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込めたるは祈りにあらず |三|

些細な供物


 レモロは懸命に働く。少しでも信頼を勝ち取ろうと躍起になる。働きぶりが認められたのか、そのうちに野良作業を手伝うまでになり、外へ出歩く機会も多くなる。

 作業を終え、二人荷馬車で帰る途中、時折、麓のスミッチ村の者とすれ違う。大概が農夫で、もちろん彼らは孤児院の存在も承知している。貧しさが無関心にさせるのか、子どもらにあまり関心を示さず、ただ挨拶を交わしてすれ違うだけのことが大半だが、ごくたまに収穫した野菜や果物を恵んでくれる。
 そんな折でも、イーゴーはふて腐れたような態度で最低限の返答だけをしている。しかし、彼を知る隣人達が気を悪くすることはない。そもそも彼らにはそんな資格はないのだ。なぜなら、力ばかり強く頭の足りぬイーゴーを厄介払いし、山奥の孤児院へ追いやったのは、他でもないスミッチの村人たちなのだから。

 レモロは一言も口を利かない。外では口を開くなとの言いつけを守っているのだ。また、村人も彼が唖者だと聞かされているので、彼に構ったりもしない。
 逃げ出そうという考えはレモロにない。第一、彼は他の世界を知らない。彼は単にそこにある規範に従っているに過ぎない。だから当然、すれ違う知らない大人達になど、孤児院で起こっている異変を伝えようとさえ考えない。

 そんな彼でも、村人との会話でごく自然に吐いたイーゴーの嘘を聞くと、思わず声を上げそうになる。

「モニーンさんは達者か? 近頃見ねえが」そんな質問に対し、イーゴーはさらりとこう答える。

「いま、病気してる」
 村人が何か言う前に、さらに言葉を被せる。
「けんど、心配ね」
 それだけを告げ、背中を向ける。

 村人と別れ、驚愕の目で見上げるレモロに向けてか、それともただの独り言であるか、ともかくイーゴーはぶっきらぼうにこう続ける。

「心配ねぇ。すぐ、元どおりになる」


 それから程なくして、驚愕の出来事が訪れる。

 その日、広間を訪れた子どもらは一斉に声をあげる。暖炉の側の椅子に、死んだはずのモニーンが座っていたからだ。
 彼女は昔と同じ煤けた藍色のドレスを着、やや俯き加減の微笑をたたえ、前と同じように皆が見渡せる、長机の奥に座っている。
 子どもらは率直な嬉しさと共に駆け寄り、彼女を囲む。その時点でほとんどの子らは泣き出している。
 皆が抱く疑念は、モニーン本人が拭ってくれる。抱きついた子に応えるふうに頭を撫でる、以前と変わらぬ優しい彼女の手つきが。

 子どもらの中で今まで耐えたものが溢れ出す。訝しんで遠巻きに見ていた子らも一斉に押し寄せ、モニーンは椅子から転げ落ちそうになる。

 そこで側に立つイーゴーが動く。まずひとりの子の襟首が掴まれ、周りの子を巻き込み、投げ飛ばされる。次に、彼は残る子を手当たり次第殴りつけ、蹴り付ける。訳もわからず立ち尽くす子を掴んでは投げ、掴んでは投げ、手段を選ばずモニーンの側から遠ざける。
 彼はかつて、グールーを追い払うためだけに振るっていた暴力を、今は子どもらに行使する。殴り、殴り、殴り続ける。そんな行為を、皆が訳もわからず、二階に逃げ戻るまで続ける。

 ひとり遠くで見ていたレモロは戦慄する。そして今までの王様気分がいっぺんに吹き飛ぶ。自分の振る舞いが飛んだ勘違いだということを思い知り、反射的に平伏する。彼は実際にそうして見せる。膝を折り床に額を付ける。初めから君臨していたこの世界の王様に。

 そうして、垂れた頭のままにモニーンを覗き見る。襟首から覗く白い肌、きつく結いた長い髪と古ぼけた髪留め。少し紫がかった瞳。その遠い眼差しには、何も写していないように感じる。レモロは彼女にこそ深く暗い何か感じている。かつてあれほど優しく平等であった彼女は、子どもたちがイーゴーに蹴散らされている間中、何もせず、ただ微笑を浮かべ眺めていたからだ。
 彼女のその顔は濃淡のない、皮膚に貼り付けた仮面のよう。そう、いつか見たイーゴーの仮面のように。

「じき、ぜんぶ元どおりになる」

 イーゴーが口を開く。喉に何かが詰まったかのような低い声。だが、言葉足らずの男の確信に満ちたその言い分に、なぜだかレモロは膝を叩く思いでいる。それというのも、彼は彼で、目の前の景色に懐かしい既視感を抱いているからだ。

 暖炉のすぐ側、皆を見渡せる長机の端に鎮座する女王モニーン。その少し後ろで彼女を見守り指示を待つ、この屋敷の王様である下男イーゴー。それは物心ついた頃から見ていたありふれた光景。元通りの風景。ただひとつの違い。気配なく暖炉の暗がりに佇み、香を焚く老婆の存在など些細な違いでしかない。彼は本心でそう感じている。


 それから少し経ち、フスピとヒケアも戻ってくる。二人はモニーンの時と同様、ある日突然に現れ、当然のように暖炉の前に座っている。度重なる怪異に皆は動揺するが、「元どおりになる」イーゴーの言葉に啓示を受けたレモロの心情に驚きはない。
 そうして、いなくなった他の子たちも同じように現れ、暖炉の前に座っている。皆、満たされた微笑で黙りこくり、火を見つめている。

 さらに驚くべきは、その子らの身体の変化である。戻った子らは皆、肉体の全てが揃っている。つまり、もう違い子ではなくなっている。ヒケアの膝下はヒレでなく真っ直ぐ地を踏みしめることができる足が伸び、フスピの掌からはちゃんと五本ずつ、すらりと指が揃っている。

 暖炉前の子と、そうじゃない違い子。その図式を確立させるかのように、孤児たちに新たな規則が設けられる。規則は婆が定め、イーゴーが管理する。
 まず、元の違い子らは皆、モニーンはおろか、暖炉の子らに近づくことも話すことも許されない。次に、食事の作法も一新される。長机にその日の分の食事が盛られ、子どもらが早い者勝ちでそれを好きなだけ取り合う、そんなやり方だ。
 そうなると当然、機敏に動ける暖炉の子らがほとんどの食物を確保する。その子らはモニーンの側で不自由なく上等な食事を摂り、違い子らは皆、どうにか残飯にありつこうと必死になり、卑屈な笑みで媚を売ることになる。

 単純で捻りのない不公平。皆がそれを受け入れると、今まで助け合い補いあっていた違い子らも、それをしなくなる。弱肉強食。それが確立すると、誰しもが自然に、暖炉側に行ける日を待ち望むようになる。

「えらんでもらえる」

 いつしか、誰ともなくそんなことを言い始める。良い子でいれば暖炉に加えてもらえる。やがてそんな噂を口にしはじめる。

 そして実際に、数日おきに子どもが消え、数日経てば、その子は何食わぬ顔で暖炉に座っている。だからこそ違い子らは絶望も混乱もせず、淡々と日々を過ごすようになる。良い子で待っていればいつかは大好きなモニーンの側、暖かな暖炉の前に座れるのだから。

 しかし、レモロだけはこの事態にひたすらな不安を感じている。もし皆が違い子でなくなれば、自分の役割がなくなってしまうからだ。彼は今では、違い子たちをいじめはしない。暖炉の子らが怖いというよりも、あからさまな不公平を目の当たりにし、何となくしらけてしまったのだ。

 それに、屋敷の仕事を手伝っている彼は、モニーンらの底知れぬ不気味さを知っている。彼女はもともと多くを語らなかったが、今ではほとんど喋らない。ただ、食卓の片付けなどをしている際、近くにいくと彼女の喉から奇妙な音が聞こえる。「きゅぴくぴ」だとか、「きゅみみん」だとか、そう言った聞き慣れぬ高い音だ。それとなく彼女を見れば、やはりその音は彼女が出している。彼女は変わらぬ微笑をたたえ、喉だけを鳴らすふうにして、「きゃみみみ」「きゃみみ」「きゅみみん」と、訳の分からぬ高音を小さく響かせている。
 それ以来、レモロは夜に広間に近づくことをしなくなる。時折、仕事を申し付けられたりして部屋に入ると、あの気味の悪い音が飛び交っている。消えた暖炉の前で、モニーンと子どもたちが、一斉にあの小さな音で、何やら交信しているのだ。

 そうしてレモロはある夜半、胸騒ぎとともに起き上がる。廊下を進み、階段を降りる途中で、イーゴーと婆の会話を聞いてしまう。

「…もうすぐじゃて」「…元どおり」「…そうじゃ、皆、おんなじになる」「…違い子なぞ…些細な供物じゃろうて」「…皆一緒だ」「…これで不便なく暮らせる」
 階段に座り、壁に隠れた盗み聞いたぶん、全ては聞き取れはしない。それでも彼の直感は働き、無意識にも、深く重い不安を繋ぎ合わす。

 彼は夢を見る。夢の中で子どもらが笑っている。その並列から頭ひとつ飛び出し、モニーンも笑っている。皆、暖炉の火を背にし、真っ黒の影になって笑っている。その僅かに開いた口の中、喉の奥の奥までびっしりと大小歪な牙が生えている。

—— 取って変わられる

 世話の掛かる子どもがひとりもいなくなったら、自分もモニーンの側、あの暖炉の前、あそこにいる、“違う”自分に取って変わられてしまう。
 そんな考えがレモロのなかで渦巻き、彼は毎夜のように悪夢にうなされる。


─  続く ─

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