込めたるは祈りにあらず |十一|
街道にて
街道を進むにつれ風向きが変わる。草木や土の匂いとは別で、前にも感じた妙な生臭さが混じり、アギレラの口数は明らかに減る。
「ここらで別れる」
街道も広がり人通りが多くなると、頃合いを見て立ち止まる。彼はずっと迷っていた決断をレモロに告げる。
「お前はこのまま街道を西へ、二つの道が重なったら北だ。ナロンには報せを送っておく、上手くいけば辻道で迎えがくるかもしれん」道の先に霞む見張り櫓を指差す。レモロは何も言わずに彼を見上げている。
「街道を逸れなければ、魔物に出くわすことはねえ。先は人通りもあるから人攫いも出ねえ」子どもと目線を合わせ、銀貨が数枚入った袋を手渡す。
「辻には、レムグレイドの警備も、タミナの商兵もいる。トビウオの紋章が商兵だ。そいつらを見つけたら、こいつを渡して行き先を告げろ。金さえ積めばナロンまで護衛してくれるだろう。もし自力で辿り着けたら、ジリミという老夫婦を探して、それを渡せ」
「もし…、」おれに何かあったら、そう続けようとしてアギレラは言葉を飲み込む。
「わかったか?」
ずいぶんな無茶を告げられたレモロだが、「わかった」と、それだけを言う。
「いつも、聞き分けが良いこった」しかめ面で歯を見せる。
「…いや、単におれを信用してねぇだけだろうがな」そう腐し、子どもの頭をぐしゃぐしゃに撫でる。
「後のは冗談だ」きょとりとする背中を叩き、押し出すふうにして別れを告げる。
「常に強くあれよ、レモロ」彼は戻るとは言わない。戦場を知る戦士ならば、誰だって安い気休めなぞは口にはしない。
◇
文を携えナロンへと飛び立つ大鴉を見送り、アギレラは走り出す。街道を北に外れ、かなり走る。薮を抜け、朽ちた遺跡群の乱立する地点に入る。それは太古の要塞跡。何処とも知れず、消えた文明の名残。
漂う匂い。数日前から風に流れて漂う生臭さ。それを辿り、乱立する石積みで歪な囲いになった地点に辿り着く。角を曲がり、藪と石とで袋小路になった場所で立ち止まる。
「むう」アギレラはそこで荷物を下ろし、身軽になる。おもむろに腰の片刃手斧を取り出し、地面に落とす。そのまま突き刺さる斧の前にしゃがみ込み、乱暴に長マントを引き剥がす。
片膝を立て、左の腰から伸びた柄頭を右手の指先で触れ、同時に左手は、緩んだ肩帯を締め直しつつ、胸元から滑り落とすふうに指先で太杭の数を追い、右腰の柄で停止する。
目前には苔むした祭壇がある。その崩れた壇上には生臭さの根源、二つの生首が添えられている。何者かが意図的に腐った血の匂いを運び、ここへおびき寄せたのだ。
その首。イーゴーと咒婆。見覚えのある二つの顔にアギレラは目もくれない。俯いたまま神経を尖らせ、両の手のひらで、静かに直剣の柄頭を感じる。
おそらく祭壇に意味はない。ひと気のないこの場こそが敵にとっての有利な狩り場なのだろう。首はしくじった者への見せしめか、それとも、このおれをおびき寄せるためか。だが、なんの意味がある? ジャポはイーゴーを巡回兵に引き渡したといっていた。とすれば、その兵が偽物だったか…。
そこまで考え、アギレラは思考を止める。敵の思惑、企み、謀、そんなものを予想立てたとしても、戦い迫る今は、ただの雑念に過ぎぬ。
彼は動かなくなる。石のように停止し、じっと何かを待つ。
彼は勘を信じている。それはかつて研ぎ澄ませた猟兵としての己の直感。魔物ではなく主に人間を対象に追跡し、追い詰めてきた猟兵時代の臭覚。それは今でもかなり重宝している。事、知恵ある敵、吸血鬼との戦いにおいては。
ともあれストライダと変異した現在の彼は、卓越した能力を持っている。特に彼はその力の中でも忍耐力を評価している。それは地味だが戦闘には欠かせぬ力。極限まで神経を尖らせ、全身で索敵する。耳は街道を往く者の足音さえ捉え、皮膚は綿毛も散らせぬほどの微弱な揺らぎも察知する。
彼は無心で待つ。敵の見当は付いているとはいえ、何を待っているのかは判然とせず、断定もしない。だが必ず来る戦いを確信し、構えた姿勢を崩さない。
そうして刻だけが過ぎる。何か動きがあるとすれば、それは時間の経過と、風の流れだけにある。遺跡は数千年と変わらずそこにあり、アギレラはそれに同化する石積みの一部となる。
さらに刻は過ぎ、陽が傾き、枯れ草の影が伸びる。昼間が終わりを告げ、虫が鳴き始め、ハイイロガンの群が傾く陽に黒点を残し、巣に帰る。
そうして彼は唐突に抜剣する。まるで初めからそう決められていたかのような自然な姿勢から繰り出され、それは左右同時に来る敵意の気配へ向けられる。
十字に構えた直剣は、美しい銀色の弧を描きつつ水平に振り抜かれ、その切っ先深く、あたかも自然に吸い寄せられたかのように、両の怪物の喉元が差し込まれる。
吹き出す血火花に見向きもせず、握る得物さえ未練なく手放し、次の動作で目の前の大地に突き刺された手斧は、アギレラに握られると同時に素早く振りかぶられ、そのまま、すっぽ抜けたかのようにして主の元を離れ、背面の的へと放たれている。
「ギィィィ!」
奇怪な叫び。
立ち上がり振り向いたアギレラは、その時点でボウガンを握っている。すぐにボルトは放たれ、悶える化け物の腹に、立て続けに三射ほど突き刺さる。
ここまでの動作にぬかりはない。対の直剣、片刃の手斧、小型弩級。一呼吸でそれだけの得物を振るうのは、いささか技巧に過ぎるようでもあろう。だがそれこそがアギレラの戦い方である。彼は武器選びを見誤らない。“千手”、火薬庫ブライバスに師事した彼に落ち度はない。敵の数、特性、方法に合わせ、確実に得物を選び、脅威を跳ね除け、返り討ちに合わせる。
「…ほう、」
あるいは、何かしらが見誤っていたとすれば、それは、彼の想定していなかった敵に出会った場面だ。
「グゥゥゥ!」憤怒の叫び。一撃で灰と化した左右の敵とは違い、背後の敵、額に斧、腹に深くボルトを埋め込んだ怪物だけが、しぶとく絶命せずにいる。
「現れたな」アギレラはにやりと歯を見せる。ボルトを装填し、ぼきりと首をならし、改めて見構える。
「ストレイゴイ」
「やりやがったなぁ!」吸血鬼は血を吹き出しつつ、額と胸を傷つける銀の武器を引き抜く。充血した目玉を歪め、牙を剥き出す。
それから、歪で巨大な顔面が変容し、人間の男の姿になる。手酷い傷を負った吸血鬼がそうするのは、肉を変形させ、止血をするためだ。
アギレラはその男の顔に驚愕しつつ、同時に僅かな歓喜を抱く。
「顔を晒したな」
吹き出す血をぴたりと止めた強靭な敵に、思わず嬉しくなる。こうして確たる獲物を見つけるまで、いったい何年かかったか。
「顔は覚えたぞ」そう告げ、街道で言葉を交わした男、妙な具合に左目を眇めた男を見据える。
「たかがストライダ風情が、調子にのるなよ」眇の男が悪態を吐く。
「おいおい、いかにも小物が吐きそうな科白じゃねえか」挑発を続け、怒りを煽りつつ、構えるボウガンが四発目のボルトを放つ。
眇めの男はいとも簡単にそれをかわす。次に連続で投げ付けた投げナイフとニードルさえも。
だが予測どおり。アギレラはそう感じている。彼は端から、上級吸血鬼を飛び道具などで仕留められるとは、考えていない。
「滅んだと思っていたぞ、ストライダ」
眇めの男が冷静さを取り戻す。腰に装備していたダガーを抜き、低く構える。
アギレラもそれに応えるふうに、大地に突き刺さる対の直剣を拾い、十字に構えてこう言い放つ。
「滅ぶとすれば、貴様らも道連れだ」
─ 続く ─