#NATSUMONOGATARI論
Twitterで書かれているのを見て、やってみたかったこと。
それがこれ、「NATSUMONOGATARI論」です。
「論」というより「読書感想文」ぐらいかも。
とにもかくにも、私がこれについて感じ考えたことについて記してみました。
もしよろしければ、お読みください。
初めて聴いて思わずメモしてしまった最初の感想。
「傷が全く癒えていない」
「時が止まっている」
この2点から「17年後のアフターストーリーを銘打って宣伝してるけど、みんな本当にそう思っているのかな??笑」という想いを抱き、今回の記事が生まれました。
「心変わりしたのは、君なのか僕なのか」
桜木町
「心変わり今は責めても 違う誰かの元へ」
「繋いだ手をその手を いつまでも離したくなかった それでも行かなくちゃ 僕らが見つけた答えだから」
この2つの歌詞から、「桜木町」では「僕」が心変わりしたのだと考えていた。
僕が心変わりしてしまった。
一時の気の迷いだったが、悔やんだところで君は違う誰かと幸せになるのだろう。
出来ればやり直したかった。
しかし、僕らは離れるという答えを見つけた。
NATSUMONOGATARI
「心変わり 今でも問いかける 君ならなんて言うのだろう」
「つないだ手を離した 辛かった 寄り添うその優しささえも 『いつもそばにいるよ』って両手広げてくれた 飛び込むことできたなら」
一方「NATSUMONOGATARI」では、当時心変わりしたのは「君」だったと考えた。
あの時は君が心変わりしてしまったけど、それがもし僕だったら君はなんて言うのだろう。
君の心変わりのきっかけは、僕が君の想いの大きさに耐えられなれかったことが原因だ。
あのとき、君を頼れたら今も君の手をつないだままでいられたのではないか。
「『春風』の『僕』のほうがよっぽど前に進んでる」
何回も聴いているうちに、ふとこの考えが過った。
「春風」も昔の事としか思っていないはずのことを思い出していた曲だったはずだ。
ただし、「NATSUMONOGATARI」の作詞は北川悠仁、「春風」の作詞は岩沢厚治である。
作詞者が違う作品を比較するのは間違っているかもしれないが、だからこその違いが表れるということで、ご容赦いただきたい。
NATSUMONOGATARI
「『ありがとう』って迷わずに言えたら 何もなかった顔して会えたら」
春風
「また君と出会うことがあるのなら 偶然を装ってすれ違えるだろう
君と出会えてよかった 今ならまっすぐに伝えられそうだから」
という部分が私の中で重なったため、比較して考えるに至った。
まず「たら」「なら」という言葉の違いを調べてみた。
「AたらB」は、Aという出来事が過去になった(完了した)ときに、Bがどうなるか、何が起こるか、を表す。1回性の出来事を表すことが多い。
一方「AならB」は、Aという出来事が仮に起こると考えた場合、Bで話し手が何を思うか、を表す。確実に起こる出来事には使えない。
この言葉の違いから「NATSUMONOGATARI」は会える可能性を信じており、「春風」は会える可能性が低いことが前提での話だということが読み取れる。
一方、17年後に「言えたら」「会えたら」という言葉を選択する「NATSUMONOGATARI」の未練の大きさに驚く。
未練という言葉より執念のようだ。
1年後ならまだしも、17年後にこの言葉を選択して、回想することがあるだろうか。
桜木町
「いつの日にかまた 笑って話せる時が来るさ」
当時のこの言葉はただの強がりで、嘘になってしまったのだろうか。
最後に
以上のことから、「桜木町」と似て否なる部分が見られ、「17年後」という時間経過を不自然に思う。
よって、「『桜木町』の17年後のアフターストーリー」という公式による宣伝文句を疑問視せざるを得ない。
しかし、この宣伝文句を目にしなければここまで考えを及ばせることはなかったであろう。
自分の頭の中を言語化する貴重な経験となった。
また、「春風」を含む岩沢文学についてはまた機会を改めて述べてみたいと考えている。
この稚拙な文章をご覧いただいき、ありがとうございました。