復帰、70年代から80年代までのJP自身の“様式美”を網羅しつつ現代的にアップデートしてみせた傑作『Angel of Retribution』を2月に発表した直後の来日公演で、ライブもそれに見合う素晴らしい出来でした。
自分が本格的にライブ通いをするようになったのは2010年頃からで、それ以前は音源を買って聴き込むほうを優先していました。Twitterに登録した2014年5月以降は全てのライブの感想を書いているので、よろしければこちらからご覧ください。自分で読み返すと当日の様子をかなり思い出すことができるわけで、こうやって記録するのはやはり大事だなと実感します。
Q4. s.h.i.さんがメタルに興味を持たれたときと現代では、メタルの定義やファン層、外部からのイメージなど、どのように変化していると思いますか?
2002年当時と今との違いを考えたときにまず思い浮かぶのが、当時はディスクユニオンのメタル棚に聖飢魔IIが置いていなかったこと。今では考えられないこと(になっていると思いたい)ですが、2000年代中盤まではJ-POP棚のみでの扱いで、メタル専門館では見かけることさえできなかったのです。こうしたことの背景も含めた日本のメタル受容史に関してはこの記事で詳述しました。ヴィジュアル系やエクストリームメタル、ポピュラー音楽の領域で語られるけれどもバックグラウンドにはメタルがあるアーティストなど、重要な論点は概ね網羅できていると思いますので、よろしければお読みいただけると幸いです。
世界的なメタル受容状況についていうならば、2000年代から近年にかけては本当に大きな変化があったと思います。まず、メロデス影響下のメタルコアが急速に普及した結果、「メタル」という言葉から一般的に連想されるグルーヴ感覚が大きく塗り替えられたこと(リアルサウンドの記事後半参照)。また、Boris『Pink』(2005年)やDeafheaven『Sunbather』(2013年)などがメタル系メディアに先んじてPitchforkのようなオールジャンルの(しかも保守的なタイプのメタルには厳しい類の)メディアで絶賛されたこと。そして何よりも、近年のポピュラー音楽全般でニューメタルやラップメタルの再評価が進み、System of a DownやRage Against the Machine、Kornといったバンドの手法がヒップホップなどの領域でも大々的に用いられるようになったこと。HR/HM以降のメタル(『現代メタルガイドブック』で「ポストHR/HM」と名付け第5章にまとめたもの)はここ数年で最高値を更新し続けているわけで、メタル側がそれに乗らないのは本当に勿体ないと思います。しかし、メタル=HR/HMと考えニューメタル以降の音楽スタイルを認めない保守的なメタルファンは、そうした盛り上がりを他人事と考えスルーしてしまう。そうした嗜好自体は個人の主義の問題であり尊重すべきですが、自分が好む領域に関係あるものとして認めるくらいの寛容さはあってもいいのでは。『現代メタルガイドブック』は、こうした状況に対応できるようなメタル観を整備するために作られたものでもありました。
Q5. 2022年にele-king booksから出版されたs.h.i.さん監修の『現代メタルガイドブック』はいつ頃から企画されていたのでしょうか?
編集を担当してくださった大久保潤さんからDMをいただいたのは、2021年12月27日のことでした。自分は2月初旬に国試があったので、それまでの間は1月中旬のZOOM打ち合わせで簡単に方向性を確認するに留め、2月に入ってから本格的に動くことになりました。
自分にお声が掛かった直接的な理由はこの記事やこの記事あたりだと思うのですが、P-VINE社内で企画が立ち上がった経緯としては、ele-king編集長の野田努さん(自分も『テクノボン』や『ブラック・マシン・ミュージック』を愛読しておりました)がBorisのインタビューに同席した際、音楽的な広がりや話の面白さに感銘を受けたのが大きかったようです。その後も、何かの会議でImperial Triumphantの名前が出るなど、メタルのディスクガイドを出す気運は高まり続けていた模様。その流れで、伝統的なHR/HMよりも近年のジャンル越境的なメタルを軸とした本を作ろうということになり、適任として自分の名前が挙がったようです。
『現代メタルガイドブック』の構成は、基本的には全て自分が組み上げました。2022年3月末日に仮の章立てとレビュー作品ラインナップ(900枚ほど)を大久保さんに送り、紙幅的に掲載可能か、各章の比率はこれで大丈夫かということを確認。その段階で、「第2章(HR/HM)が155枚は多いのでは」「近年のメタルをもう少し増やしたほうがいいのではと思います」というご意見をいただいたのですが、そこは「近年の音楽(メタルに限らない)を分析するにあたって重要な作品が実は多い(重要さが近年再び増してきている)」「これらを押さえておかないと旧来からのメタルファンを納得させることが難しくなる(そういう人々の目を近年の音楽に向ける動線を用意する必要がある)」という理由で通させていただきました。その上で、ページ数的にはまだ余裕がありそうだったので約1,000枚まで追加した作品リストを4月中旬に提出し、これで基本骨格が完成。5月中旬の対面打ち合わせでレビュー執筆者候補を固め、その方々に作品リストと依頼状を送らせていただくことになります。依頼状の共通部分は完成版『現代メタルガイドブック』のまえがきと概ね同じ方向性で(問題意識の詰め方はこの時点ではまだまだでしたが)、本をまとめていくにあたっての基本姿勢は一貫していたように思います。
最初にお話をいただいた時の心境を一言でいうなら、「ついにきたか」という感じでした。こういう本をずっと待ち望んでいたんだけれども、誰も出さなかったので、結果的に自分が出すことになった。そして、その目的は(自分の文体は手直ししたい箇所も多いですが)想定よりも遥かに上の水準で達成できたように思います。
Q6. まえがきで詳しく触れられていますが、『現代メタルガイドブック』のテーマについて改めて教えてください。
本書の趣旨はまえがきで網羅されているので、その序盤と終盤を引用させていただきます。
〈以下引用〉
まずはこの本の立ち位置から。本書は、「メタル」に馴染みがない人にとっての入り口を作るために書かれたものである。
・メタルをあまり聴いたことがない人に、「メタル」の全体像を紹介する。
・伝統的なHR/HM(ハードロック・ヘヴィメタル)のリスナーに、現代のメタルを紹介する。
・HR/HM以降のメタル(本書では、これを「ポストHR/HM」という呼称で括る)からメタルに入った比較的若い世代のリスナーに、HR/HMを紹介する。
・こうしたことのために、まずはHR/HMとそれ以降のメタルとの関係(旧来のメタル観では分断されたものと考えられがち)を整理し、複雑に入り組んだ豊かさをもつ「メタル」50年の歩みを網羅する。
・その上で、そこに「メタル」以外の音楽がいかに関係してきたか、特に、ポピュラー音楽全般と「メタル」がどのように影響を及ぼしあってきたかということを明示し、これまでのポピュラー音楽史では殆ど無視されてきた「メタル」がどのような存在意義を持っているのか説明する。
・以上を通して、「メタル」一般についての見られ方や歴史観を刷新し、これからの世代が「メタル」とそれ以外の音楽を分け隔てなく楽しみ論じていけるようにする土台を築き上げる。
(中略)
ページ数の問題もあって本文で語れなかったことについても簡単に触れておきたい。ある程度は知られているように、メタル領域には社会的に問題のある事柄も多い。マッチョイズムやミソジニー、虐待、危険思想やそれがもたらした犯罪など。そして、そうした問題を抱えるミュージシャンが優れた音楽作品を生み出し、大きな影響力をもたらしてきたこと。例えば、故Peter Steelが80年代に組んでいたCarnivoreというスラッシュメタルバンドには‘Male Supremacy’や‘Jesus Hitler’といった曲があり、その歌詞はシニカルなブラックユーモアという言い訳では済まされないくらい酷いものなのだが、このバンドを解散した後にPeterが結成したType O Negativeは、そうした姿勢を前面に出さない極上のゴシックメタルでシーンに大きな影響を与えた。このような関係は真摯に議論されなければならないものだが、メタル全般についての十分な状況認識が共有されずに話題性だけが先行するのも好ましくない。本書はこういったことの前提を準備するために構築されたものでもあり、各レビューやコラムに必要事項をまぶしてはいる。とはいえ、女性がメインのバンドを大枠にできなかったのは反省しなければならないだろう(BorisとBABYMETALは一応該当すると言えなくもないが)。これは自分も勉強を重ねつつ今後の課題としたい。
〈引用終〉
以上をふまえて本書のテーマを一言でいうなら、「中継ぎ」ですね。メタルを聴く人と聴かない(と自分では思っている)人、年季の入ったメタルファンと若いメタルファン、キャリアのある書き手と新世代の書き手、メタルにまつわる保守的な価値観とそれを問う価値観。その諸々をうまく繋ぎ、歴史的な蓄積を忘れずに新たな観点から語れる土台を築き上げる。これは、2013年に創刊された『ヘドバン』誌(『Burrn!』と同じシンコーミュージック・エンタテインメントから刊行)が既に取り組んでくれていたことではありますが(HR/HMファンの間でのニューメタルやヴィジュアル系の再評価には非常に大きな貢献をしてくださったと思います)、本書ではそれをメタル領域外に積極的に繋げる形で推し進めました。『Burrn!』を保守、『ヘドバン』を中道左派とするなら、『現代メタルガイドブック』は極左みたいなものではあるのですが、ポピュラー音楽全体の状況からみれば本書のスタンスのほうがしっくりくるように思われるし、その上で保守的な(そして、そうでもないのにそう見なされがちな)類のメタルも切り捨てず、積極的な評価を引き起こすための動線も作っています。マニアを納得させるための理論武装を張り巡らしつつ、メタル内外のリスナー双方を納得させるように歴史観を刷新する。そうした意味で、『現代メタルガイドブック』(「ディスクガイド」でなく「ガイドブック」としたのはサブスクが普及しディスクでは聴かない人が多くなってきたことを鑑みたため)という書名には、「現代メタルのガイドブック」という以上に「現代のメタルガイドブック」という含意があります。論考ではなくレビュー集という体裁ではありますが、歴史というものにラディカルに取り組んだ本になったように思います。
なお、「中継ぎ」というのは自分のポジションを表したものでもあります。自分は本業(医療職)のために来年度から数年間は文筆活動にあまり関われなくなってしまうので(SNSはこれまでと同じ感じでやっていくと思いますが)、『現代メタルガイドブック』はやりたいことをやりきって退場するくらいのつもりで作りました。物議を醸すようなこと、今まで避けられてきたが取り組まなければならないことを網羅し、矢面に立ってから去ることで、これからの世代が活動しやすい環境を作ろうと。ただ、蓋を開けてみれば本書への反応は好意的なものが大半で、メタル関係の仕事は結果的にかなり増えることになりました。こうしたことを見る限りでは、本書の目的はある程度は達成できたのではないかとも思います。
Q7. 『現代メタルガイドブック』に参加されている執筆者の皆さんはどういった基準で選ばれたのでしょうか?
Q5の回答終盤で述べたように、まず自分だけで約1,000枚のレビュー予定作品リストをまとめ、それを依頼状と一緒にお送りしたのですが、そのリストの方向性は以下のようなものでした。
① 各サブジャンルの名盤を優先的に選出する。内容の良さが重要なのは当然だが、それ以上に、一般的な評価の高さまたは実際に及ぼした(ということが確認されている)影響力を重視する。ただし、知名度が微妙でも内容が突き抜けて良い作品があるならば、それもできる限り選出する。
② 既存の“常識”を鵜呑みにせず検証する。特に、近年のリバイバル傾向で評価が上がった作品は積極的に選出し、新しいジャンル観を提示する。“常識”として語り継がれてきた言説が今でも妥当なものなら、下手に捻じ曲げず素直に紹介する。
③ 監修者が詳しくないサブジャンルに関しては、その分野を専門的に探求している方の教えを積極的に乞う。
執筆者の方々の選出基準は、以上の①〜③に対応でき、その上で音楽に対する“解釈”を自分の言葉で文章にできる人というものでした。Q2の回答終盤で触れたような定型文に陥らず、独自の審美眼と聴取力をもって音楽のニュアンスを表現できる方々。とても良いレビューを寄稿していただけて幸いでした。執筆作品数の比率は本書末尾の名前の並び順どおりですが、脇田涼平さん(ブルータルデスメタル、テクニカルデスメタル、メタルコア、デスコア、プログレッシヴメタルコア/Djent)と藤谷千明さん(ヴィジュアル系)、梅ヶ谷雄太さん(ビートミュージック関連)には作品選出の面でも大きな貢献をしていただきました。その他にも、川嶋未来さん(世界的に傑出したブラックメタルバンドSighの主幹)には事実関係の指摘、西山瞳さん(卓越したジャズピアニストにして年季の入ったHR/HMファン)には音楽用語や楽理分析の面で本書全体の査読をしていただき、こちらも非常に助かりました。そして、清家咲乃さんと村田恭基さん、つやちゃんさんは、優れた表現力と鋭い視点で数多のジャンルの作品について書いてくださいました。今回は依頼を差し上げたタイミングの関係から半分以上(約930作品のうち約500作品)を自分が担当することになってしまいましたが、皆様がいなければ本書は完成できなかったでしょう。この場を借りて改めて感謝申し上げます。
『現代メタルガイドブック』の立ち位置を簡潔にいうならば、〈『ヘドバン』とパブリブ刊のマニアックなサブジャンル紹介本の間を繋ぎ、その上で現代のポピュラー音楽に接続させるルートを可能な限り網羅した〉ということになるでしょう。村田さん・脇田さん・梅ヶ谷さんはパブリブから複数冊ディスクガイドを出されていますし、つやちゃんさんの『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評言論』や藤谷さんの『すべての道はV系に通ず。』なども併せて読めば、メタルを味わうにあたっての視点が増えて音楽を聴くのが一層面白くなるはず。こうした繋がりを作れた点においても、本書をまとめることができて本当に良かったと思います。
Q8. 『現代メタルガイドブック』で最もメタルの固定概念から離れているようで、最もメタル的な作品とは?
これはかなり難しい問題ですね。論点自体は明快なのですが、答えはいくらでも挙げられてしまう。「メタルの固定概念」を80年代HR/HMファン的なものとするならば、そのスタイルから離れているものを選べばいいわけなのですが、その「離れ方」が非常に多彩で、そしてその多彩なものを全て網羅するのが本書で再構築した「メタル」という概念だからです。
まえがきやリアルサウンドの記事後半でも述べたように、メタルは「メタリック」な質感さえあれば何でもそう呼んでしまえる柔軟な括りで、そうした感覚のもとで様々なジャンルとの混淆を繰り返してきました。なので、ある観点からは「メタル的でない」ように見えても、別の観点からすれば「最もメタル的である」場合もありえます。さらに言うなら、その「メタルの固定概念」も、リスナーの世代や音楽遍歴によって想定されるものが大きく変わります。(ブラックメタルを入り口にメタルに親しんだ人はブルース的に引っ掛かる進行感を好まない、メタルコアに慣れ親しんでいるか否かで「メタル」からイメージするグルーヴ感覚が全然違うなど。)面倒くさいですね。ただ、その面倒な掘り下げとか、定義のすり合わせをしないからこそ生じる主張のぶつけ合い(互いに歩み寄ることなく終わる場合が多い)もメタル話の醍醐味だし、これは他のジャンルにも言えることではないでしょうか。このように込み入ったニュアンスを明示せず曖昧に網羅できてしまうのもレビュー集という体裁の強み、というのはあるかもしれません。
以上を踏まえたうえで具体的な作品を挙げるなら、
・Earth『2』(第5章 p194)
・Fleurety『Department of Apocalyptic Affairs』(第4章 p120)
・SCARE CROW『立春』(第8章 p277)
あたりが自分の感覚ではしっくりきます。FleuretyやSCARE CROWをYouTube以外で聴くのは難しいですが、現物に出会う機会があればぜひ手に取ってみてください。本書はそうした廃盤作品の再発を促すために編まれたものでもあります。
Q9. 『現代メタルガイドブック』で紹介できなかった作品でオススメしておきたい作品は?
まず何といってもG.I.S.M.ですね。『Detestation』を大枠でレビューする予定でしたが、自主規制的な判断で決定稿からは外れることになりました。ただ、本書刊行後の2023年1月にDOMMUNEでG.I.S.M.特集が行われ、そこに自分も出演者としてアーティスト公式からお招きいただいたわけで、増補版や別のメタル関連ガイドブックが出る場合は入れても問題ないように思われます。なお、G.I.S.M.全作品のレビューはこちらで書きました。日本のみならず世界全体をみても歴史的に最重要なバンドの一つなので、聴かれたことのない方はこの機会にぜひ。
近年の日本のシーンでいうと、Paledusk、Sable Hills、花冷え。などはライブ活動(対バン企画〜フェス運営も含む)や曲単位のコラボレーションでは非常に重要な存在感を示しているのですが、2022年10月時点では決定的な音源を出していないという理由から外すことになりました。いずれも今のメタル周辺シーンを語る際には欠かせないバンドなので、これからリリースされるだろうアルバムなども含め要注目です。
他にも、紙幅の関係で入れられなかった作品は非常に多いです(執筆者の方々の推薦込みで約1,080作品になったリストを、ページ数制限から約930作品まで減らしました)。At The Drive InまたはThe Mars Voltaを入れ損ねたのは失敗だったし、ANTHEMやCOCK ROACHを外したのも好ましくなかった。近年のバンドについても、Portrayal of GuiltやJesus Pieceは入れるべきでした(このあたりは自分のリサーチが追いついていなかった)。今後出版されるメタル系ガイドブックが網羅してくださることを願うばかりです。
Q10. 『現代メタルガイドブック』の出版後、ご自身や周りではどういった変化がありましたか?
Q6回答の最後で述べたように、メタル関係の仕事は明らかに増えました。もともと自分は、メタルが専門なのに寄稿仕事はメタル外のものばかりだったのですが(MikikiやRolling Stone Japanの記事一覧がわかりやすい:ただし、これは今に至るまで自分からは一度も企画持ち込みをしたことがないのも大きいとは思います)、『現代メタルガイドブック』の出版後は、本書の好意的な感想とともに依頼をいただけることが多くなりました。例えば、『rockin’ on』誌には2021年8月号から寄稿してきましたが(巻末ALBUM REVIEWSが主)、Metallicaの新曲紹介やLoud Park 2023などメタル系来日公演の紹介、そして「気になるあいつ」(注目のニューカマー紹介)でのSleep Token論考など、メタル関連の記事をお任せいただける機会が一気に増えました。『ミュージック・マガジン』への初寄稿となる2023年11月号(10月発売)の「Y2Kリヴァイヴァル・ディスク・ガイド」でも、【ミクスチャー・ロック/ニューメタル】という枠が用意され、自分が知る限りでは初めて同誌でメタルが積極的に採り上げられるなど、メタルを取り巻く状況そのものが少しずつ変わってきているように思います(この企画に関しては、監修を担当されたつやちゃんさんのヴィジョンによるところも大きいでしょうが)。他質問の回答でたびたび挙げているリアルサウンドの記事も、本書を作ったからこそ書く機会を得られたものでした。本書のイントロダクションとしても良い内容になっていると思いますので、ぜひお読みいただけますと幸いです。
メタル専門メディアに関していうならば、今年の6月から『ヘドバン』のスピンオフおよび本誌にお招きいただけるようになったのが最大の転機だと思います。それ以前にも、清家さんがリニューアル創刊号の編集を務めた『BASTARDS!』Vol.1への寄稿はありましたが(2020年8月末発行:商業媒体への寄稿としてはこれが初めてでした)、それ以降は長く途切れていました。こんな記事を書いていることを考えれば無理もない話だし、自分自身としてもそうした界隈に食い込みたいという考えが一切なかったからこそ『現代メタルガイドブック』みたいな本を作れたわけですが、それが今のような状況に結びつくのだから面白いものですね。
Q11. 日本のメタルが世界に与えた影響や功績とは何だと思われますか?
この話題に関してはこの記事でひと通り述べました。そこにG.I.S.M.のレビュー記事を加えれば、2000年代までの主な例は概ね網羅できるのではないかと思います。メジャーデビュー前のMetallicaが高崎晃(Loudnessのギタリスト)に正メンバーとして加入してくれないかと声がけしたエピソードや、MeshuggahのメンバーがG.I.S.M.について熱く述べているインタビュー動画をみてもわかるように、日本のメタルやハードコアは世界的にも大きな影響を与えてきました。問題なのは、そうしたバンドが国内では十分に評価されてこなかった(または、十分に取り上げてこられずメタルファン一般に知られる機会をあまり得られなかった)ことで、『現代メタルガイドブック』の第8章はそうした経緯もふまえた構成になっています。既存のメタル系ディスクガイドと最も違っていて面白いのはこの章かもしれません。
こうした話をする際の前提として重要なのが、メタルやハードコアのような“言葉を理解できなくても楽しめる”音楽ジャンルでは、英語圏以外の地域から出てきたバンドが世界的な影響をもたらす展開が起こりやすくなっているということですね。特徴的な音楽スタイルが世界的に知られているためにそれが“共通認識”としてのフォーマットになりやすく、言葉の壁を超えて受け入れられやすくなっているのです。また、いわゆるデスヴォイス(近年はグロウルやガテラルといった具体的にスタイルを形容する言葉のほうがよく用いられるようになっています)が普及してからは、母語話者でも歌詞を聴き取るのが難しいこともあって、そうした歌声を楽器と同様に(言語からある程度切り離して)楽しんでもいいという姿勢が定着していきます。G.I.S.M.やSxOxBといった日本のバンドがNapalm Death経由で全世界のエクストリームメタルに大きな影響を与えたのも、こうした歪み声の特性、歌詞を聞き取れなくても楽しめてしまう音楽性によるところが大きかったのでは(歌詞自体にはコンシャスなものが多いのですが)。BABYMETALが日本語歌唱で世界的な成功をおさめたのも、メタルファンの間で英語にこだわらない姿勢ができていた、様々な国のメタルを音として楽しむ習慣が形作られていたことが少なからず関わっているように思います。
以上に関係することとしてなんとなく思うのが、日本のバンドがもたらした影響の在り方というのは、日本国内ではあまり語られておらずむしろ海外においてこそ認識されているのではないかということ。どこの国においてもマニアックな音楽ファンは他国の音楽を探求するもので、それがメジャー領域から出た作品であっても、自国からすれば未知の/ニッチでマニアックな作品として楽しめてしまいます。そうやって探求していくことで各個人のなかに形成される“日本の音楽史”は、日本に住み日本産の音楽に親しんできた側からすれば歪で事実に反するものでしょうが、世界各地のリスナーからすればそちらが“正史”としての存在感を持ち、影響力をもたらすガイドになっている場合も多い気がします。ジュリアン・コープの名著/迷著『ジャップ・ロック・サンプラー』はその好例ですし、フィッシュマンズやLampが受容されていった経緯や、日本では知る人ぞ知るバンドの問題作として扱われているSighの傑作『Imaginary Sonicscape』がRate Your Musicでは名盤としての定評を確立しているのをみれば、ジャンル越境的な表現力を持つ作品が元のジャンル文脈から切り離され評価される事態はいくらでも起こりうるように思えます。そして、それは海外の音楽を日本でどのように受容してきたかという問題に反転させることもできる(というか、反転させて考えなければならない)。YouTubeやサブスク、SNSが普及してからは、マニアックに情報を追い求める類のリスナー以外にも世界各地の音楽が届く(アニメ主題歌やTikTokダンスチャレンジを通してバズるなどの)機会が増えてきたわけで、こうした文脈の切り離しやそれを介した受容・拡散はさらに進んでいくのでは。非常に手強い事態だし、その上でとても面白いなと思います。
日本のメタルがこれから世界に与えうる影響の例として、メタルの世界を代表する大手専門誌『Kerrang!』が2021年5月に公開した『13 essential Japanese rock and metal albums you need to know』を挙げておきます。ここに挙げられている作品のほとんどが日本のメタル領域では全然エッセンシャルなものと見なされてこなかった(しかし、実際にエッセンシャルだと見なすべきものも多い)ことと、それが英語圏のメタル領域において“正史”的に参照され影響をもたらしうること。非常に興味深いです。
Q12. ブラックメタルを筆頭にメタルという音楽には反社会的であったり、ショック療法的な表現や世界観があると思います。それらの思想や表現が現代にそぐわない場合、その音楽の価値は過去と現在でどう変化すると思われますか?
まず、前提として大事なのが、免罪符みたいによく言われる「表現の自由」は無条件に成り立つものではなく、公共の福祉による制限を受けるということと、表現の自由とその責任を取ることは混同されがちだけれども、実際は別の問題だということですね(保証されているのは発表する自由だけなのに、発表した作品の責任を取ることからも自由になれるみたいなすり替えをしている、またはそう信じ込んでいる例が非常に多い)。どんなに過激で反社会的な作品も、作られ発表されること自体は尊重されるべきですが、そこに問題があるならゾーニングや批判など然るべき対応(言及を避けられ炎上するのも封じられることも含む)を受けなければならないと思います。そうした意味において、問題があるのに過去の価値観では見過ごされていた表現を現在も同じように認めることはできないし、そもそも当時の価値観でも本当に大丈夫だったのかということも考えなければならない。ナチ・パンクやNSBM(National Socialist Black Metal、国家社会主義ブラックメタル)みたいに明らかにアウトなやつはもちろん、Manowarの「Pleasure Slave」みたいなのも、バンド自体の“笑ってもいい対象”な立ち位置やボーカルの圧倒的な歌唱表現力および包容力からなんとなくOKみたいになっていますが、歌詞や喘ぎ声SEは1988年当時の感覚でも問題があったのでは、などなど。こういったインモラルな表現、積極的にタブーを破っていく志向がメタルというジャンル全体の発展と密接に結びついてきた面もあるので難しいところですが(そこにはQ11の回答で述べた「歌詞を無視して聴けてしまう」ことも少なからず関係しているはず)、良い意味でも悪い意味でも無かったことにはできない事柄なのだと思います。
以上を踏まえて重要だと思われるのが、過去に生じてしまった物事の影響関係については捻じ曲げずに評価しつつ、それをもたらした作品や事象が現在の価値観に照らして不適切なのであれば、今後は積極的に評価しない、悪影響を再生産しないよう心掛けるということですね。例えば、ブラックメタルの歴史において最も悪名高いバンドであるBurzum(ヴァーヴ・ヴァイカーネスの個人プロジェクト)は、急進的な国家主義思想を提唱してノルウェー・シーンの犯罪傾向を先導(教会放火など)、同シーンの中心人物だったユーロニモス(Mayhemのリーダー)を殺害したことでも知られるのですが、残した作品には優れたものが多く、異常に鋭い表現力とジャンル越境的な音楽性により、今も多くの音楽ファンに衝撃を与え続けています。こうした音楽がカジュアルな悪趣味として楽しまれることで新たに生み出される悪影響は間違いなくあるし、そうした影響を受けた人が悪気なく問題を起こしてしまうこともある。このあたりの話はBorisと明日の叙景の対談でも出ていました。そういうことを鑑みると、「作り手に罪があっても音楽に罪はない」という話は必ずしも正しいとは言い切れない、実際に「罪のある音楽」も少なからずあるのではないかと思います。もちろん「罪がある」音楽を楽しんではいけないなんてことはないですが、そうした音楽を楽しむ際にはリテラシーや責任が一層求められる。これはポルノグラフィやノワールなどにも言えることで、鑑賞者の立場は必ずしも“責任”を免じられるものとは限らないんですよね(これは「表現の自由」の話にも通ずるように思います)。その上でどうしても触れてみたいのであれば、「当時の価値観ではOKだった」みたいな言い訳を挟まず、うしろめたい思いを引き受けながら、責任をもって鑑賞/感動する。メタルはポピュラー音楽一般に比べ、良くも悪くも“鑑賞するにあたっての責任”に直面しやすい、そういう経験を積みやすくなっている音楽ジャンルでもあります。そうしたジャンル特性に意識的に向き合っていくのも、これからのメタルにとって大事なのではないかと思います。
ここでもう一つ重要なのが、残虐なテーマを扱うということと、他者の尊厳を損なうことは別の問題だということですね。ポリティカル・コレクトネス(SNSで揶揄の対象として安易に連呼される「ポリコレ」とは別の“まっとうな”配慮)の観点からしてもOKなホラー映画とそうでないホラー映画があるように、誰かの尊厳を傷つけないように苛烈な表現をすることもできる。コズミック・デスメタルをやるバンドが近年明らかに増えてきているのは、不協和音の探求など音楽面での魅力があるスタイルということに加え、SF的なテーマを扱う歌詞表現が(ゴア表現を多用する類のデスメタルなどに比べ)ポリティカル・コレクトネスに抵触しにくいからだとも言われています。優れた音楽や歌詞を通してホモフォビアやミソジニーを批判するメタルバンドもここ数年で目立って増えてきていますし、ジャンル全体としても確かに反省や変化の兆しがある。メタルを語る側も、こうした状況に追いつけるよう変わっていくべきなのだと思います。
Q13. 音楽を批評するという行為にどれだけの責任が書き手にあると思いますか?誰かにとっての素晴らしい音楽に対してマイナス面を指摘することや、バンド側への配慮などはどうお考えになられていますか?
Q12の回答で触れた作品自体や鑑賞者の責任と同じく、音楽について語る側の責任も勿論あります。そして、そうした責任を取ることと同じくらい大事なのが、自分の嗜好や持ち分で対応できない作品に関しては不用意に言及しないことなのではないかとも思います。なにかの作品について語る前に自分自身を省み、向き不向きを考えた上で明らかに向いていないなら、分かったふうなことを言うのは避ける。その上でどうしても何か言いたいのなら、リスナーとしてのスタンスや傾向が垣間見えるような言い方をして、「こういう人なら酷評になるのも仕方ないな」という納得を得られやすくする。レビューなどでは“自分語り”は嫌われるものですが、その“語り”が評価基準を示すものなら読者にとって有益になることも多いです。鑑賞者としての自身に向き合った上で真摯に作品に接するのが大事で、個人的には、これこそが世間一般の音楽評に最も欠けがちな要素だと思っています。
そもそも、作品の価値をリアルタイムで的確に評価するなんてことが果たして可能なのか?という問題もあります。メタル関連で最もわかりやすい例がブラックメタルの受容史で、80年代当時はメタル領域においてもB級〜Z級扱いされ黙殺された崩壊スラッシュメタル(≒1st wave of black metal)が、90年代北欧のブラックメタル(2nd wave of black metal)の表現力至上主義の礎となり、それがシューゲイザーやハードコアに接近したポストブラックメタルを経て2010年代のポピュラー音楽に影響をもたらし、メタル外からは最もよく知られたサブジャンルとなるに至った、という流れを知っていると、作品の価値を発表当時に十分把握するのなんて不可能だと思えます(これとは別に、サーストン・ムーアが地下メタルのマニアで、Mayhemをはじめとした2nd wave以降のブラックメタルから受けた影響をSonic Youthなど自身のバンドに持ち込んでいた、みたいなインディ方面からの流れもあります)。音楽について、表現志向の違いはともかく良し悪しは明らかに言えるだろうという意見もありますが、技術や音響の巧拙は確かにランク付けできるけれども、それがどういったニュアンスをもたらし総体としてどれだけの表現力を生むかということは、単に「クオリティが高い」ことのみを良しとする鑑賞姿勢では評価できないことも多いのです。プリミティヴブラックメタルの絶対的名盤とされるDarkthroneの初期3部作などは、 “悪い音質”を意識的に作り込み、そのベクトルでの優れた達成をしているわけですが(ある種のヒップホップがドープな味を出すためにサンプルレートを意識的に落とすのに通ずる手法)、Steely Danやドナルド・フェイゲンの超ハイファイな音源を聴く感覚でそうした“悪い音質”に触れても、ピントのズレた感想しか出てこないでしょう。クラシック音楽の原音至上主義でダブのポストプロダクションを評価するのは難しいというように、音楽の聴き方には本当に多彩な嗜好や持ち分が絡むわけで、一人の人間がそれを全て網羅するのは不可能に近いです。このような難しさを知り、今の自分の嗜好や持ち分はその作品に対応できるものなのか省みた上で、不用意に言及するのを避けるのか、それともできる限りの言葉を尽くすかを選ぶ。それこそが、誰かの目にとまるところで音楽について語るということ、その責任をとるということなのだと思います。いろいろ回りくどい話をしてきましたが、要は「まず自分を知った上で、ちゃんと向き合おうぜ」ということですね。
以上を踏まえて自分自身について言うならば、もちろん好き嫌いや得手不得手はあります。例えば、コード進行の好みで言うと、自分は音楽を意識的に聴くようになった初期の段階でMegadethやKing Crimson、Pink Floydにハマった結果、不協和音を程よく絡めたブルース寄りロック(USよりもUKのもの)に嗜好の根幹を決められていったように思います。「意識的に聴く」ようになる前についても、『ファイナルファンタジー』シリーズ(3から9、植松伸夫作曲のもの)や『レイクライシス』のサウンドトラックは繰り返し聴いていましたし、思い返してみれば、『サガ』シリーズや『聖剣伝説』シリーズ、SNKの対戦格闘ゲーム(キャラクターの名前や技名はHR/HMバンドから来ているものが多い)でメタル影響下の楽曲に度々ふれていたわけで、「意識的に聴く」にあたり聴くものを自分で選んだようでも、しっくりくる方向性自体はそれ以前にかなり定まってしまっていたのかも。ただ、後に得たものも確かに大きく、特にMeshuggahを繰り返し聴く過程で接した無調寄りの響き(アラン・ホールズワース経由でジャズ方面に至る)や、複雑にアクセント移動しつつあくまで4拍子の枠を保つリズム構成(こちらの記事で詳しく述べました)は、先述のUK寄りブルースロックと並ぶ最大のツボになっています。グルーヴ表現関連の嗜好について言うと、自分はまずParliamentの『Mothership Connection』のようなタイトなファンクにハマったこともあってか、後にMoodymann『Mahogany Brown』などのデトロイトハウス/テクノで「打ち込みでも生々しく揺れる質感が出せるのか」と実感するまでは、〈生演奏>>打ち込み〉みたいな偏見から離れられない時期が続きました。ファンクとヒップホップの違いについて述べたこちらの話は以上の事柄の総括みたいになっているので、このあたりの議論に興味がある方はぜひ。こうした試行錯誤は手間がかかるものですが、取り組む過程で得られることは多いし、何よりとても楽しいものです。
コード進行の好き嫌いについて言うと、やはり自分はメタル育ちなので丁寧な進行感を好んでしまう傾向はあります。メタルとパンクにおける音の流れを比べるなら、前者は整地されたアスファルト、後者は凸凹な砂利道という感じで、丁寧に行間を埋める進行感とラフに飛躍する進行感という違いは間違いなくある。その双方が混ざって豊かなグラデーションをなしているのがメタルとパンク(歴史的には水と油のような関係だが、実は水面下で交流し続けてもきている)の面白さでもあり、G.I.S.M.などはそのほぼ中間にあるからこそ両方の領域に大きな影響を与えられたのではないかと思います。それで、自分はどうしても前者の比率多めの嗜好で、同じように「メロディアス」と言われる音楽をみても、ジャズ寄りのものは得意だけどメロパワ/メロスピやポップパンク/メロコアは不得意だと感じます(この2つには実は共通点が多く、ポップパンクが好きな人にメロパワを聴かせたら好意的に受け入れてくれることが多いように思います)。ここで問題になるのが、近年のポピュラー音楽におけるポップパンクリバイバル。いわゆるハイパーポップの系譜でも、音響やビートはともかくコード進行やメロディに関してはポップパンク直系のものが多いため、自分はどうしてもそこに引っ掛かってしまうわけです。良いとは思うんだけど、その要素を「ハマりきれないタイプの様式美」みたいに認識し、オリジナリティを低めに見積もってしまう。100 gecsなどは、そういうポップパンク要素を重要な軸としながらも多彩な手札を駆使してあくまで一要素に留めているため、自分のようなリスナーにも面白さを実感しやすいのですが。
という感じで、自分にも好き嫌いや得手不得手は確実にあります。「なんでも聴く」ように心掛けることは不可能ではないにしても(時間的にも嗜好的にも実現している人は稀だと思いますが:「なんでも聴く」と言っている音楽ファンはメタルを視野に入れていない場合が多いなど)、「なんでも好きになる」ことはほとんど不可能なのではないか。そういう自身の能力というか適性、そこから不可避的に発生しうるジャンル差別意識みたいなものを(それが“薄いが確かにある”くらいの加減ならなおのこと)自覚し、作品の評価をする際にはある種のバイアスがかからざるを得ないことを自認する。それこそが、「音楽を批評するという行為」においてまず発生する責任なのではないかと思うのです。これはディスクガイドのレビュー担当作品にも関係する話ですね。執筆希望チェックリストを提出する側にとっても、それを振り分ける監修者の側にとっても。一人だけでジャンル全体の批評を(しかも複数の年代に渡って)十分にすることはできないし、する必要もない。『現代メタルガイドブック』の制作は、そうしたことを改めて実感させてくれる機会でもありました。
「誰かにとっての素晴らしい音楽に対してマイナス面を指摘すること」について言うと、そもそも「マイナス面を指摘する」必要があるのかという問題もあります。先述のブラックメタル受容の話や、The Shaggsがフランク・ザッパらの賞賛により広く知られ愛されるようになったエピソードを鑑みても、突き抜けた「マイナス面」は表現上の強みにもなりうる。そういうことを踏まえると、妥当な批判の対象になるのは「凡庸」なものくらいだと思うのですが(日本のメジャーなアイドル楽曲はサウンドプロダクションについてそういう指摘をされることが多いですね)、その「凡庸」は「至らない点」ではあるかもしれないけど「マイナス面」と言えるのか。また、そうした「凡庸」を批判するにしても、全ての要素が「凡庸」なら評価の俎上にあげる必要もなく、その上で言及したくなったのなら何かしらの美点があるわけで、そこを掘り下げて話せばいいのではないか。こういう視点の切り替え次第で角の立たない指摘もしやすくなると思いますし、けなさないが熱烈には評価しないというふうに、賞賛の仕方にグラデーションをつけることもできます(自分のライヴ後感想はそれを意識的にやっています)。また、褒めているようにも貶しているようにも見える(読者の嗜好によっていずれにもとりうる、その作品が自分に合っているか合っていないか判断する一助になってくれる)文章の書き方というのも可能ではあります。そうした配慮をしつつ、「過剰に賞賛することの責任」みたいなことにも気をつけながら、自分の嗜好や持ち分があるからこそ導き出されるような音楽語りをしていくのがいいのではないでしょうか。繰り返しになりますが、「まず自分を知った上で、ちゃんと向き合おうぜ」ということですね。
Q14. 10年後のメタル・シーンはどのようになっていると思いますか?
一体どうなっているんでしょうね。過去のメタルの歴史が10年単位でどのくらい大きく変わったか、ということを考えればとても想像しきれないですし、リアルサウンドの記事にもまとめたように、ここ数年でこれほどメタルがポピュラー音楽的に「アリ」になるとは思ってもみませんでした。そうやって「アリ」になっていること自体がこれから認識されていく、というくらいの段階でもあるわけですが、そういう現状を説明し認知を広げるのがメタル関連の書き手にいま求められることなのだとも思います。『現代メタルガイドブック』はこのような現状に直接はたらきかけるために編まれたものでもあるし(特に第7章・第8章)、そこに書かれていることが一般常識みたいになって賞味期限が切れるような事態ができるだけ早く起きてほしいですね。メディア側が何も語らなくてもメタル領域における考え方の改善や音楽的発展はなされていくでしょうが、それを把握する言論がいつまでも旧態依然なままだと、リスナーの側がそうしたメタルの発展に対応できない状況が続いてしまいます(90年代ヘヴィロックのギターサウンドを何十年間「モダン」と言い続けているんだ、みたいな話)。10年後と言わず来年にでも形勢が変わってほしいですし、その点、今年の10月末〜11月頭に開催されるNEX FESTは、世代交代の面でも国際交流の面でも最高の機会になるのではないかと思います。Roadburnなどをみてもわかるように、ジャンルやシーンの批評は言論よりも先にライヴの現場でなされてきたわけですが(フェスや対バンのラインナップがそのまま批評として機能する)、それが日本のメジャーなメタル領域においても非常に明確に行われるようになった。当日が楽しみですし、ぜひこのまま成功してほしいものです。
なお、こうした直近の経過を飛ばして10年後のシーンを想像するなら、リバイバルの周期がどうなっているかというところから考えるのがいいのではないかと思います。2010年代には1980年代のシンセポップに大きな注目が集まり、その流れが『ストレンジャー・シングス』シーズン4でのMetallica「Master of Puppets」や『ソー:ラブ&サンダー』でのDIO「Rainbow in the Dark」といった80年代HR/HMに波及(両作品とも公開は2022年)。2020年代に入ってからは、Y2K(2000年頃)の要素がニューメタルなども含め積極的に採用されるようになっている。といったことから類推するなら、2030年代には2010年付近がリバイバル対象になるのかもしれません。『現代メタルガイドブック』なら第5章の後半や第7章の前半あたりですね。そのタイミングで参照されうることも鑑みれば、本書の賞味期限は意外と長くもつのかも?ディスクガイドというものの存在意義はこういうところにもあるのだと考えると、なかなか趣深いものですね。
Q15. 最後に、s.h.i.さんにとってメタルとは?
歪みと洗練の兼ね合い。
以上。ありがとうございました。