note_h_2その7

妖精王の憂鬱 −その7


 フリセラは薄暗い路地を抜け、タミナの民兵に賄賂を渡し、水路沿いの石段を下ると、石橋の下に、ぼろ屋根が乱立しているのがみえる。

 貧民街の通りを歩くと、すぐに人々との違いに気がつく。大きな町であればあるほどに貧富の差が激しくなる。団長がそう言っていたことを思い出す。

 通りの人々が嫌な目つきで彼女を見る。男たちがニヤニヤと笑いながらこちらを見ている。よそ者の女がかなり珍しいようだ。

 通りには屋台のようなものが並ぶが、どれも売り物かどうかすらわからない。敷物に商品らしい物を並べ、座り込んでいる人々の身なりは皆、浮浪者のようだ。なかには欠けたパンや傷んだ干し肉を並べている者もいる。

 男たちがあからさまに卑猥な言葉を掛けてくる。通りに座る老婆もそれを見て笑っている。ここは旅人が物珍しさに旅行気分で来られる場所ではない。彼女は顔を伏せ、目を合わせないようにして足早に通り過ぎる。

 団長はこうも言っていた。貧しさは問題ではない。心の貧しさこそが問題なのだ。彼女は、はっきりと悟る。この町は貧しい。

 危険を感じて小道に逸れる。男達が数人、後を尾けてくるのがわかる。だめだ。これでは王さまを探すどころではない。

 駆け足で隣の道に出て、わざと迂回するようにして引き返す。石段の下まで進むと、民兵がうっすらと笑みを浮かべている。そのまま進もうとするが、手に持つ槍に阻まれる。

 「ちょ!」どきなさいよ。叫ぼうとして、言葉を呑み込む。民兵の視線の先に、尾けてきた男達がいる。民兵は顎をしゃくりその男達に気安い挨拶を交わす。

 フリセラは石段の脇を飛び降りてふたたび瓦礫の貧民街に入る。人混みの中を走り抜ける。迂闊だった。走りながら考える。知らない町の貧民街にひとりで来るなんて!どうすればいいのか分からず、涙が出そうになる。

 とりあえず中心街の尖塔を目指して走る。アーミラルダ教団ならば、庇ってくれるかもしれない。どこをどう走ったか。背中で追ってくる足音を避け、でたらめに角を曲がっていたが、ついに袋小路に出てしまう。

 急いで戻ろうとすると、いかにもごろつき風情の男が角から出てくる。

 フリセラは後じさる。

 「へへ、迷子かい?おじょうちゃん」前歯の欠けた男が薄ら笑いを浮かべている。

 フリセラは男を睨みつけ、ナイフを出す。

 「おや、ずいぶんあぶねぇもん持ってるじゃねえか。」別の男がやって来る。

 屋根に飛び移ろうとすると、屋根の上からも、小柄な男が顔を出す。「うほぉ。たまんね、」男は落ち着きなく自らの股間を触っている。

 男たちが、じわじわと近づいてくる。フリセラはナイフを構える。男たちは少しも怯む様子はない。

 どうする。どうすれば逃げられる。頭を巡らせる。このナイフでは誰も倒せない。曲芸用のものだから装飾のわりにはずっと軽いし、鋭さもない。ひとりだけなら傷くらいつけられるだろうけれど、それでどうする?

 ファフニンが肩で心配そうに彼女を見つめている。こいつらにこの子の姿が見えるはずがない。大丈夫。彼女はなんとか微笑んでみせる。

 男たちは薄ら笑いを浮かべているが、なかなか距離を詰めようとはしない。

 「おいおい、なにもしやしねぇよ」「ちょっとおしゃべりでもしようぜ」

 本当に何もしない?一瞬だけ信用しそうになる。フリセラは知っている。恐怖がどれだけ判断を鈍らせるかを。弱いものがどれだけ人を信用し、そして騙されてきたかを。

 男が馴れ馴れしい態度で近づいてくる。卑猥な言葉を言い合い、笑い合っている。

 その手が肩に触れたら首を搔き切ってやる。何かしてきたら舌を噛み切ってやる。お前らの思い通りになんてなるものか。フリセラは覚悟を決める。

 「ぼくが合図したら、一瞬だけ眼をつぶって」

 耳元でファフニンが囁く。

 どうする気だろう。でも信じるしかない。フリセラは一瞬で判断する。静かに頷き、男たちにゆっくりと近づく。ナイフを下ろして、油断させる姿勢を取る。

 男たちの顔が弛緩する。少し媚びる態度をみせただけで、もう油断している。

 「いまだ!」叫び声とともにフリセラは眼を瞑る。辺りが強い閃光に包まれていることが、瞼の裏からでも感じる。

 そうして眼を開けると、男たちが顔を覆い、悶えている。

 「すごいよ!ファフ!」隙を見て、一目散に逃げ出す。



 フリセラは走った。行く先はわからないが、とにかく走り、背後から足音が消えると、廃屋の隅に隠れた。

 「助かったよファフ、ありがとう」礼を言うが返事がない。ファフニンは虚ろな目つきで、肩にしがみついているのがやっとという様子。

 「ファフ?」

 そこでファフニンが肩からぽとりと落ちる。彼女は慌てて両手で受けとめる。意識を失いかけている。明らかに具合が悪そうだ。身体もかなり透けている。

 「どうしよう」フリセラは途方にくれてしまう。力を使い果たして疲れているのか、あるいは何かの病気なのか。まるで検討もつかない。妖精は犬や猫とは違うのだ。

 思わず考えもなしに通りに出てしまう。そこへ、運悪く先ほどの男たちと鉢合わせてしまう。

 男たちは再び例の薄ら笑いを浮かべながら、近づいてくる。中には激高している男もいる。先ほどよりも二人ほど仲間が増えている。

 彼女は走りだす。

 必死で逃げるが両手に妖精を抱えたままの姿勢では、素早く走れはしない。それでも逃げるしかない。なんとかしてファフだけでも逃さなくては。どこか静かなところに置いていけさえすれば、この子が見つかることはないだろう。この子さえ無事ならば、あたしのお伽話は終わらない。フリセラは何故だかそう感じる。

 けれど足を止めるわけにはいかない。彼女は走り続ける。どうすればいい?

 背後から声が迫ってくる。今にも追いつかれそうだ。気がつくとフリセラは涙を流しながら走っている。

 負けるもんか。負けんもんか。決意が強ければ強いほどに、涙が溢れでてくる。嫌な記憶が甦る。過去の亡霊たちが追いかけてくる。男たちの値踏みする眼。不愉快な笑い声。迫り来る手、手、手。

 ついに肩を掴まれる。その腕にナイフを突き立てたいが、ファフニンを落とすわけにはいかない。

 「離せっ!」離せよ!うつむきながら抵抗する。泣き顔は絶対に見られたくない。ものすごい力で振り向かされる。離せ!離せ!息が詰まって声がでない。

 「おいっ、落ち着け!」肩を掴んだ男が言う。構うものか。離せ。逃げ切ってやる。早くその手を離せよ。

 すると、掴まれた手が離れる。すかさず逃げようとするも、今度は両肩を掴まれ、軽く揺すぶられる。

 「いいから、落ち着けよ!」

 様子がおかしい。フリセラは目の前の男を見上げる。全身黒ずくめの男。先ほどのごろつきどもとは違う男が、彼女を見下ろしている。

 「何?」事態が掴めない。それでも掴まれたその両肩からは、不思議と悪意のようなものを感じない。

 「大丈夫だ。何もしやしねぇよ」男が言う。信じられるものか。フリセラは睨む。

 「あいつらも、何もできない。」男が顎をしゃくる。その方向には、先ほどのごろつきどもが眼を伏せている。小柄な男だけが片目から血を流していて、何やら喚き散らしている。

 「さあ、ついて来いよ」男が言う。ゆっくりとおれの後ろを付いてくるんだ。フリセラは仕方なくそれに従う。

 二人がごろつきどもの群れのど真ん中を突っ切る。男たちは忌々しそうに睨んではいるが、手を出してくる様子はない。小柄な男だけが、殺す殺すと喚いているが、逆に仲間たちに袋叩きにされる。

 橋の石段にいるタミナの民兵も、黒衣の男をすんなり通す。フリセラが通り過ぎると民兵は男に向かって、「お前ひとりで楽しむ気か?」そう訊いてくる。フリセラははっとして、身構えるが、振り向いた男はいかにも楽天的な声で、「心配しなさんな」そう彼女に告げると、口笛を吹きながら先へ進む。

 人気の多い大通りまで来て、二人は立ち止まる。

 「あんた、誰?」フリセラは恐る恐る訊ねる。

 「んー、ああ、」まあな。男は、ばつが悪そうに頭を掻く。

 「まあ、なんていうか、こっちのちっこいのの、知り合いにだな、」そうしてファフニンを指差し、へへへと笑う。「ちょっとした、借りがあってよ」

 ストライダだ。この男が例のストライダだ。フリセラは直感的にそう判断する。それから、助けてもらってなんだけれど、一発くらい殴ってやりたい。彼女はそうも感じる。



 フリセラは一言も告げずにストライダの横を通り過ぎる。

 「おいおい、助けてもらって礼もなしかよ。」

 一発殴ってやりたい所だが、ありがとうと小さな声で呟き、彼女は走り出す。いまはそれどころではない。

 「おいおい、ちょっと待てよ」男がしつこく付いてくる。この街のごろつきどもはタチが悪いぞ。背後で彼が警告する。山向こうの盗賊団とも繋がってかも知れないぜ。フリセラは構わずに走り続ける。

 「おい!待てって、その妖精、治せるアテはあるのかよ!」その言葉に、彼女はぴたり立ち止まる。

 「だったら、あんたにはあるの!」

 男は振り向いた女の瞳が涙をめいっぱい溜めていたので、思わず気圧されてしまう。

 「いやぁ…、」ないこともないが。言葉を濁す。女がぽろぽろと大粒の涙を流しながら睨んでくる。

 「少し遠いぞ。街の外だ。それまでに、そのちっこい妖精が耐えられるかどうか…」

 フリセラは両手に寝かせているファフニンを見つめる。もうほとんど透けてしまっている。この男の言うことが嘘だったとしても、自分にはどうしようも出来ない。こいつはこれでもたぶんストライダなのだから、万が一に賭けてみてもいいように思える。

 「嘘だったらぶっ殺すからね。」フリセラは男に詰め寄る。

 「あんたストライダなら、責任持って、この子を治してよ!」

 おいおい。勘弁しろよ。

 ストライダ・アルベルドは内心そう思う。

 結局は面倒ごとじゃねえか。妖精ってのは幸運の生き物じゃねえのか?少しも運なんて向いてきちゃいねえじゃねえか。それにしてもこいつは何でおれがストライダだと分かったんだ?

 まあいい、…だが、こんなふうに涙を浮かべて女に請われるのも、悪くはねえ。少し面倒だが頼まれてやらないこともない。彼はそんなことを考える。

 「そこまで頼む、ってならよ…、」

 「頼んでないわよ、ぶっ殺すって言ったの」フリセラが即座に否定するも、「…ま、手ぇ、貸してやってもいいぜ」ストライダはなぜかだかやたらに格好つけた姿勢でいう。

 なに、この男。ぜんぜん話聞いてない。フリセラが憮然としてアルベルドを品定めする。

 「いいわ。とにかくついてきて」再び早足で歩きだす。

 「ついてく?どこにだ?」

 「早く!」

 そうして走りだす。手に掬った水を一滴もこぼさないように。そんなふうにして彼女はファフニンを優しく包みこむ。


−その8へ続く−

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