妖精王の憂鬱 −その4
男は腰のランタンを灯し、積まれていた木箱の上に妖精を寝かせる。
「死んじまったわけでもないよな。妖精は死んじまったら煙みてぇに消えちまうっていうしな」
言葉からして、男はファフにとどめを刺す気はなさそうだ。気を失う妖精の小さな鞄の中で、黄玉の王は黙っている。下手に口を聞くのは得策とはいえないからだ。
そうして男を観察する。長マントに隠れて物々しい装備が見える。黒い胸当てに獣脂を塗り込んだ布製の丈夫そうな服。関節の継ぎ目になる所には帷子が見える。全身黒ずくめで、瞳も、部分的に編み込んだ長髪までが真っ黒だ。闇に紛れて動くことが多いのだろう。ただのごろつきではなさそうだ。
男は気を失うファフニンをまじまじと観察している。
「まあいいか。妖精をこれほど間近で見られる機会もそうないからな。少しは真面目に仕事しなくちゃな」男はそんな事を呟きつつ、ファフニンをひっくり返し、その緑色の髪や柔らかな羽をつまんだり突いたりする。それから胸ポケットから羽ペンを取り出し、何やら書きつけてもいる。
「確か、妖精には性別がないのだったな」そう呟き、羽ペンで仰向けに戻す。
「それにしたって、こいつはどうみても女みてぇだな」男はそう言いながら、妖精のふくらんだ胸を突こうとする。
「コラ!やめんか!」
思わず怒鳴ってしまう。すると男は目を丸くするが、やはり落ち着いている。妖精の連れなど恐るるに足らん、そう言わんばかりに鼻で笑う。
「会話する声が聞こえた気がしたが、やはり、お仲間がいたってわけかい」
聞こえただって!王は内心で驚愕する。妖精の囁き声が人間に聞こえるはずがあるまい。しかしそれがたとえはったりだとしても、こやつがただ者でないということに違いない。
「姿を現したほうがいいぞ」男が尖った声を出す。
ただでさえ勝ち目はないうえに、駆け引きにすら成らない立場だ。だがこの男の感の鋭さはどうだ。あまりに人間離れしている。いや、だとしたら。…なるほど、この男が何者なのか大体読めてきたぞ。
「取引をしないか?」試しにそう言ってみる。もはや降参といってもいい提案と承知しつつ、声を出す。
「取引にはならないぜ」案の定、男は声の出所を突き止める。妖精の小さな鞄を漁り、黄玉が取り出される。「こいつから声がしたと思うが?」
「左様、…我の声だ」
「ほほう。これはどうなってやがる。妖精ってのはしゃべる石を持ち歩いているもんなのか?」
「無礼な!我は厳粛なる妖精王、残り神、ベラゴアルドの四の希望が一つ、アリア・アルア・リア・ルーアンなるぞ!」
しばらく間を置いて、それから男は高笑いをする。
「はっ!おもしれぇこというじゃねえか。あんたが妖精王っていうなら、おれは戦神のザッパだな。だとすれば、この小っこい妖精は重力の女神ってか?」男はさらに笑いだす。
「お前は、ストライダだな」
王は静かにそう言う。
男の笑い声がぴたりと止まる。
「…だとしたら、どうだって言うんだ?」
「我の望みはただ一つ、この妖精を逃がしてやってはくれぬか」
男は真顔になり少し黙り込む。しばらく考え込んでから、にやりと笑う。妖精を両手ですくいとり、窓際に運ぶ。
「心配すんなって。何んにもする気はねぇよ」
そう言うと男は天窓を開け放ち、それから手に持つ王を陽の光にかざす。
「ふん、トパーズか、ずいぶん小さいな」石を光に透かして観察する。「色も少し曇っているな。石そのものの価値は、それほどないだろうな」そう呟き、胸のポケットのしまう。
「ちょ、ちょ、我も!我も逃がせ!」
「悪いな、」男は言う。
「妖精はともかく、喋る石ってのは、なかなかの代物だからな」
◇
── ああ。よく寝た。
目を覚ましたファフニンは、自分の居場所が分からずにいる。それでもしばらくは、窓の外に広がる夕焼けや、赤く光る海を見ていた。海を見るのははじめてだったし、そこに沈む太陽を見るのも、もちろんはじめてだった。
「王さま、おなかすいたぁ」そうぼやき、真っ暗な部屋を見た。「ここどこぉ?」口にしてみて、改めてその疑問を思い出す。
「ねぇ、王さまぁ、おなかすいた。ここどこぉ?」
あたりを見渡す。暗い巨大な部屋が広がる。妖精は闇に怯える。
王さまぁ。鞄に手を伸ばしたファフニンは驚く。王さまがいない! 必死で記憶をたぐる。黒ずくめの怪しい男を思い出すが、それからどうなったのかが思い出せない。
「どうしよう」暗い部屋のなかを、王の名を叫びながら飛び回る。真っ暗で何も見えないので、仕方なしに光を放つ。だが一瞬照らされた部屋には、王らしい物体は光らない。そこでファフニンは強い光ではなく、光量を抑えた淡い光を放ち、輝きながら探すことにする。
しかし、たとえぼんやりとした弱い光でも、輝きを保ちながら飛び回るのは負担がかかった。それでもファフニンは飛び続けた。そうすることしか思いつかなかったのだ。部屋の隅々まで探索する頃には、へとへとになってしまっていた。
「どうしよう。…ぼく、王さまがいないと何もできないよ」ファフニンは途方に暮れてしまう。もう光ることも出来ない。疲れ果て、ぶるりと身を震わせてから、自分の体温がずいぶん下がっていることに気がつく。
「うう、寒い」震えながら暗闇を見る。妖精は暗闇が怖かった。窓の外を見ると、すっかり日も暮れていて、やはり同じような暗闇が続いていた。
「きっと、あの男にさらわれちゃったんだ」どうしよう。何度も呟く。闇が妖精の体力をどんどん奪っていく。
妖精は暗闇に弱い生き物であった。
妖精は、陽の光を半日でも浴びれば、三日も四日も食べずに生きられる生き物であるが、反対に、暗闇には滅法弱く、丸一日でも暗い場所に閉じ込められでもすれば、たちどころに消え去ってしまうのだ。
年中明るい妖精の国とは違い、外の世界は季節ごとの日照時間は違えど、おおむね半分の時間は夜である。ファフニンが王と共に故郷を後にしてからというもの、やたら空腹になるのはそういう訳で、暗闇で衰弱しきった身体を、別の食物で補っているのだった。
この事実をファフニンも王も知らなかった。というよりも、この事実は、他の妖精たちでさえ、ほとんど知る者はいなかった。
妖精とは故郷を離れないものである。あるいは、一度離れた者が故郷に帰省したり、そういった例が多からずでもあれば、妖精たち自身も暗闇に耐性のない自らの生態を、しっかりと理解していただろう。ところがそういった事例でさえも皆無ともいえ、無自覚なままであった。それほどに妖精の国は閉鎖的な場所であるのだ。
つまり、妖精とは元来、故郷を離れては生きられない生き物なのだ。そこから飛び出し、別の種族と生活を営む例も、数え切れないほどにあるには有るが、そういう者たちは皆、通常では数千年ほど生き続けられる妖精たちにはありえないほどに短命で、長く生きていてもせいぜい数年程度で消え去ってしまう。しいての希望を述べれば、人間たちが残した数々の物語として残る、国を出た妖精達の記録でもあるが、どの物語も、いつでも不運な運命を辿っていた。
◇
金熊亭は店じまいの準備をしていた。給仕たちは散らかった店内を片づけ、団長と店主は分け前の話し合いをしていた。フリセラはくたびれ果てていた。彼女の赤毛やそばかすをけなすくせに、やたらと奢りたがる客がいたからだ。
「ああいう男ってどの町にでもいるんだよねぇ」フリセラはぐったりとしてテーブルに突っ伏す。「いじめっ子みたいなさぁ」
婆はそんな彼女の愚痴を聞き流しながら、商売道具の水晶を磨いている。
「好きな女の子に憎まれ口しか言えない、面倒くさいやつ、っていうのぉ」
そこへドンムゴがやってくる。彼はフリセラの前に無言で佇む。巨大な男は、小さな茶色い猫を抱いている。
「なに?猫なんて抱いちゃって」ドンムゴは黙って猫を見つめ、フリセラに差し出す。
「だからなによ、あ、この猫くさい!」ドンムゴは無言で首を振り、さらに猫を彼女の鼻先に押しつける。
「ちょ、やめてよ…」フリセラは押し戻そうとするが、猫を背中に取り憑いているものに気がつく。
「あっ、ファフ!これファフじゃない!どうしちゃったの!?」彼女は猫の背からファフニンをすくい取り、テーブルに寝かせる。妖精はいかにも疲れ切っていて、どういうわけか身体が僅かに透明に見える。
「婆、見て、ファフが透けてる」
婆は水晶を鞄にしまい、代わりに虫眼鏡を取り出すし、妖精を観察する。
「ほっ、こりゃ、消えかけてるの」
「えっ!?どど、どうしよう。どうすればいいの!?」取り乱すフリセラには目もくれず、婆は虫眼鏡を鞄にしまう。
「さぁの、妖精の事情なぞ、婆にもわからんて」独り言のように呟くと、今度は悠長に大きな蝋燭を取り出す。
ファフニンは、自分の名前を呼ぶフリセラの声は聞こえていたが、それに応える気力すらなかった。視界の隅で、ここまで運んでくれた猫とドンムゴの姿が見えた。ドンムゴが猫に餌をやり終え、扉の外に送り出す風景を眺めていると、少し安心し、自然に声が出る。
「おなか、すいたぁ…」
その小さな消え入りそうな声を確かに聞いたフリセラは、直ちに立ち上がり、金熊亭じゅうに響きわたる大声で叫ぶ。
「おいっ!団長!食べ物!余り物でも何でもいいから、早く持ってこい!」
「はいっ!」
店主と分け前の交渉をしていた団長は、おもわず飛び上がる。
◇
程なくして、妖精を埋め尽くさんばかりの食べものが運ばれる。食物に四方を囲まれたファフニンは、その中から白パンの端っこを千切ろうとするが、どうにも力が入らない。それを見たフリセラは代わりにパンを指先で千切り、小分けにしてファフニンに与える。
ファフニンははじめ、呑み込むことすら億劫そうにしていたが、一口、二口と嚥下していくうちに、次第に気力を取り戻していく。それでも半透明になった身体はあまり戻らない。
ひとしきり空腹を満たすと、ファフニンは思い出したように手を止める。
「フリセラ!どうしよう。王さまが、ルーアンさまがさらわれちゃった!」
「さらわれた?いったい誰に?」よく見ると妖精の鞄の中の黄玉が見当たらない。
「さらわれた、というよりも、盗まれたのじゃろうな。」婆が言う。
気がつけば、婆の座るテーブルの上には蝋燭の他に、装飾を施した無数の動物の骨が置かれている。商売道具を片付けていると思っていたが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。
「ルーアンさまに黄玉を渡した時、欲深い人間には、妖精は見えないものだで、まさかとはおもたが、」盗まれたとしたら、あたしの責任もあるからの。婆は慣れた手つきで香炉に火を入れる。
「そうか!」そこでフリセラは婆の行動の意味を理解する。「さすが婆様!」しわしわの頬に抱きつく。
占い婆が降霊術をはじめるということで、団長と店主が集まってくる。
「婆の占いはアムストリスモ魔法学校直伝だ」団長がいつもの眉唾ものの謳い文句で盛り上げる。
金熊亭の店主には、妖精の姿はおろか、その声も聞こえない様子であった。彼はテーブルに並べられた食物も、その中心にある女の子の人形も、婆の占い道具のひとつだと勘違いしていた。それでもこの奇妙な旅芸人たちがはじめた見世物を、彼は物珍しげに眺めていた。
婆の指示で店中の灯りが消される。婆は口元で何やらブツブツと呪文のようなものを唱える。香炉の煙がふっと消え、代わりに蝋燭の灯火が強まる。すると婆の瞳が裏返り、ゆらゆらと身体が揺れはじめる。
「…野を駆ける者…」婆が朗々と語り始める。
「精霊が降りたぞ」団長が店主に耳打ちすると、「静かにっ」フリセラが指を立てて団長を睨む。ファフニンは黙って婆の様子を心配そうに見守っている。
「…波の音…そこは暗渠か?」婆が断片的な言葉を口にする。商人ギルド。魔の物。豚泥棒。沼地の魔法使い。
すると突然に婆の身体がびくりと硬直する。
「…おお!…まさか、ドラゴン、竜の仔、竜の仔が…」興奮した様子で左右に揺れはじめる。
「ああ、…恐れ多い、あたしには荷が重いことじゃて…」
ついには顔を覆い震えだしてしまう。
「おい、こりゃまずい、」団長は慌ててそう言い、店主に向かって果物酢を持ってくるように頼む。
店主が訳も分からずにビネガーの小瓶を渡すと、フリセラがそれをふんだくり、婆の鼻先に近付ける。
酢の臭いを嗅いだ婆は、びくりと身体を震わせ、正気を取り戻す。
それから何事もなかったかのように、けろりとして、そそくさに道具を鞄に詰め込むと立ち上がり、何も言わずに部屋の方へ向かって出て行ってしまう。そんな婆の態度はいつものことなので、皆は呼び止めたりはしない。
店主は、自分が思っていたよりもたいした見世物ではなかった様子で、小首をかしげながら不満げに去って行く。
残った者たちで、婆の精霊憑きの成果のおさらいをはじめる。
「野を駆ける者って?」フリセラが訊く。
「ストライダのことだな」団長が答える。
「そういえば、ストライダがタミナにひとり居るって、どこかで聞いたような…」聞かないような…。店主が去り際に言う。フリセラが詳しい話を訊こうとするが、店主はそのまま奥に引っ込んでしまう。
「波の音、暗渠、魔の物、豚泥棒、それから商人ギルド、」フリセラは婆の言葉を思い出す。
「まあ、大方の予想はつくな」団長が再び答える。タミナで豚が盗まれ、調査すると怪物の仕業だと分かった。それでストライダがギルドから怪物退治の依頼を受けた。婆の占い解読はお手の物、そう言わんばかりに、団長は得意げに語る。
「で、波の音ってことは、海の側に、下水道だかの暗渠があるってことだな。」「だから何よ?」「だからそこでストライダが魔物を追い詰めてるってことだろ?」
「だ、か、ら、それがどうしたっていうのよ。王さまとどう関係があるのよ」
「知らないよ、おれに聞くなよ」団長は肩をすくめる。
「沼地の魔法使い…」ドンムゴ呟く。団長とフリセラは、久しぶりに聞いた大男の声に目を丸くする。
「…それに、竜の仔、ってなにかな?」ファフニンがすがるように言う。最後に竜の仔と口にした婆は、精霊を乱してしまった。あのまま続ければ占い師は現世と幽世の間から還れなくなってしまうという。
皆は顔を見合わせて、同時に首を振る。責任を感じているのだろう。あれほど楽天的だった妖精の変わり様をフリセラは気の毒に思う。
「ま、とにかくさ、明日の朝から一緒に探しに行こうよ!ね、ファフ、心配いらないよ!」努めて明るく振る舞う。
「おいおい!仕事はどうするんだ!」団長が口を挟む。
「こーんな可愛い妖精が困ってんだ!文句いいなさんな、」フリセラが睨む。団長は舌打ちをしながら仕方なく承知する。
「夜までには帰ってこいよ、」そう言い捨て、文句を吐きつつ団長も去って行く。
−その5に続く−