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込めたるは祈りにあらず |四|


嵐の訪れ


 その日もレモロは野良仕事を終え、孤児院へ戻る畦道を歩く。近頃のイーゴーの背中は、昔に戻ったかのような穏やかさがある。戻ったモニーンと、欠けた身体を取り戻した子どもたちが、彼を上機嫌にさせているのだ。

 すると前方から男がこちらに向かってくるのが見える。男は変わった出で立ちをしている。目深に被る短く折れた三角帽子が特徴的だ。狩人なのか、旅人なのか、いづれにしろここいらの農夫ではなさそうだ。

 不思議なのは、イーゴーが少しも警戒していないことだ。それどころか彼は、真正面から来る男にまるきり気付いている様子さえないふうに、いつもと変わらず大股で進んでいる。

 男との距離は近づき、僅かな緊張をレモロだけに抱かせた瞬間、呆気なくすれ違い、通り過ぎる。やはりイーゴーは知らんぷりで、振り向きはしない。

 見えていないのだろうか? 首を捻りつつ、レモロだけが振り返る。

 男もこちらを見ている。帽子と外套の隙間から片目だけを覗かせ、無表情でこちらに片手を挙げ、手品を見せてくれる。掲げた握り拳を開けば、無数の蝶が飛び出す、そんな手品だ。はじめてのことにレモロは楽しさよりも驚きが勝り、ただ立ち止まる。しかし男はそれ以上は何もせず、何食わぬ顔で立ち去っていく。
 レモロはその背中を少しだけ見送っていたが、振り返るとイーゴーがかなり遠くに行ってしまっていたので、急いで走っていく。

 その日を境に、ぬるい風が強く吹き始める。その風はこの土地に毎年吹き荒れる。朱鷺の嵐は冬の終わりを告げている。

 レモロはイーゴーとともに嵐の備えに取り掛かる。孤児院の屋根や壁の傷んだ箇所を修繕し、突風に耐えられるよう補強を施す。

 屋根で作業をしているレモロは、裏庭へ走る婆を見る。婆はいそいそと屋敷の裏手を抜け、藪の少し手前で立ち止まる。

 するとやにわに婆がうめき、何もない暗がりで恭しく跪く。藪がざわめき、そこに何かの気配を感じるが、レモロがいる場所からではよく見えない。

「おぉ、イハータラ様…」

 そう呼ぶのが辛うじて聞こえる。婆は枯れ葉だらけの土に額を擦らせ、小刻みに震えている。会話を交わしているふうでもあるが、やはりここからではよく聞こえない。
 不意に藪が黒いもやに包まれたように見える。レモロは瞼を擦り、目を開けると、婆がこちらを見ている。何か悪いことでもしてしまったのかと勘ぐり、思わず隠れ、しばらく待って顔を出した時点で、婆の姿はもういない。

 仕事を済ませ、レモロが屋根を降りると、どういう事情か玄関先でイーゴーが婆に詰め寄られている。

「何も、見ながっただかっ!」ものすごい剣幕で婆は怒り、イーゴーの向こう脛を棒切れで叩いている。

「見ねぇ、なにもおかしいころなんてねぇ」頭を抱えイーゴーはひたすら叱責に耐えている。
「なんでもいい! 思い出せ! そうじゃ、杖どうだ? 見てねえが? 杖を持った、男だろが女だろが」
「わがらね! 何もねえ」
「思い出せ! このうすのろの白痴が」役立たず、役立たず! 縮こまり丸くなるイーゴーを容赦なく打ち続ける。

「…みた」そこでレモロが割って入る。

「なんじゃと!」筋ばった指がレモロの肩に食い込む。
「言えっ! 話せっ!」
「何日か前、知らない男とすれ違った…」
「杖は!?」
「…杖は、…見てない」レモロは促されるまま、特徴的な帽子を被った男のことを正直に話す。
 あらかた話を聞いた婆は、再びイーゴーに取り付き、聞いた男の話を確認する。しかし彼のほうは一向に覚えがないようで、今までになく巨体を縮めて首を振る。
 それを見たレモロは、自分が嘘を吐いていると思われるのではないかと慌てるが、思惑に反し、婆は二人から遠ざかり、放心する。

「…あのお方の言うとおりじゃ」
 ぱたりと膝を付き、「…あやつらの手口じゃ、いつもあやつらは、不意にやってくる」がりがりと爪を噛んでいるかと思えば、「ああ! 忌々しい!」 急激な情緒で金切り声を上げる。
「急ぐのじゃ! 時間がうなった!」そう叫び、イーゴーを叩き起こす。ひどい悪態を吐きつつ、イーゴーを連れて屋敷の中へ引き揚げていく。

 残した仕事を済ませ、少し遅れて屋敷に入ったレモロは、漂う臭気に顔を押さえる。部屋中に煙が立ち込めている。咒言葉を呟きつつ、婆があらゆる場所に香を焚いて回ってるのだ。
 次にはがたがたと二階で大きな音が聞こえ、ほどなくして数人の子どもを抱えたイーゴーが大広間に向かう。
 咳き込みつつ、レモロも彼らについて行く。辺りは煙でよく見えない。暖炉の方、橙の明かりを目指すと、ぼんやりとモニーンの輪郭が見えてくる。

 腕が掴まれ、振り向けば婆がいる。婆は額にじっとりと汗を掻いている。落ち着きなく辺りを窺い、明らかに焦っている様子。
「口開けな」婆はそう言う側からレモロの頬を鷲掴む。
「おみゃあは変わらんでも良ぅなった」もう片方の手を口元に運び、聞き取れぬ言葉とともに手にした小瓶に指を突っ込み、掴んだどろりとした紫色の液体をレモロの口許に運ぶ。

 ゆっくりと垂れ下がるそれは、舌先に落ちる。それは甘い液体。花の蜜とは違い何の匂いもない、甘いだけの味。舌先から渦を巻くように口腔いっぱいに広がり、頭を痺れさせ、舌を焼くほどの甘味。

「飲み込むんじゃ」

 レモロは素直にその指示に従う。
 そうして、粘着く感触が喉を滑るのを最後に、彼の意識は遠ざかる。

「…おみゃあは、」
 耳だけが、婆の呟きを聞いている。

「…この婆に代わり…」

渦巻く甘味は無意識の領域へと溶け、その深層で言葉を補完させる。
「…根の方々に…仕えよ」


─ 続く ─


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