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込めたるは祈りにあらず |終話|

別たれる辻


 距離を詰めず、互いは静かに対峙する。
 おびき寄せられたという時点で不利、まして時間を掛けた戦いほど悪手となるのも承知しつつ、アギレラは改めて相手を観察する。

 額から血を流すすがめの男。対のダガーを正手と逆手で持つ構えは、地走りクロウラの暗殺術に通ずる。互いに両手持ちだが、これ以上の狭所に持ち込まれれば、おれの直剣はいささか分が悪い。加えてあの形状、モミの枝葉によく似た乱雑な刃からして、あのダガーには間違いなく毒が仕込まれている。

 アギレラはポーチから小瓶を取り出し、中の液体を飲み干す。敵が動き出す気配は未だない。吸血鬼の正体、あの醜い化け物の姿での牙は脅威だが、肥大した顔と筋肉では如何せん素早さに欠く。つまりこの男が顔を晒したまま人の姿でいるのは、力ではなく素早さに自信があるとみて間違いなかろう。

「おとなしく斬られろとは言わねぇがな」
 アギレラのほうから先に口を利く。
「はじめにきさまらが締約を破ったのだ、報復されても文句は言えまい」

「ずいぶん聞こえが悪りぃ」眇の男は肩をすくめる。

「おれたちゃ、ただ、協力してやっただけだぜ?」束の間、うすら笑いで構えを解き、両腕を広げてみせる。
人間てめえらが持て余し、捨てたガキどもを…っ!」そこまで言いかけ、男は慌てて躰をひねる。
 アギレラは敵が見せた隙を逃さない。つま先だけの無音の踏み込みは、次に大地を蹴り両腕を振り抜くだけで、直剣の切っ先が敵に到達している。「うをっと!てめぇこら!」錐もみで逃げ出し、再び間合いを確保する男の右上腕には、ばくりと深い傷が開く。 

「なるほど素早い」
 しかし、アギレラの頬にも真っ直ぐ、横に開いた傷が血を垂らす。

「ぞくぞくするぜ、おい!」不意打ちを受け、なぜか眇の男が調子づく。
「楽しもうじゃねえの!」両手でダガーを何度も持ち替えつつ、今度は男から仕掛ける。



 レモロは街道を行く。
 先は進めばすぐに人通りは増える。足早に追い越された旅人に押し出され、別の大人に弾かれた先で、馬車の車輪が鼻先を掠める。それでも彼は取り乱さずに土埃を払い、歩き出す。
 道行く人々は皆、愛想なくすれ違うか、追い抜いていく。どの大人もレモロを一瞥しては、決して深く関わろうとはせずに通り過ぎる。それは街道の警備に立つ兵士も同じで、大概は他の旅人と同じふうにレモロを黙認し、無表情で見送っていく。

 やがて見張り櫓が近づき、四つ角の広い辻、セルポ十字路が見えはじめる。賑わうその広い街道には多くの商店が並び、今時は特に、青空酒場が旅人で賑わっている。

 客を呼び込む女を通り過ぎ、金床を振るう職人の先に、大盾を背負い槍を持つ兵隊が三人ほどいる。彼らの大盾に描かれる槍とトビウオの紋章を認めると、レモロは恐る恐る近づいていく。
「…あの」か細く掛ける声に、談笑する兵士はまるで反応しない。
「あの」息を吸い込み、声を出そうとする。

—— レモロ

 名を呼ぶ声に、レモロは振り返る。

 レモロや、お前さんや。

 どこからか聞こえる声に耳を傾ける。すると、人通りの隙間、向かいの道端に座る老婆を見付ける。

「…婆?」

 声に出してみて、レモロは首を傾げる。孤児院の咒婆とは少し違うが、とてもよく似た老婆が手招きしている。
 訝しみつつもそちらに歩き出してみる。真っ直ぐに進み、ふと、立ち止まる。彼は丁度、辻の真ん中にいる。

 彼は行き交う人々を眺める。四方に散ってはまた押し寄せる脚。男も女も若者も年寄りも皆、力強く泥を蹴り、確かな足取りで進み、何かしらの目的を持っているふうに思える。
 迎えが来るかも知れない。そう思い少し待っても見るが、そのような者がいるかどうかはまるでわからない。視線の先では、タミナの兵士が談笑を続け、こちらには見向きもせず、重なる道の北側は遠くの方まで長い坂道が見える。

 彼は諦めるふうに振り返り、再び老婆のもとへ進んでいく。



 遺跡群の奥で、ぶつかり合う金属音がこだまする。
 同じような音でも多少の違いがある。やや重みのあるものと、小刻みに連続する甲高い響き。それは一定の拍子を打ち、ある種の虫の音のように暮れなずむ空に溶けていく。
 しかし次第に甲高さばかりが増し、拍子はどんどん早くなる。それはアギレラが防御に転じていることを意味している。敵の手捌きに押され、彼は防御に徹している。後退りしつつ、やがて細い通路まで追い詰められる。

 踵の感触で後退の限界を悟り、アギレラは牽制を込めて反撃を振るう。しかし、無茶な姿勢で放つその連撃は、あえなく捌かれたダガーに弾かれ、左右の石積みにぶつかる。
 その隙を眇の男は見逃さない。間合いをさらに詰められたアギレラは、たまらず剣を一振り投げ捨て、脇を縮めたままの力の入らぬ両手持ちで何とか攻撃を弾く。

「しゃああ!」
 調子づいたナイフ突きが布手袋グローブの甲を裂き、咄嗟に身を屈めたその額の、赤い筋が血を散らす。
 次々に襲う連撃を無理な姿勢で何とかかわし続けるアギレラの顔面には、細かい傷が刻まれ続ける。額、鼻、頬、顎、首筋に降るにつれ、切り傷は増える。喉元の急所めがけ、眇の男の攻撃が確実さを増す。

「ぐ、」防戦一方で何とか致命傷だけは避け続けていたアギレラが、不自然に崩れ落ちる。動きは急激に鈍くなり、ついには片膝を付く。

 そんな彼を見て、眇の男は構えを崩す。

「なんだ、効いてきたよ」意外そうな顔で片眼を丸くする。

「く…」呻き、アギレラが直剣を手放す。

「てっきり、ストライダにゃ毒は効かねえのかとおもったぜ」男は余裕で近寄り、項垂れたその太い首筋を見下し、ゆっくりと逆手のダガーを振り下ろす。
 途端、アギレラが起き上がる。迫る刃を耳もと紙一重でかわし、跳ね飛ぶように肩で受けた男の腕を背負い、身体ごと捻れば、背後の行き止まり、苔むした石積みの壁に叩きつける。
「きさまっ! 二度もっ…がぼっ」男の口が太杭ニードルで塞がれる。

「ああ、不意打ちだ。二度も欺されたな、」アギレラは容赦なく次のニードルを男の右手首に突き刺す。

「その通りだ、ストライダには毒は効かない」
 肩帯から次のニードルを抜き、今度は左手首に突き刺す。

「おれが小瓶をを飲み干すのを見なかったか? それをどう感じた? まさか、ただの気付け薬だと?」
 今度は右肩に突き刺す。 

「あれは『ねずり蜥蜴とかげ』の霊薬。どんな毒をも中和する、ストライダだけが口にできる猛毒だ」
 次には左肩。

「ぐ、…卑怯な、野郎だ」男の顔が歪み、血を吐き出す。

「ああ、その通り、おれもお前も、正々堂々を信条とした騎士様なんかじゃねえ、…だろ?」アギレラは平坦に言い、さらにニードルを突き刺す。

「ならば、戦いとは欺し合いでもあろう」



 レモロは奇妙な感覚に戸惑う。確かに目の前にいるのは、孤児院で共に過ごした婆に違いはない。しかし、目の前の老婆は全く知らない顔をしている。もとの婆よりもずっと背骨は曲がり、顔の皺は険しく、瞳は白濁としている。だが、それでいて確かに自分のよく知る老婆でもある。そんな感覚だ。

 生活のほとんどを閉鎖空間で過ごしたレモロには、魔法がどんなものなのかを知らない。今まさに体験する感覚、つまり記憶の思い違い、ただそれを促すだけの変化魔法トランスレイトとは到底呼べぬつまらぬ魔法。咒師やつかさ、時としてゴブリンでさえ扱う目眩しダズリングの応用に過ぎぬ、単純な魔法の存在を知る由もない。

 それでも彼の直感が告げている。そんなありふれた芸当には似合わぬ、圧倒的の存在。かつて唯一無二の王であったイーゴーにさえ感じ得ず、入れ替わったモニーンだけに感じた重圧感。それよりもずっと重苦しく、いやらしい邪悪さ。こうして対峙するだけでも膝を付き服従したくなるような、そんな圧倒的な恐怖を、彼は感じている。

「お前さんが何を考えとるのか、教えちゃろう」聴き慣れぬ嗄れ声。

「何もかも、めんどうくせぇ」そうおもっちょるじゃろう? 老婆の問いかけに、レモロは目を輝かして頷いてみせる。

「おらもう嫌なんだ。考えることが多過ぎて、疲れる。自分で決めるのはめんどうで、いらいらする」早口で積もる気持ちを吐露する。

「言ったはずさね」老婆が言う。
「お前さんは、見込みがあるとな」やはりレモロの知らない声。だが同時に、確かによく知る婆の声が、彼の甘ったれた思いを肯定する。

「…でも、おら、あんたのことは知らねえ」
 戸惑いつつ言うレモロに、老婆が安心させるふうに、ゆっくりと首を振る。
「いいんや、お前さんはよく知っちょる」そうして白濁したまなこを見開く。
「わしが誰だかは、知っちょるな?」
 レモロは頷き、少し間を開けて答える。
「イハータラ」
 それを聞いた婆がにんまりと笑う。
「げっげっげっ」口角が裂け、喉の奥底で、レモロがいつか聞いた不気味な音を響かせる。
「お前さん、あの、ストライダめに、一度として口にせんかったのぅ?  なぜじゃ? わしの名を聞き、お前は忘れはせんかったはずじゃ」
「だって、あのひとは違うから」
「なにが違う?」
「あのひとは、王様じゃないから」
 即答するレモロを受け、イハータラがにんまりと笑う。

「お前さんに今一度訊こう」白い目玉でレモロを見つめる。
「王に仕える気はあるかえ?」

「王様…」レモロは夢見心地に言う。

「そうだ、王。我らが、ストレイゴイの王じゃ。さすれば、お前さんは何も考えずに済むじゃろう。王が、我れらが王、オーギジアルの血統こそが、これからのすべてを、決定するじゃろう」



 左右三本ずつ、計六本。手首から肩に掛けて杭を打ち込むと、眇の男は静かになる。銀の作用でその額と腹の傷が再び開き、躰の奥底から湧き出る、粘ついた血が流れ出す。
 モニーンに化けたスメアニフがそうであったように、吸血鬼には翼を持つ個体がいる。アギレラが入念に腕を釘付けるのは、隠し持つ翼で逃げられず、確実にとどめを刺すためだ。額に斧、腹にボルトを受けても倒れぬほどに強靭なストレイゴイには、それが確実な手段のひとつである。

 アギレラは腰に装備した刺突短剣を抜き、躊躇なく男の胸に突き刺す。

「ゃあああ!」男の叫びは断末魔とはならない。ストレイゴイの心臓は鋼のような殻に覆われ、その肉体の中でも最も硬い部位に相当する。

「むう、なんて堅ぇ」引き抜いた短剣の刃、まるごと砕けたその切っ先を見てアギレラは唸る。

「わるいな、拷問するつもりなねぇんだがな」本心でそう告げ、地面に落ちた直剣の一振りを拾う。
「これで終わらせる」両手で構え、首筋に狙いをつける。

「…ふ、ふぁってくれ」
 眇の男が項垂れたままに言う。アギレラは少し考え、ひとまず構えた直剣をその場に突き刺し、口蓋のニードルを抜いてやる。

「…仲間の、…別の仲間の居場所を教える」

「いいや、」アギレラは首を振る。「おまえは教えない」
「おれを殺せば、仲間の手掛かりは消える」
「また探すさ」
「それまでに、大量の人間が死ぬぞ」
「ならば同じく、きさまらも報いは受ける」
 これ以上はまずい。アギレラは警戒する。『蝙蝠舌』、我らがそう呼ぶストレイゴイの言葉。人を惑わし誘惑するその言葉は危険過ぎる。

 会話を止め、再び直剣を握り直すストライダを見て、男が観念したふうに首を振り、黙り込む。

「お前はよく戦った」アギレラは短く相手を讃える。剣を振り上げ、今度こそ引導を渡す直前に、再び男が口を開く。

「…ガキと離れたのは、失敗だったな」

「何だと?」
「今頃は、仲間がガキを八つ裂きにしている頃だろう」
「それはない」アギレラは冷静に応える。レモロと別れた場所は人通りの多い街道だ。道を逸れずに進んでさえいれば、さらわれたとしても何かしらの痕跡は残る。
「証拠を残す危険を冒してまで、奪う命に価値のある子どもではないだろう?」
「どうだかな」男が言う。「あの村のやつらも、皆殺しかもな」
「すりゃいいさ。言っただろう?ストライダは正義の騎士じゃねえ。魔を狩るのは仕事としてだ。今回の件のとおり、きさまらが動けば必ず痕跡は残る。ならば次はおれの番だ。追跡し、報復するまでだ」
「どっちが多く殺せるか、試してみるか? まずはあのガキだ」
「脅しは利かんぞ」外連はったりだ。そう見積もりアギレラは詰める。
「ならよ、もう終いにしねえか?」男が急にしおらしくなる。
「互いによぉ、これ以上、嗅ぎ回らなきゃ、これ以上、血を見ることもねぇだろ?」
 話を逸らした、やはりはったりだ。
 そう確信し、彼はさらに詰める。
「あの首はなんだ?」
「誰だろうと裏切る者は晒される」
「裏切っちゃいない、彼らはただ失敗しただけだ」
「かもな、…どうでもいいがね」
「見せしめなのか? だが、そんなことをして何になる?」
「何も…」そこで男の口角が引き上がる。

「けど、時々こうして低俗な者の首で、低俗なきさまらが釣れる」

 多少の間が空く。

「うがぁ!」

 アギレラは再び男の口蓋にニードルを突き刺す。その一撃は明らかな制裁。男の挑発に敢えて応えた彼の判断。

「おしゃべりは終わりだ」それだけを告げ、改めて銀の剣を振り上げる。

「ギォオオオオオオオオオ!」

 そこで不意に怪音が響く。

「ギギギーーーー!!」

 ただの音ではない。これは音波攻撃だ。
 平衡感覚を狂わせるその攻撃はストレゴイの能力のひとつ。まずいのは、それが眇の男の仕業ではなく、どこか違う場所から発生しているということだ。

 怪音は遺跡中に反響する。別の敵の居場所は特定できず、直近で受けるアギレラの耳からたらりと血が垂れる。それでも彼は脚を踏ん張り腰を落とし、目の前の男に集中する。一撃で仕留めるために、しっかりと首筋の血管を見定め、集中し、一気に振りかぶる。

 と、同時、

 いや、そのひと振りよりも僅かに早く足元が破裂し、地中から伸びた腕が鋭い爪を向ける。
 
 そこからは咄嗟の判断。ほとんど運任せでもあるが、掛け値となるはストライダにしか成し得ぬ確かな技巧。

 アギレラは地面から垂直に飛び出す怪物の手首と、眇めの男の首筋が重なる角度を直感で見極め、振り下ろす刃の軌道を僅かにずらす。

 そうして彼は、肉を裂く確かな手応えを感じつつも、噴煙と瓦礫に弾き飛ばされる。転げて着地し、見定めた先には切断した片腕を残して、男の姿はもう無い。すかさず振り向けば、別の方向に敵はいる。すでにかなり遠くの上空、沈む陽を背に、もう一匹、地中に潜んでいた翼付はねつきストレイゴイの脚に必死でしがみつき、空中浮遊している。

「この借りは…、」
「借りは必ず返す!」その科白は、眇め男に言わせない。
 念のためボウガンを構えてはいるが、すでに敵が射程外にいることは充分承知している。

「きさまの顔は覚えたぞ!」アギレラはさらに叫ぶ。
「何十、何百年と隔てようが、きさまらがどこへ逃げようが、必ず見つけ出し、必ず狩る!」

「…ぬかせ」男は、げふりと血を吐く。右腕の犠牲だけでは防ぎきれない確かな剣筋が太くその首をえぐり、額と腹、負った傷からも血も流れ続け、残った左腕のニードルは貫通したままで、いかにも満身創痍の様相。しかし、男がしがみ付くほうのストレイゴイ、他の個体よりも殊の外醜い怪物のその顔は憤怒でさらに歪み、今にも向かって来そうなほどに臨戦態勢でいる。

 あの翼付きを挑発すれば、まだ機会はあるか? そう推測し、すぐに思い直す。あのストレイゴイは、見た目よりもずっと冷静だ。なぜなら奴は、仲間を助けに入った訳ではなく、むしろ仲間を餌にしたのだ。アギレラはそう確信している。狩人は二兎を追うことはできぬ。眇の男にとどめを刺す瞬間の隙を狙いうため、加勢には入らず、じっと地中に隠れていたのだ。

 そんな思惑のとおり、アギレラが次の挑発の言葉を叫ぼうとする間に、敵は高く舞い上がり、西の空へと飛んで行ってしまう。

「ちくしょうめ」アギレラは毒づき、狙いなしにボウガンを構える。そうして夜の境界線へと消えていく吸血鬼に向けてボルトを放つ。それは虚しく、一射、また一射と放物線を描き、巨大な夕焼けに溶け落ちていく。




 
 次にアギレラの行方を追えば。彼は日の暮れたセルポ十字路いる。

 彼は手当たり次第通行人らに声を掛けている。こめかみに青筋を立て、誰かれ構わず肩を叩く。ごろつきだろうが貴族だろうが構わず取り付き、切り傷だらけの顔面を近づける。当然、女は悲鳴を上げて逃げだし、男は萎縮するか、でなければ凄み、空いばりで仲間を呼ぶので、通りは簡単に騒ぎになる。

 そんな様子を不審がり、警備の兵隊も集まってくる。アギレラは構わず、今度は兵たちにも詰め寄り、子どものことを訊ね回る。霊薬の揺り返しと間近で受けた音波攻撃により、彼は身体の均衡を崩し、少々舌足らずになっている。
 それで兵士たちは、彼をたちの悪い酔っ払いだと勘違いする。その言い分には一切耳を貸さず、威圧的に楯を突き出し、道の端に押しやろうとする。

 そうして血の気の多い兵士が、馬鹿にした態度でアギレラを小突く。残念なことに、次の瞬間にその兵士は吹き飛んでいる。当然、手加減をしたつもりのアギレラだが、戦闘後の昂りのせいか、それともポランカからの一連の騒動の苛立ちのせいか、つい力が籠ってしまう。

 気絶する兵士を仲間が抱き起こしつつ、別の者が警戒して、身構える。ただならぬアギレラの佇まいに多くの者は尻込みするが、兵士長と思しき男が割って入ると、ただならぬ事態と見てとり、戦闘態勢の号令を掛ける。すると兵士たちは立ち所に規律を取り戻し、陣形を整え彼を包囲する。

 騒ぎを聞きつけ、さらに人垣が増す。大概の旅人が宿にありつき酒の入る時間帯も相まって、瞬く間に騒動は広がり、やがて野次馬同士で関係のない口論をはじめ、月が真上を跨ぐのを待てず、方々で罵り合い、殴り合いに発展する。


 そんな様子をかなり遠く、街道を逸れた高台でレモロが見ている。
 イハータラは風向きに合わせ、何やら怪しい粉を撒いている。そしてそれは十字路へと流れ、人々に争いをもたらしている。

「さあ、少しお舐め」イハータラに促されレモロは粉を舐める。その味はやはり甘く、渦を巻くように頭を痺れさせ、思考を奪う。

 やがて、馬車が到着する。イハータラに促され、彼は荷台に乗り込む。幌をくぐると荷台には片腕の男が乗っている。男は顔から身体じゅうに血で滲んだ包帯を巻いている。

「ばかものが」イハータラが言う。

「油断するなと、あれほど言うたじゃろ、チジロウ」そう告げ、吐き出した唾で血で固まった男の目元を乱暴に拭う。

「う…るせぇ」チジロウと呼ばれた男が絞り出すように言う。片眼でイハータラを睨み、同時に眇めた片眼がレモロを睨む。
 それからチジロウが何かを言い、イハータラが答える。二人は見知らぬ言葉を呟き続けるが、それが呪詛を込めたものだということだけは、なぜかレモロにもわかる。

「なにしとる!」イハータラが苛立ち、馭者に合図する。
 手綱を握る馭者が幌を持ち上げる。前下歯を剥き出した極度に受け口のその男は、黙ってレモロだけを見る。
「さっさと馬車を出すのじゃバミュード」イターハラに急かされれば、彼は何も言わずに向き直し、ゆっくりと馬車を発進させる。



 騒ぎは拡大し、乱闘は広がる。
 兵や酔っ払い達をいなしていたアギレラも、いつの間にか中心から外れ、人垣の隅から顔を出す。
 舞い上がる土埃に構わず、彼はその場に座り込み、ぼさぼさの髪を撫でつけ首を振り、地面の砂を掴み、どことも知れず力無くそれを放る。
 それから彼はただ項垂れ、腰帯に差した得物を取りだして見つめる。それは街道で拾ったナイフ。昨夜レモロに譲り手放したはずの、自分のナイフだ。

 彼はひどい目眩を感じている。「ちくしょうめ」今や口癖となった悪態を吐き、頭を振る。
 さまざまな声で様々な怒号が響いている。野次馬、商人、旅人、騒ぎを治めようと躍起になる警備兵、多少ながら混じる物見遊山の貴族と、それを警護する傭兵たち。その中にキャリコとジャポも混じっているような気がする。

(殺してやる!)するとイーゴーの雄叫びさえも聞こえ、咒婆の放ったあの言葉も聞こえはじめる。

(呪われろ、ストライダ)

「…呪いだろうが、なんだろうがな」彼は幻聴としりつつ応対する。ひどい耳鳴りと頭痛を振り払うように呟く。

「…武器になるもんは、なんだって使ってやるさ」

 そんな彼だが瞳だけは、鋭さを失わずにいる。その眼差しは、怒りや憤りとは違う確たる信念に燃えている。
 彼は、己の負けを認めている。そうして次には必ず勝利すべく、どう動きどう振るまうかを、移ろう意識で何度も精査し、静かな闘志を昂ぶらせ、来たるべき先の戦いを見据えている。



込めたるは祈りにあらず

—おわり—

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