アリス「チャンピオン」と沢木耕太郎『一瞬の夏』悲運のボクサーが生み出した名曲、名作
アリスの代表曲「チャンピオン」
2023年10月7日、歌手の谷村新司さんが死去していたことが一斉に報じられた。
享年74歳。
この年に入ってから体調を崩し、予定されていたアリスの全国ツアーを延期し、復帰を目指して療養していたが、願い叶わず帰らぬ人となった。
谷村新司は大阪府出身。桃山学院大学に在学しているころから大阪のミュージックシーンで活躍し、1971年堀内孝雄、矢沢透とともにフォークグループ「アリス」を結成。ソロ活動でも活躍し、さらには他アーティストへの楽曲提供で多くのヒット曲を送り出した。
谷村の訃報を伝えるニュースでは「昴」「サライ」といったソロ活動期の楽曲がしきりに取り上げられていたが、その一方であまりアリス時代の楽曲に触れられないのを残念がるファンの声も多かった。
「今はもうだれも」、「遠くで汽笛を聞きながら」、「冬の稲妻」などヒット曲は無数にあるが、アリスと聞いてすぐに思い出されるのは「チャンピオン」のことだ。
「つかみかけた熱い腕を ふりほどいて君は出てゆく」という一節から始まるこの曲は、若き挑戦者に敗れ、リングで引退を決意するベテランボクサーの悲哀を歌った名曲である。
「チャンピオン」のモデル カシアス内藤
そういえばどこかで、アリス「チャンピオン」のボクサーのモデルはカシアス内藤だと耳にしたことがあった。
その記憶をもとに調べてみると、東京新聞が2022年に新しい記事をまとめている。
この記事によると、「チャンピオン」で歌われているボクサーは、元東洋(OBF)ミドル級チャンピオンのカシアス内藤なのだと谷村自身の口から語られている。
アリスのシンガーと、ボクシングのチャンピオン。
谷村新司はどういう経緯でボクサー、カシアス内藤を知ったのか。
それは昭和53年のことだった。
この年の秋、谷村はある知人に誘われて下北沢にある金子ジムを訪ねた。
知人が谷村に見せたかったのは、一人のボクサーの姿だった。
そしてカシアス内藤の鬼気迫るスパーリングを目にした谷村はその迫力に衝撃を受けたのだという。
在日米軍所属だった父から受け継いだ180㎝近い肉体をもつ内藤は、当時日本にはまだ少ないミドル級のボクサーだった。
(※ミドル級は69-75kg)
バンテージを巻き、リングに上った彼はスパーリングパートナーを手玉に取り、中量級とは思えないような素軽いスピードで相手の攻撃をかわし、的確にパンチを決めていく。
リングサイドから眺めていた谷村新司は、その姿に思わず見惚れてしまう。
一流のボクサーというのは、こういうものかと。
しかし、抜きん出た実力を持っているはずの内藤には大きな弱点があるのだと、隣りにいた知人が耳打ちする。
それは、「優しすぎて、敵にとどめをさせない」ことだった。
どんなに大きいタイトルが掛った試合でも、内藤は有効打を決めてダメージを与え、相手を追い詰めてもう少しでノックアウト、というところで、フッとその手を止めてしまう。
リングの上で野性味を猛らせて闘うファイターが多い中で、内藤は「殺し合いじゃない」のだからと、相手を徹底的に痛めつけることを好まなかった。
そのスタイルは、精悍でありながらも瞳の奥に優しさを感じさせる内藤の容貌によくマッチしていた。
だが、ボクシングはただのスポーツではなく、「格闘技」である。
相手を殺してやるんだという気迫がときに必要とされる過酷なリングの中で、内藤のスタンスは明らかに異質である。
そんな自身の持つ「甘さ」に足を掬われて、内藤は世界チャンピオンに手が届かず、大きなタイトルを取り逃がしてきた。
谷村はそんな話を興味深く聞きながら、やはり目の前でスパーリングに汗を流すカシアス内藤の姿から目が離せなかった。
内藤の持つ外見と内面の違い、強さと弱さのアンバランスに心を奪われた谷村は、強い印象を刻み付けられ、そのインスピレーションを自身の楽曲へと注ぎ込む。
それが「チャンピオン」だった。
俄かには信じがたいが、谷村新司は1978年10月にカシアス内藤のスパーリングを見て触発されてその日のうちに曲を書き上げ、なんとわずか二か月後の12月に「チャンピオン」をリリースする。
この制作過程からするとまさに奇跡のような楽曲だが、この曲には一過性の勢いだけではない完成度の高さがある。
古今のポップソングを見渡してみても、ここまでストレートに一つの物語を打ち出している楽曲は珍しい。
端的に言えば、ここで歌われているのはチャンピオンが控室からリングへ向かい、闘いの末ついにマットの上へ崩れ落ちるまでの小一時間ほどの出来事の叙述である。
だがこの散文からは、年を重ねたボクサーが王座を守り続ける苦難、それを支える者との絆、そしてボクシングというスポーツが観る者を駆り立てる熱狂とが滲み出ている。
ボクサーを題材にとっていることで言えば、この曲の最後に現われる「ライラライ…」というフレーズが、サイモン&ガーファンクルの「ボクサー」のオマージュであることは周知の事実だ。
ただ、「ボクサー」が作詞者のポール・サイモンの生い立ちと重ね合わされた若いボクサーの内面性を描いているのに対して、「チャンピオン」はボクシングというスポーツの持つロマンをより直截に表象していることは評価出来るだろう。
サイモン&ガーファンクルの「ボクサー」を聴いていると冷たい朝のワークアウトの画が思い浮かぶが、「チャンピオン」の紡ぎ出す世界はまさにリングの熱き闘いそのものである。
あまりに有名でありすぎるがゆえ、逆に注目されることは少ないが、ただ一度のくり返しもないアリス「チャンピオン」の歌詞のすばらしさを、いま一度味わってみるのも、谷村新司への追悼となろうか。
沢木耕太郎『一瞬の夏』
谷村新司とカシアス内藤とを繋げた「知人」というのは、じつは作家の沢木耕太郎である。
沢木耕太郎は大学卒業後、安定した就職先を蹴ってフリーライターとしての活動を開始した。沢木がおもにルポルタージュの題材としたのは、さまざまなジャンルのスポーツで、その中には当然ボクシングも含まれていた。
若き日の沢木は、リングの上で実力を発揮できずどこか不完全燃焼なファイトばかりしているカシアス内藤が気にかかり、彼の試合があると必ず足を運ぶようになった。
そして綿密に取材を重ね、自らも内藤のために奔走した記録を「クレイになれなかった男」(『敗れざる者たち』所収)として発表した。
しかし身銭を切ってまで支援の手を差し伸べた沢木の思いは叶わず、カシアス内藤はボクシング界を去ることになり、ふたりの関係は途切れることになった。
そのあいだ沢木はのちに『深夜特急』としてまとめられることになるアジア―ヨーロッパ横断旅行に赴くなど、五年の歳月が流れた。
1978年、夏。ルポライターとして徐々に名が知られつつあった沢木は、思いも寄らない形でカシアス内藤の復帰を知る。
それが、『一瞬の夏』の冒頭場面である。
酒場で知人からカシアス内藤のカムバックを聞きつけた沢木は、ニューススタンドのある駅の売店へと走った。そこで手に取ったスポーツ紙の片隅の記事は、確かに内藤の復帰を知らせていた。
沢木の脳裏に、内藤とともに過ごした日々が蘇ってくる。
会いに行かないわけにはいかなかった。
翌日、沢木が情報をもとに下北沢にある金子ジムに向かうと、やはり内藤が姿を見せた。
そして再起に向けてトレーニングに励むカシアス内藤の傍らには、厳しく声を掛けるエディ・タウンゼントの姿もあった。
海老原博幸、ガッツ石松らの世界チャンピオンを育てたこの名トレーナーも、すでに64歳になっていた。老境に差し掛かり、カシアス内藤に残りの人生の全てを注ぎ込もうとしていた。
内藤、エディ、沢木。
再会を果たした三人が、カシアス内藤というボクサーがリングの上でほんとうに”燃え尽きた”と思える瞬間を迎えるために、再びチームを組むことになる。
この『一瞬の夏』で沢木がとったのは、「私(わたくし)ノンフィクション」と呼ばれることになるスタイルだった。
自分が見たものしか、書かない。
不確かなもので満ちあふれている現代においては、間接的に得た情報には危うさが含まれている。では、事実に徹する方法として、自分の眼で見たものだけを信じ、その範囲内でどこまでのものが書けるだろうか。
沢木はそう考えた。
ルポルタージュという手法が、主観的な思念を排除し、取材対象をできる限り客観視して叙述するものだとすれば、書き手自身の存在を文章の中に積極的に織り込んでいくこのスタイルは明らかに異質なアプローチと言える。
沢木のスタイル。それは取材対象を情熱を持って追い掛けながら、書き手がそこに主体的に斬り込んでゆくものだった。
実際に沢木は内藤の合宿に同行し、プロボクサーと肩を並べてワークアウトに加わっている。
体力には自信のあった沢木だが、そこは無論のこと、トップレベルのボクサーの走力との差を痛感する。
しかし、その体験こそがプロボクサーという人種がいかに通常の人間とかけ離れた存在なのかを証明することになる。
『一瞬の夏』の語り口は、取材対象を客観的に描写するのではない。作者自身(書き手)がその場面のひとつひとつに主体的に加わり、同じ体験や空間を共有しているのである。
そういえば、アリス「チャンピオン」の歌詞を見直してみると、主人公は確かに一人の老ボクサーだが、語り手の視点はこのボクサーの傍らに立って見つめる人物にとられている。
この視点は、まさに内藤のセコンドに付いていた沢木の視点そのものと言っていいだろう。
30歳が近づき、ボクサーとしては決して若くない年齢でカムバックを果たそうとするカシアス内藤。
やはりその前途には、さまざまな困難が待ち受けていた。
なかなか成立しないマッチメイク、わずかなファイトマネーしか稼げない中での内藤の生活への不安、そしてオファーから逃げ続けるチャンピオン…。
しかし、沢木の内藤への想いはほんとうだった。
なんとかこの男をチャンピオンの座に就かせたい。
その一心で途を切り拓こうと沢木と内藤は、5年前に掴めなかった栄光へとたどり着くことができるだろうか。
カシアス内藤の「最後の夏」が始まる。
カムバックを目指すカシアス内藤を支えるチームにはもう一人、新進カメラマン内藤利朗の姿もあった(偶然のことながらカシアス内藤と同姓である)。
利朗もまた内藤に惹かれていつしかチームの一員になり、カシアス内藤のカムバックの全てを写し撮っていた。
内藤、エディ、そして沢木の挑戦を伝えるものとして、彼の写真集『カシアス』をここに挙げておく。
見果てぬ夢に向かって
“カシアス内藤”こと内藤純一はリングを降りたあと様々な職を渡り歩き、ボクシングから離れた生活を送っていたが、師エディ・タウンゼントと交わした約束を忘れることはなかった。
それは、自分のジムを持ち、エディから受けた教えを若い世代に伝えていくことだった。
指導した選手が日本チャンピオンとなるなど、内藤がトレーナーとして優れた資質を持っていることは明らかだったが、ボクシングジムの開設となると、実現は簡単ではない。
長い時間を経て、ようやく資金に目途がついた矢先、内藤は咽頭がんを発症してしまう。しかし一時は余命宣告を受けるほどの危機を内藤は乗り越えた。
抗がん剤と放射線による治療に耐えてがんの進行を抑えることに成功し、ついに2005年、念願だったボクシングジムの開設を果たした。
そこには沢木耕太郎ら内藤の思いを汲んだ人々の支援の手もあった。
それからさらに20年近くの年月が流れた。エディの思いを継いだ内藤の下からは、二人の東洋太平洋王者を誕生するなど優れたボクサーが育っている。
内藤が咽頭がんで余命一ヶ月という宣告を受けたとき、面会に来てくれたのは谷村新司だった。
死の淵にあるときに励ましの言葉をかけてくれた友人への感謝を、内藤は今でも忘れない。
多くの支えがあって、内藤純一は現在充実の日々を送っている。
「いつかはこのジムから世界チャンピオンを出したい」
アリスの「チャンピオン」と沢木耕太郎の『一瞬の夏』と。
ふたつの傑作が世に生まれ出るルーツとなった元ボクサーは、今なお夢に向かってリングに立っている。