note_h_4_その2

銀と金 −中編


 ミルマが去ると、ルグは牢の隅へしゃがみ込む。藁をかき分け、傷の付いた床を見つけると、床を剥がし、石の隙間に並んだ小瓶を取り出す。

 彼は小瓶のふたを開け、まず匂いを嗅いでみる。腐った匂いがする。違う瓶も試してみるが、どれも同じ匂いがする。ようやくひとつだけ違う匂いの小瓶を見つけると、彼は少しだけ舐めてみる。

 もの凄い刺激臭と酸味が舌の上を伝わり、身体中が痺れる。一口飲んでみると、頭の奥がぎりぎりと締めつけられるように痛む。

 ルグは小瓶を元の場所に隠し、藁の上に横たわる。神経が高ぶりなかなか眠りにつくことができない。彼は小さな声で、ミルマと自分の名前を交互に呟きながら、長い夜を過ごす。

 次にミルマが来た時には、ルグは彼女のことをしっかり憶えている。それに、彼女の疲弊した様子にもすぐに気がつく。彼女の髪は以前と違いぼさぼさで、自分とそう変わりもないように感じる。

 「あたし、とろいから仕事がすごく遅いんだ」彼女は独り言のように呟き、左肩をさする。見ると腕が青紫色に腫れている。それでも彼女はルグに笑いかけ、藁屑を取り替える。

 その次に来た時には、彼女はさらに元気がない。顔色も悪く自分の体さえも重たそうな様子でいる。ルグは彼女の代わりに藁を持ってあげる。藁束を取り上げると、彼女は一瞬だけびくりと身体を震わせ、それからまた、「ごめんね、あたし、とろいから」そう呟き、寂しげにルグに笑いかける。

 ルグには、彼女の言うことがほとんど理解できない。彼女はある時は「あたし弟がいるんだ」そう言った。ルグには『弟』というものが何なのか思い出せない。ある時は、「ここから出られたら、故郷の綿畑を走り回りたい」そう言った。彼にはここから出るということも、故郷という言葉も思い出せずにいる。

 ある日、彼女は、「石を持ち上げなかった子たちはどこに行ったのだろう?」そんな疑問を呟く。やはりルグにはまるで何のことか分からない。「きっと持ち上げなかった子たちは、こんな目にあっていないんだ…、」思い詰めた顔で俯いてしまう。しゃがみ込む彼女n髪の一部が抜け落ち、白い頭皮が見えている。

 だが、ひたすらに、ルグはミルマの話をもっと理解したいと感じるのだった。彼女の話を聞いていると、何かを思い出せそうになるからだ。

 そのために、彼は夜になると定期的に例の小瓶を舐めるのだった。頭は前よりもすっきりとしたが、身体中が痛く、関節の節々が軋んだ。痛みがひどい時には、早くアイカレが紫色の薬をくれる日のことを待ち望むのだったが、そう思うだけで、ひどく不愉快な気持ちになりもするのだった。



 研究室に入るなり、アイカレは銀色の寝台に横たわる子どもに近づき、脈を測る。彼はすぐに、子どもに何の反応もないことを悟ると、その細い手首を汚らわしいものにでも触れていたかのように放り、舌打ちを何度も鳴らし、束になった羊皮紙を手に取る。最後の頁を捲り、乱暴に斜線を引く。それから初めの頁から目を通す。

 【実験体1︱変化無し︱三日で死亡 実験体2︱変化無し︱四日で死亡 実験体3︱皮膚に赤い斑点あり︱変化無し︱三日で死亡 実験体4︱変化無し︱二日で死亡…】

 そんな文字がびっしりと書かれている。途中、「実験体12」のあたりを過ぎると、何も書き込まれずに、ただ斜線で消された「実験体」の文字が続く。

 アイカレはその束に杖を近づけると、魔法の炎をあてがう。羊皮紙は一瞬のうちに灰となる。それから手下を呼びつけると、子どもの亡骸を処分するように言う。

 「次の子どもたちはいつになる?」遺体を背負い、逃げるように去ろうとする手下の男を呼び止める。

 「次に奴隷商が来るのは十日後になるかと…、」男は伏し目がちに言う。

 「マリクリアも足りん。抽出はどうなっている? 炉のほうは?」

 「そ、それは、なにぶん、マリクリアが最近まったく採れないもので」男が歯切れ悪く言う。

 「何故、見ない?」

 「は?」

 「何故こちらを見ない!?」アイカレが叫ぶと同時に、手下の目の前に一瞬にして移動する。黒煙りとともに目前に現れた主人に、男は腰を抜かし、見上げた先で主の顔を見つめる。

 同じようにアイカレも男を見下ろす。真っ黒の瞳のなかで充血した血管が、地虫のように輝きうねっている。

 「まあいい。炉の作業を二倍に増やせ。」

 「ですが…それでは…、」奴隷が皆死んでしまいます。男はそう言いかけて止める。「…わかりました」男はそれだけ言うと、逃げるように研究室を後にする。

 手下が去ると、アイカレは積まれた書物を杖で思いきりなぎ倒す。実験器具を叩き割り、魔法を使い、風を巻き上げ小さな黒い雷を落とし、部屋中をめちゃくちゃにする。

 「なぜだっ!なぜ失敗する!」床に散乱する古い書物から一冊を抜き取り、乱暴に捲る。

 「…ハーフウルフ、…吸血鬼、…ストライダ」書物の一節をぶつぶつと読み上げる。「大地母神…四の残り神…アーミラルダ…マリクリア鋼…、」

 それからアイカレは残った片手で書物を思い切り壁に投げつける。

 「なぜだ!なぜアーミラルダごときに創れて、このおれが出来ないっ!」おれは世界一の魔法使いだぞ!歯をギリギリと鳴らす。「何が残り神だ、おれは、おれこそが神になる者ぞ!」噛みしめる力で奥歯が一本吹き飛ぶがアイカレは気にしない。

 それから急激に、空気が抜けたように崩れ落ちる。足下の割れた鏡の中の自分を覗く。皮膚は前にも増して崩れ落ち、目は垂れ下がっている。アイカレはその時はじめて、自分の右目が崩れ落ち、空洞になっていることに気がつく。

 「では、なぜ生かす!」アイカレは鏡に向かって叫ぶ。

 「すべてが失敗に終わるというのならば、なぜこのおれを百年も生かす!答えよ!ヨム!魔王ヨムよ!さあ、答えるのだ!」

 自分の崩れ落ちた顔を睨む。憎悪が彼の表情をさらに醜く変容させる。真っ黒い影のようにぽっかりと落ちくぼんだ口蓋の奥で、つり上がったヘビのような瞳が笑う。

 「おお…」自分の顔の奥、空洞になった右目の奥に、まだ見ぬ魔王の幻を見る。すると口から、指から、目玉から、赤い血がぽたぽたとしたたり落ちる。

 アイカレは立ち上がり、にんまりと笑う。そうだ血だ。血が足りぬのか。塔の窓辺から不気味な光が差し込み、枯れ木のような男を照らす。



 また血を抜かれ出してから数日後に、ルグは手下の男に連れられ、外に出される。アイカレはもうほとんど外には出て来ない。

 いつもの木陰に座っていると、急に走り出したい衝動に駆られる。しかし、彼はそこにいなければならないと思い直し、じっと座り続ける。そうしてしばらく待ち、彼は背中からの声を聞く。

 「今日はいつもの薬はありません」ルグが横目で振り返ると、そこにはひげ面の行商人が隠れている。彼はその男のことをよく知っている気がする。

 「お前は…?」口を開いたルグに、男は目を見開き、髭を上下させて満面の笑顔を作る。それから男は見張りを気にしてルグを前に向かせる。

 「…良い徴候です。もうすぐです、」もう少しだけ耐えるのです。男が背後でそう囁く。もうすぐ助けが来る。良き魔法使いです。声が小さくなる。ルグが振り向くと、男の姿はもうそこには無い。森の遥か遠くで、黒い、大きな獣が走り去っていくのがみえる。

 ミルマはどんどん弱っている。ルグにはそれがはっきりと分かる。彼女はがりがりに痩せこけて、猫背になり、今ではルグよりも小さく見える。亜麻色の髪はほとんど抜け落ち、揉み上げと後ろ側だけに残った髪が、ごみ屑のようにこびりついている。

 ミルマはもう口を利こうとしない。あの高い声でルグに話しかけることはもうない。ルグにはわからない。彼女が口を利かないことではなくて、日に日に弱っていくことがわからない。

 だが、彼は考える。行商人の男にもらった薬のおかげで、彼の頭は少しだけ考えることができるようになっている。それでも彼には、なぜミルマが弱っていくのかがわからない。彼はなぜ、自分が弱ることのない身体なのかがわからない。

 女だから?ルグははじめ、そんなふうに考えた。けれど女が弱っていくものだとすれば、自分にはどうすることもできないように思えた。

 ミルマも血を抜かれているのだろうか?次にルグが考えたことはそれだった。そして、そうに違いないと思いこんだ。

 そうして次に食事に呼ばれた時に、彼はパンとりんごを食卓から盗んだ。血が足りないときは食べれば良いと思ったからだ。アイカレは研究室に籠もりきりで、もうほとんど塔の天辺の部屋にも来なかった。食事は食べ放題だったし、食卓の隅に置かれた薬も、飲まずに捨てることもできた。

 次にミルマが来た時に、ルグは隠していた食物を彼女に差し出した。ミルマは「ありがとう、」と力なく微笑み、パンを一口囓ったが、すぐにむせ込んでしまい、そのまま座り込んだ。

 「ごめんね…せっかく…持ってきてくれたのに」彼女は切れ切れと声を絞り出した。「少しずつ…少しずつしか、…もう食べられないの」立ち上がろうとしてへたり込んでしまうので、ルグは慎重に彼女を助け起こすと、彼女は必死で笑顔を作り、ぽろぽろと涙を流しはじめた。ルグにはその涙の意味がまるで分からなかった。

 もう行く時間だった。あまり長居をすると大人達にどやされてしまう。ミルマがいつもそう言っているので、ルグは彼女が去っていくのを待っていた。

 しかしミルマは立ちすくんだまま、動こうとはしなかった。顔をのぞき込むと、未だに涙を流していた。それからミルマはかすれた声で話し出した。

 「ねえ…ルグ、あたしはもう…だめなんだ…」その意味が分からずに、ルグはただ小首を傾げた。

 「でもね」怖くはないの。ミルマは必死になって話を続けた。死者の国にはお母さんも弟も居るから、あたしは怖くはないの、「でもね…」そこで顔を上げて、ルグを見つめた。

 「あたしは、ルグが心配。あたしがいなくなっちゃったら、ルグはまた独りぼっちになっちゃうもんね…」

 その言葉を聞き、奇妙な感覚をルグは感じた。それは、身体に微弱な電気が走ったような感覚であった。それから頭の中で自分が伝えるべき言葉が、綺麗に整理されていくのを感じた。

 「…大丈夫。」彼は口を開く。「ミルマはおれが守ってやる。絶対に助けてやる。だから、次にここへ来るまでは、生きていてくれ。」はっきりとそう言う。

 それを聞いたミルマは、少しだけ驚いた顔をして、それから、初めて話したあの時と同じ笑顔をルグに向け、弱々しく頷くのだった。



 次の日、ルグは銀の寝台に寝かせられ、手足を拘束され、いつものように血を抜かれていた。

 普段はなにも言わないアイカレが、その日は珍しく口を利いてきた。

 「…さあ、もうすぐだ…もうすぐおれの軍団が完成する。すべてお前のおかげだよ」アイカレはルグの顔をのぞき込んだ。

 久しぶりに間近で見るアイカレの顔は別人のようだった。いや、とても人とはいえない顔つきだった。ルグはその醜い男の右の目玉が無いことに気がついた。右側の頬から落ちくぼみ、暗い空洞だけがそこにはあった。彼はアイカレのことなどほとんど気にしたことなどなかったので、それが何時からなのか、分からずにいた。

 アイカレは薄ら笑いを浮かべている。口元にはよだれが輝いている。ああ、この男はどんどん狂っていってるんだ。その瞬間にルグは直感的に理解した。そして、そう考えられるようになったことがとても愉快だった。

 ルグが笑っていることに気がつくと、アイカレの顔が曇る。

 「お前、どうした?薬は…?薬はちゃんと飲んでいるのか?」

 「もう薬は必要ない」ルグがきっぱりとそう言うと、アイカレは素早く後ろに飛び退く。

 「お前にはあの薬が必要だ」必要ない!ルグはもう一度力強く言う。

 身体が動かせない。手足を縛ったベルトが解けない。寝台はいつも居心地が悪く、うまく力が出せない。そう感じつつも、ルグに恐怖はまったくない。反対に、目の前の不格好な男の、恐怖に張り付いた顔をみていると、不思議な笑いがこみ上げてくる。

 「なにが可笑しい!」アイカレが苛立ちを露わにする。

 ルグはひとしきり笑うと、歯を剝き出しにして魔法使いを睨む。それから、自然にこんな言葉が口をついて出てくる。

 「右側も、食いちぎってやろうか?」

 それを聞いたアイカレが顔を歪める。「忌々しい捨て犬めが!」杖を振りかざし、ルグに身体をきつく縛る魔法をかける。

 しかしルグは、まるで動じる様子をみせない。呼吸も出来ないほどにきつく縛る魔法をかけたつもりだったアイカレは、酷く取り乱し、慌てて懐から巻物を取り出す。

 そしてそれを広げてぶつぶつと呟けば、巻物は子どもの周りを囲むようにして広がる。

 仄暗い紫の光がルグを包み込む。その光を見ていると、彼の意識は薄らいでいく。腕に刺された管がアイカレが飛び退いた時に外れていて、どくどくと赤い血が流れ出るのが見える。

 「このおれに逆らうとは!」禍々しい顔つきで睨むアイカレの姿が歪んでいく。

 ルグは光が弾ける感覚を思い出していた。その感覚はよく知っていた。しまった。彼はそう感じるのだった。しまった、また元通りだ。また同じだ。ぼんやりとそんなことを考えるのだった。

 そうしてルグは、また、何も考えられなくなっていった。



 気がつくと、目の前に痩せこけた顔がある。ルグは必死になってその顔を思い出そうとするが、どうにも頭がぼんやりする。格子窓の外を見ると、外は暗く湿っていて、どうにも騒がしい。

 「今日はお休みをもらったの」知らない顔が嬉しそうにそう言う。ルグはそれを無視して、窓の外を見る。濡れたものが吹き込んで来る。それが雨粒だということさえも、彼はしばらく思い出せない。

 窓の外に大人が見えて、列に並べられた数十人の子どもが見える。この風景には見覚えがある。そう感じると、ルグは少しだけ安心する。空がピシャリと鳴る。すぐに眩むような光が来る。その音と光が何だか懐かしいように感じる。

 「…ねえ、どうしたの?ルグ」しきりに話しかけてくる人間をルグは無視する。

 何となく自分の親指の爪で壁に傷をつける。傷を数えると十もある。はじめに付けた傷が青梟の時期だったから…、ルグはそこで考えるのを止める。

 「ねえ、ねえ、」どうしちゃったのよ。声が煩い。大人達の声よりも高く響くその声を、彼は少し不愉快に感じる。

 もう一度窓の外を見ると、子どもの列とは別の場所にもうひとり少年がいる。そして、その少年がこちらに向かって歩き、誰にも咎められずに塔に入って来るのが見える。

 「何だろう?」ルグは声に出してみる。雨の中、こちらに歩いてくる少年から、なぜだか目が離せずにいる。空を見ると、雨の中、一羽の鷹が舞っている。

 「あたし…」知らない子どもが崩れ落ちる。「あたし…ルグの言葉を信じて…、それで、もらったパンを少しずつ食べて…リンゴもすり下ろして…、」

 ルグはその言葉を途中で遮る。うるさいなぁ。そう怒鳴ると、声がぴたりと止まる。黙りこむ少女の肩だけが小刻みに震えはじめる。

 そこで声がする。

 「そういう事だったか」

 聞き慣れた声。唯一知っている、最も不愉快な声がする。

 振り向けば、牢の外でアイカレが立っている。

 闇に落ちた魔法使いは、枯れ木のように佇み、歪んだ笑い声を立てる。



−後編につづく



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