往ては戻らぬ旅路の果てに
—レムグレイド歴三百七年—
「最初はネル・ローっつう、でかい街だ。ん? フラバンジだよ。帝都アインハーから東。詳しく知る必要はねえ。あんな土地まで稼ぎに行く必要はねえ。おれ様はともかく、おめえらの脚じゃ三つは季節も過ぎちまう。魔物狩りならハースハートンでも事欠かねえ、だろ?」
「ともかくネル・ローだ。そこは帝都の東に位置するが、海を挟んでマルドゥーラ教団領からも近い。石の竜と女神様。重き淑女に軽き母。なんのこっちゃ知れねえ。教団てのはどれも怪しげと相場は決まってるが、あの国は特に変だ。
知ってるか? フラバンジにはどでけえドラゴンの骨がそこかしこに転がってんだ。防壁を突き破ってそのままってのもある。なんでも、竜は女神の所有物なもんで、何ぴとも手出しはできねえって話。なかには鱗がそのまま残ってる死骸もあるってな。骨はともかく鱗ってのは、上等な防具にも金にもなるって噂だろ。そんなものを放置して、誰もが怪しい教団を信じ、惨めな暮らしを続けてるって訳だ。
おっと、ちいと話が逸れちまったな。だがな、そこがおれ様の良い所、ってな」
「つーこって、その女はネル・ローで見かけた。教団は帝国兵とは別で、独立したいくつかの騎士団を持ってる。暗がりの千年巫女に仕える『薄闇の使徒』ってやつだ。その使徒ってのは大概が貴族でな、どの街でも通りでふんぞり返ってやがる。ほとんどは脂ぎった野郎ばかりだが、どういう訳か団長だけは代々女が務めることになってる。要するに、そのひとりってのが、その女、レンビデン・ユラシーロ団長ってわけだ」
「騎士団はどこかに遠征するみてえだった。街は湧き、兵隊は金糸で縫いあげた旗掲げ、金ぴか甲冑が町中を練り歩いてた。だがそんなものに興味はねえ。おれの感心事はただひとつ、さっさと用事を済ませて、イギーニアに帰ることだけだからな」
「ところが、帰りがけに、またしてもその騎士団を見かけたんだ。連中、街外れまで進軍すると、どういう訳か、団長様とお付きの兵隊ひとりだけ残して街へ戻っていく。馬さえ残していかねえ。どうも様子がおかしい。あんな全身宝石みてぇな女を街外れで見送るか? …そこでおれはぴんときてな、こいつはもしかすると金になるぞ、ってな」
「で、おれは、二人の跡をつけることにした。護衛? はっ! ちったぁ頭を使えよ。ピフ。それで何になる? ちょっとした路銀で貴族様の従者になるってか。勘弁してくれよ。
言っただろ? 宝石みてぇ装備だってな。やり方なんて腐るほどある。例えばこうだ。もしあの連中が魔物に出くわし、旅を続けられなくなったら? 怪我でもしたとこに物取りに出くわしたら? でなけりゃ、不幸にも魔物に殺されちまいでもしたら? 装備はどうなる?
フラバンジではドラゴンに触れることは禁じられているが、死びとを弔うことはもちろん禁じられちゃいねぇ。弔いってのは、見付けたやつの方法で構わねえよな、そうだろ? つまりイギーニアの流儀だ。おれたちの流儀で弔い、報酬を受け取る。厳かに、粛々とな。…へへっ」
◇
しばらくおれは、二人を観察した。誰もいねえ街道へ出ても、二人とも兜を脱ぐどころか面頬さえ上げず、しゃんと背筋を正して歩いてやがる。お付きの野郎なぞ、数歩後ろで小旗なぞ掲げてな。
連中は南に向かっていた。南にはいくつかの寂れた村が点在するだけで、ずっと先にはモルドルだ。女の脚でモルドルまで辿り着くのはいつになるか、想像もできねえ。
やっぱ不自然だ。そう感じておれは先行して街道沿いを走った。先で誰かしらと合流する予定なら不思議もねえ。だが、どんなに先へ行こうと人っ子ひとり見当たらねえ。だが、しめたことに先にはずいぶん陰気な湿地帯が広がっていた。フラバンジに魔物は少ねえが、いるとすれば厄介な魔物ばかりだ。
どこの国にだって熊みてな女もいて、時々おれたちを驚かせもするが、ユラシーロ嬢はそうじゃねえ。子鹿みてえに細っこい、見るから中庭で育てられたご令嬢だ。つまりは、これまたどこにでもいる『お飾り団長様』って訳。
確かに野郎のほうは屈強そうだが、手に持つ旗槍はもちろん銀じゃねえ。丸盾を背負っちゃいるが、弓も斧も持たねえ。連中は魔物の襲撃をさほど想定してねえ。あらかた、腰にぶら下げた咒具と街道の守印を頼りに、呑気な二人旅でも想定してるんだろう。おれはそう踏んでいた。
そこでおれは自慢の脚で湿地帯に走り、魔物を探した。後はわかるだろ? おれが囮になって引き連れてきた魔物を、レザッドの旦那が軒並み射抜く。旦那とおれの戦法だ。だが、残念なこった。そこに旦那はいねえんだからな。
しばらく走って、おれはケルピィを見付けた。それも三匹だ。充分すぎる数だろ? 群れるケルピィなんてハースハートンじゃそういねえ。お付きの兵士がどんな手練れとしても、流石に無茶ってもんだ。
となれば後は簡単だ。鼠のマニオレ様とくりゃあ、魔物を怒らせる術を心得てる。激怒したケルピィなら、ちっぽけな咒具も街道の結界も嫌がらねえ。確かにちいと気の毒だが、そういうこった。これも世の常ってな。イギーニアには金が要る。そうだろ? ウロイド。
◇
おれはケルピィどもを連れて走った。上手いこと標的を街道の二人に向けて、草むらに隠れ見物を決め込んだ。
知ってのとおり、見た目は馬と蛙のあいのこってとこだが、水馬、ケルピィってのは水の魔物だ。やつの水の躰は弱点を突かなきゃ破壊できねえ。そいつはクルミくれぇの小さな核だ。そいつをぶち割れば魔物はただの水溜りに戻る。しかしそれが素人には至難の業ってもんよ。なにせ透き通る躰は水流でうねって、核を激しく移動させてるからな。
攻撃も独特だ。ありゃ痰って呼ぶべきか? 粘つくもんを飛ばしてきやがる。毒はないがな、とにかく粘つくやつだ。顔面に当たりでもすりゃ、呼吸を塞がれて終い。体当たりもご用心ってな、跳ね飛ばされずに済むが、そのまま水の躰にどぼんだ。いづれにしろ、どんな攻撃でも避けきれなきゃ、道端で溺れっ死んじまうってわけだ。
つまり、なにもかも好都合ってな。ケルピィは爪も牙も持たねえ。獲物を溺れさすのが唯一の攻撃手段だ。だからこそ、打撃でひしゃげることも爪や牙で傷付くこともなく、お嬢様のぴかぴかの鎧を頂戴できるってもんだ。うってつけの魔物じゃねえか。
ところがそうもいかなかった。お付きの野郎、こいつがなかなかやりやがる。手練れ、ってわけでもねえが、反射神経が半端じゃねえ。やつは痰をうまく避けやがる。分厚い黒鉄の全身甲冑の姿でな。隙をみて旗槍まで突き立て、反撃もしやがる。
それでも相手はケルピィだ。尖った穂先で核を突くことは難しい。どうしたって大振りになる長槍じゃなおさらにな。そしたら、奴さん何を思ったか、突然、槍捨てて小せえ丸盾を両手で構えて、足腰踏ん張りやがった。思わず声上げちまったぜ。不恰好だがそれほどまずい戦法でもねえからだ。実際に奴は、水馬の体当たりをものともしなかったからな。
で、水の体内に摂り込まれると、やつは盾と籠手でケルピィの内側から滅茶苦茶に暴れ続けるんだ。激しい水流に逆らってな。分厚い装甲が重し代わりになったんだよ。考えてみりゃ重装鎧ってのは、全身が戦棍みてえなもんだ。仕舞いにゃあ奴さん核を叩き割り、まんまと一匹黙らせちまった。それを見たおれぁ、よっぽどラームのじじいどもに進言してやろうかと思ったぜ。ケルピィにゃあ、こんな戦い方だってあるんだぞってな。じじいどものことだ、まともに取りあいはしないだろうがな。実際、この目で見ちまったんだから嘘はねえ。
一方のユラシーロはてんで駄目だ。細っこい剣をただ振り回してる。貴族が決闘で使う刺突剣ってやつだ。ほら、ダオの使う得物だ。わかるだろ? あんな細っこい針先で魔物を殺れるのは、ダオラーンくらいだって。ああいった武器は本来、技量と経験に物言わせ、鎧の隙間や急所を突くもんだ。斧や棍棒みてえに振り回してりゃ何とかなるような代物じゃねえ。いずれにせよ、小せえ穴ぼこなぞいくら空いても、ケルピィはくたばりゃしねえがな。
おまけに鈍重に輪を掛けた飾りだらけの鎧兜だ、脚はもつれ、すっころんでばかりいる。それでも彼女が無傷でいられるのは、黒鉄野郎のお陰ってなもんだ。奴さん、魔物の攻撃に構わず女を庇いまくるんだ。たまげたね、忠誠心ってやつかね? ねばつく痰を身体中に受けて、少しも動きが鈍らねえ。
やつの戦い方はまるきり獣だ。ものすげぇ雄叫びあげて、唸って威嚇し、場当たりで攻撃する。けど獣なら獣で、それで良いんだ。なにせ相手が魔物だ。獣も魔物も、常識が通じねえ所では大した違いもねえ。とびきり丈夫な奴なら、勘に頼って暴れ回るだけってのも、悪くもねえ。
自分が役立たねえことを悟ったユラシーロは、野郎の背後に回って指示を出しはじめた。援護のつもりなんだろうな。だがこれもよろしくねえ。「ミケオ後ろ! 右! 油断しないで! 左! 前からも! 気をつけて!」黄色い声で余計な指図を叫びやがる。「ミケオ! ミケオ!」ってな。あれじゃ下手くその猛獣使いも通り越して、芝居に夢中の村娘だ。
けど、ミケオはその叫びに逐一反応しやがる。ご丁寧にな。調子を狂わされて、仕舞いに息もあがりはじめる。それでも必死に女を守るんだ。身を犠牲にして、獣じみた声あげて、水の塊に向かって意味のねえ攻撃を繰り返し、女を抱えて避け回り、てんでてめえの身なんて気にしちゃいねえ。けなげなもんだよ。まったく。
…言うなよ。
言うなって。
だぁ! そうだよ、ソッソ。ご名答だ、ほだされちまったんだよ。いいか、おれは慈善家じゃあねえが、とびきりの人情家だ。根は善人なんだよ。そりゃ、一度は嵌めようとしたさ。下衆い真似してな。けどな、初めから見殺しにするつもりなんてねえ。適当に打ちのめされて、どっちかが気でも失った頃合いに、助けに入るつもりだったんだよ。嘘じゃねえさ。
けど、あんな情けねえもん見せつけられちまったら、俺様も黙っちゃいられねえ。作戦変更だ。気がつきゃおれは剣を抜いて、走ってたね。早々抜くこたぁねえおれ様の宝剣、その名も『黄金ネズミ』の刃をよ。
ま、そこからは疾風怒涛、マニオレ様のひとり舞台って訳だ。
◇
ケルピィを水溜まりに戻したおれ様は、得意げにふんぞってたさ。考えてみりゃあ間抜けな話だ。結果だけみりゃあ、おれは恩人だ。こりゃ謝礼もたんまり、初めからこの作戦で良かっただろ、って内心ほくそ笑んでたな。
ところがユラシーロは、おれに構わずミケオに駆け寄るんだ。不安げに鉄塊を撫で回して、「怪我はないか」ってな、震える声で何度も確認してやがる。
ミケオは唸り声あげて、見たことのねえ仕草で応えるんだ。片方の拳を胸、もう片方を鼻先に掲げるような、妙な仕草だ。見たことあるか? で、それを見たユラシーロは心底安心した様子で、同じ仕草を繰り返す。坊さんの祈りってのはベラゴアルドのどこを見渡しても、両手組んで頭を垂れるって決まってる。だからありゃあ、『薄闇の使徒』独自の祈り方なんだろうな。その時は、その程度に考えていたさ。
おれはおれで、空々しい咳払い、何度続けたかな。死にかけのロバみてえに咳き込んでみて、ようやく二人は気付きやがった。気付いて、ユラシーロは取り乱した。侍女みてえに頭下げ、素直に礼を告げてきた。こんな鼻の尖った怪しい小男に向かってな。帝国貴族令嬢様がなんの疑いさえ見せやしねえ。わざわざ兜まで脱いで、改めて正式に名乗り上げもするんだ。
そのご尊顔拝んでたまげたね。フラバンジ人ってのは色白と相場は決まっちゃいるが、彼女の肌はまるで、絹布の上等なおべべだ。これがまた、胸元までこぼれた黒髪が栄えやがる。物腰も柔らかでいて話し方は気丈、笑えば赤ん坊みてえにあどけねえ。お高くとまる素振りもねえくせに、妙な品格がある。とにかく、酒場にでも顔だしゃ、男なら誰でもニタついちまうような、良い娘だったよ。
惚れたのかって? よせやい。べっぴんったってほんの娘っこだぜ。十年待ったって、まだまだおれ様には見合わねえ。 …どっちがだって? それ以上言うなよ。お前ら。
一方のミケオは不気味なやつだ。よろつく足取りで旗槍を拾えば、背筋を伸ばして掲げるんだ。すでに旗布はずたぼろに破けちまってたが、構う様子もねえ。鉄兜を脱ぎもしねえ。飼い桶みてえな四角い兜でな、錐で空けたみてえな二つの丸い穴ぼこから、血走った目玉をぎょろつかせ、ふぅふぅ荒い息を漏らして、合間に低い唸り声を上げてな。おれ様のことを全身で警戒してやがる。まあ無理はねえがな。
しらけちまったおれは、すっかり興味を無くしちまった。それで、多少の事情を聞いて、早々に二人と別れたんだよ。
突かれると弱えから、白状しておくぜ。そうさ。多少の世話は焼いたさ。その、宝石みてえな装備はさっさと売っちまえだとか、戦えねえなら剣も売って野歩き用の杖でも握ってろだとか、いつまでも旗掲げて街道は歩くなだとか、常識的な助言を少々な。ああ、食糧も与えた。それから磁石だな。ユラシーロのやつ、それを不思議そうに受け取ったよ。そいつが方角を知る、旅には欠かせねえ道具だってことも知らなかったんだぜ? 笑っちまうよな。とんだ箱入りだぜ。…報酬? もらえるかってんだ。
◇
二人がどこへ向かってたかって?
なんでもユラシーロは『メギドラ・オウフ』ってのを探しているらしい。遥か西の地に赴き、そいつを見つけ出して、教団に捧げる旅をしてるってんだ。フラバンジに古くから伝わるもんらくしてな。女神マルドゥーラの神託なんだとよ。ほらよくあるだろ? 聖杯とか聖剣だとか、要は伝説だ。そういうもんを頭っから信じ込むってのが、教団ってもんだからな。
つっても、そんな使命は長らく頓挫したままらしい。数千年前の習わしを、わざわざ今になって復活させたってわけだ。ならそんなもん、たった二人だけで見つかるはずはねえわな。なにせ、磁石も知らねえ女だ。要は、頃合いをみてユラシーロはトンボ返りするつもりなんだろう。ネル・ローに戻り、伝説は見つかりませんでしたってなわけだ。水増しした冒険譚でも大司教様かなんかは大感激してな。旅立ちと同様、大袈裟な凱旋式やら怪しげな儀式やら済ませてよ、やれこれで立派な聖女だとか、祝福は成されたもうただとかなんだとかのたまって。それからは、親の決めた男とくっついて、似た顔のお人形さんみたいな子どもを産んで、育てて、仕合わせに暮らしましたとさ。…てなもんだ。
だからおれはイギーニアに引き上げてからは、二人のことなんかすっかり忘れちまったよ。
…次に会ったのは一年後だ。まったくの偶然だよ。ユラシーロは様変わりしてたな。身軽そうな装備を整え、すっかり旅人の様相だ。宝石の鎧も剣も売り払ったそうだ。手持ちには相場の一割にも満たねえ路銀しか持ってなかったがそれは仕方がねえ。貴族ったって、野に出れば身分も糞もありゃしねえからな。
ミケオは相変わらずだ。鎧も兜も脱がず、飽きもせずぼろの旗槍おっ立ててたよ。昼夜お嬢を護り続けてんだろうな。黒鉄は傷だらけで所々歪んでもいたが、中身はまあ元気そうだった。声を掛けても唸るばかりだがな。ま、少し頭が弱えんだ。
旅を続けてたのも驚いたが、驚いたのはネル・ローの少し先の村で二人に出会ったってことだ。ストライダってのは普通じゃねえ。おれらは普通の奴らがどれくらい移動できるのか、つい忘れがちになる。だがな、女の脚でも、流石にモルドル辺りには辿り着くだろ? 馬車でも拾わなかったのかって聞いたら、ずっと徒歩だって言いやがる。笑っちまったぜ。いくら得体の知れねえもん探して方々寄り道するにしてたって、時間掛かりすぎだ。そもそも、遥か西ってのに、近所も過ぎらぁな。
つまりはよ。向いてねえんだな、旅ってやつに。
もちろんおれは伝えたぜ。故郷へ帰れって。だがお嬢様、真面目な顔してただ首を振るばかりだ。貴族ってのは意固地なやつが多いと聞くが、そこに尊い信仰と伝承ってのも入り込んでんだ、よっぽどだろ。
けどよ…。
おらぁ、ユラシーロにそれとは違う何か引けねえ覚悟みてぇなもんも感じたんだ。絹の肌は陽に焼け頬はあかぎれ、唇はかさついて水気もねえ。どう考えたってお屋敷でぬくぬく暮らしてた方が似合ってる。だが彼女の使命を語る口ぶりは真剣そのもの、目つきは死んじゃいねえ。おまけに、唸るだけのミケオを見つめる眼差しは信頼に溢れて、互いに交わす例の祈りの仕草には、どうも深い情みてぇのが籠もって見える。そう思うとよ、奴のあの不気味な唸り声すら、なんだか互いに通じ合っているふうに聞こえてくる。
なんつうかな、要するに、辛そうには見えねえんだよ、連中は。だったら、どんなに過酷な使命を背負い込んでるのかは知らねえが、無理におれが止める道理もねえ。それによ。お前らにだって分かるだろ? 一度決めたことをやり遂げる。それが戦士だ。つまりは目つきを見りゃあ分かる。あいつらはおれたちとそう変わりねえ。決めた事があるならよ。それがどんな事情だって、尊いことに違いはねえ。だろ?
◇
また次の年だ。
連中、カカデロアまで移動してた。大したもんだよ。こうなりゃいよいよ世話焼く必要もねえ。もう旅暮らしはあいつらそのものになりつつあるんだ。人生そのものってやつにな。
だからおれは声も掛けずに去ろうとしたんだ。だがよ、ちらっと見たユラシーロの疲弊ぶりに、つい身体が反転しちまった。
彼女はおれを見て一瞬喜んだよ。すぐに思い詰めた顔に戻っちまったがな。で、取り乱して言うんだ。どうにもミケオ様子がおかしいってよ。
けどよ、おれが近づくとミケオは唸るんだ。腹に力貯めたみてぇに身体こわばらして。出会った頃とまるきり同じ。おれを認めてねえもんで、指一本触れさせてくれねえ。ああやっぱりこいつは獣そのものだ。そう感じてぴんときたね。要するに、こいつは手負いの獣だってな。
どうにか具合を探ると、案の定、右腕が折れちまってた。それも昨日今日の負傷じゃねえ。骨の変形具合を見れば、半年かそこら、折れたままで旅を続けてきたに違いねえ。それでも今だに、薄汚え布切れぶら下げた旗槍を掲げてんだ。いよいよだぜ。飛んじまってんだ、頭が。
おれが近づきゃミケオは暴れる。それを見たユラシーロは取り乱す。彼女は何度も例の仕草でなだめるんだが、ミケオはすっかり混乱して、我を忘れてさらに暴れる。危険を感じたおれが彼女を引き剥がしたところで、ミケオはばったり頭から倒れちまった。限界だったんだろうな。
おれは宿までミケオを担いだが、これがまた重いのなんの。おまけに路銀もとうに使い果たしちまったらしく、費用はおれ持ちとくる。もちろんカカデロアにツテなんてねえ、強欲な癒し手に大分ふんだくられちまったが、ま、関わっちまったものは仕方ねえ。
んで、宿でミケオの兜を引っぺがすことになった。どんな化け物づら拝めるかと期待してりゃ、何てことねえ黒髪の普通の若者だ。ちいとばかしおれ様より男前ってとこだな。…ちいとばかしな。
いきがかり上、しばらく逗留して、おれは様子を見ることになった。詳しい事情なんて知りたくはねえが、時間も持て余せばユラシーロは勝手に話し出す。なんの恩も返せねえ彼女は、それがせめてもの流儀だと思ったんだろうな。
それで色々知ったよ。マルドゥーラの教えってやつをな。おれは何となく事情は飲み込めてたもんで、黙ってたんだがな、それでユラシーロもしらけちまったみてぇで、尻つぼみに話を止めちまった。で、手持ち無沙汰になったおれは、例の仕草のことを訊ねたんだよ。拳を胸と鼻先に突き出して祈るあれだ。その仕草、二人の間で何度も交わされてるのを見たからな。
「契りの祈り」彼女はぽそりとそれだけを告げたよ。やっぱりなって、そう思ったよ。
要はこうだ。レンビデン家の御嬢様が年頃に恋をした。だがその相手は当家にそぐわぬ身分の上に、だいぶ頭の足りない男だった。尊いお家柄にとっちゃ、男はおろか、それに恋した実の娘さえも恥でしかなかったんだろう。だが単純に追放するにしても家柄に泥が付く。だからこそ、数千年前の習わしを持ちだしたって訳だ。
なら今までの動向も頷ける。見送りだけの盛大な行進もな。名のある貴族が大陸行脚すんだ。普通なら行く先々で身柄も保障されるに決まってる。少なくとも、免罪符になるようなありがてぇ品物を持ってるはずだ。指輪だとか徽章だとか巻物だとか。そういうもんちらつかせて、安全な旅が望めるもんだっての、ふつーは。
だが彼女はどうだ? 今じゃ乞食同然の身なり。噂を知る連中は誰も助けてもくれねえ。
要するに、彼女とミケオには、はじめから居場所なんてなかったんだよ。フラバンジにはな。
◇
確かにきつい話だがよくある悲劇でもある。このベラゴアルドで大抵のやつに人生を聞けば、右も左も悲劇ばかりだ。その度に金だの飯だの薬だの施したって仕方がねえ。何よりユラシーロの眼差しは腐っちゃいねえ。ミケオが回復次第、まだまだ使命ってやつを続けるつもりでいる。そりゃそうだ。旅を続けてさえいれば、二人は一緒にいられるんだからな。
それで良いと感じたよ、おれは。
街道へ出ればたった二人だけだ。神託だか使命なんだか知れねえが、旅を続ければ良い。住処も寝床も関係ねえ。道端だろうがどこだろうが、添い遂げてえってなら、暮らしってのは勝手についてくるもんだろ。
だからおれはミケオの回復を待たずに二人と別れたんだ。
で、今度は二年跨ぎだ。二人のことを気に掛けなかったっていったら嘘になる。だがまさか、こうも偶然が重なるとは、夢にも考えちゃいなかったよな流石に。
二人はポトコダにいた。信じられるか? ポトコダだ。海を渡りゃあイギーニアはすぐそこだ。
…まあ、あれだ。
そんな二人が寄る辺もなく旅を続けてんだ。いつまでも無事でいられるって、都合良くはいかねえわな。残念だがよ。
ユラシーロは別人みてぇだった。始めに見た面影もなく、遠目からは痩せこけた老婆のようだった。ミケオのやつは相変わらず鉄塊を着込んでて、見た目は分からねえが、中身がずたぼろだというのは一目瞭然だった。
どこで手に入れたか、ユラシーロは古ぼけた荷車を引いててな、荷台には、脚の立たねえミケオが乗っかってた。
つまりそういうこった。戦い続けたミケオは、ついに魔物に両脚を潰されちまったってわけだ。
それでも奴は、背筋だけは伸ばしてよ、未だ千切れた布切れ付けた旗槍、揚々と掲げてんだ、荷台の上でよ。健気なもんだよ。それが自分にできるせめてもの役割だって思ってたんだろうな。
後で知ったが、それは『メギドラ・オウフ』を示す旗印だそうだ。マルドゥーラ経典では、古の時代にはそういった聖騎士団がフラバンジ中を闊歩していて、旅先でえらく歓迎されてたって話だ。ミケオは足りねえ頭ながら、敬虔なマルドゥーラ信徒らしくてな。だからあいつはいつでもそいつを掲げてたんだ。なにせ、二人の自由を保障してくれる旗印だ。
立場は逆転しちまってた。彼女を護り続けたミケオが、今じゃお荷物になっちまってた。…惨めかもな。だがな、おれにはそうは見えなかったよ。荷台を引くユラシーロは変わらず幸せそうで、旗槍掲げるミケオも誇らしげだ。街のやつらは侮蔑の眼差しで見送り、ガキどもは気狂いだの乞食だのと囃し立てたりしてたがな、二人はまるで構いやしなかった。ひと気のない場所では、例の契りの仕草で、楽しげに確かめ合ってたな。
…かもな。もうすでに狂ってたのかもな。二人とも。
だがよ、それがなんだってんだ?
◇
ところで『メギドラ・オウフ』だがな。ベラゴアルド公用語では『見えざる血』って意味だ。
伝承はこうだ。「見えざるの血、飲み干せしフラバンジの民、栄華の刻、重き淑女を讃え、軽き母に畏る」とな。
そう聞いて、何か思うところはねえか?
フラバンジってのは唯一マルドゥーラを崇める国だ。神っていったら四の残り神が通例だが、フラバンジは他の神は認めてねえ。他は異端でさえねえ。つまり存在しない神ってわけだ。だったら、見えざる血って意味も分かるよな。
そうだよ。地母神アーミラルダだ。まあ、妖精王アリア・ルーアンかもしれねえし、戦神ザンダレイ・ザッパかもしれねえ。だが、フラバンジから見た異端って考えりゃ、アーミラルダが順当ってもんだろ?
血だとよ。ああ、おれたちが飲んだ、あれのことかもな。笑えるよな。それを言うなら毒の間違いだろが。伝承ってのはどこでねじ曲がるんだろうな。いや、案外わからねえぜ。アーミラルダってのは現存してて、殺しゃあ、血も流れる奴かもしれねえ。
ともかく、『メギドラ・オウフ』がおれらのよく知る、『アーミラルダの泉』だとしたら、ユラシーロは知らずに使命に近づいていたのかもしれねえ。なにせ、ポトコダまで辿り着いたんだ。
なぜそれを教えなかったのかって?
…だな。
…教えても構わなかったんだがな。
教えたところで、ユラシーロは辿り着けねえ。仮に辿り着いても、フラバンジまで泉を持ち出す方法はねえ。何もラームを気にしてたわけでも、おれらイギーニアで決めた掟を気にしてたわけでもねえんだがな。
…なんだろうな。ただ、続けてほしかったんだろうな。寄る辺の無い、二人きりの旅ってやつをな。
ま、これがおれの知る、ユラシーロとミケオの話だ。華々しい凱旋も称賛もねえ。おれ自体、最期まで見届けちゃいねえし、付随したお涙頂戴の美談もねえ。ただ道端を行く旅人の、終わりのねえ旅の断片だ。
さあ! そろそろ時間だ野郎ども! 準備は良いか、仕事だ仕事!
◇◇◇◇◇◇◇
だが、この話には続きがある。
マニオレはその後ユラシーロと出会っていた。そしてその時にはすでに、彼女はミケオと共に旅をしてはいなかった。彼女の話によれば、ある晩、谷間を進む際、振り向くとミケオは旗槍だけを残し、荷台から消えてしまったのだという
当然、彼女は谷底に落ちたと思い、降りようとした。しかし、切り立つ深い断崖に足場は見つからず、そもそも彼女は、ミケオが落ちた瞬間さえ気づかずにいたので、落下した地点を予想すらできなかった。ミケオは一切の声を上げず、音も振動も立てずに、荷台から忽然と消えてしまったのであった。そうして彼女は幾晩か谷間を彷徨った挙げ句、ミケオの捜索を断念し、ひとり旅を再開したとのことであった。
ミケオが足手まといを憂い自ら飛び込んだのか、あるいは荷車が小石かなにかで跳ね、誤って転落してしまったのかは判然としない。ただ事実としては、マニオレが望んだ二人の顛末でなかったことに違いはなかった。
気の毒に感じた彼は、ユラシーロをネル・ローまで送り届けてやるとの提案をした。旅は終わったんだ。後は故郷に帰りミケオを弔えば良い。そう説得したが、やはり彼女は頑なであった。彼女はミケオの残した旗槍を掲げ、決して脚を止めず、旅を続けようとするのであった。
いたたまれなくなったマニオレは、そこで『アーミラルダの泉』の秘密を彼女に教えたのだ。そしてそればかりでなく、彼女を泉のある森へと送り届ける約束をしたのであった。
もちろん彼は、ユラシーロが泉まで辿りつけはしないことは、分かり切っていた。なぜなら泉の手前の杉林には、オグレイと呼ばれる神に似た魔物が生息し、その森を通る者が、地母神の恩寵を預かるに足る者か否かを試すかのように攻撃を仕掛け、そぐわぬ者を軒並み石化させてしまうからだ。
続けてほしかった。マニオレは仲間たちにそうは言ったが、愛する者を失い、尚も旅を続けようとする彼女を憐れみ、彼は全てを引き受ける決断をしたのであった。つまり、彼女の望みを助け、弔いを引受ける決断を。
附木声、オグレイは神に似た魔物である。その精神攻撃は訪れた者に悪夢を見せ、死に至らしめ、石化させる力を持つ。
だが一方で、ストライダでさえ知り得ぬ事実もある。それは、自ら望んで死者の国へ訪れようと願う者には、悪夢を見せはしないという事実だ。悪夢は見せず、代わりに、その者が見た、最も美しかった光景を見せるのだ。
記憶とは過去にのみ存在する楽園。その中で附木声は優しく響き、望んだ者を望む形で、死者の国へと誘う。それがオグレイである。
泉に続く杉林はいつでも鬱蒼とし、猿に似た鳴き声がそこかしこに響いている。苔むした大地には方々に丸みのある石が点在し、かつて人であった生の息吹を密やかに伝えるふうにして、蒼い若葉が芽吹いている。
その一旦。花々に囲まれた比較的目新しい石像がある。隣には布の朽ちた旗槍が墓標の如く突き立てられている。その石は膝を付き、片手は拳を抱き、もう片手は鼻先で握られている。
生前の型取りはもはや不明瞭ではあるが、確かにその娘の顔つきは、笑っているようにも見える。
—おわり—