映画『HER』を見て、すぐそこにある未来が今ここにある(ネタバレあり)
her/世界でひとつの彼女
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Before ChatGPT 時代に作られた、After ChatGPT 時代を描いたSF
この映画はBefore ChatGPT 時代に作られた、After ChatGPT 時代を描いたSFだ。
主人公のセオドアは人の気持ちを言語化して伝えることに才能がある男だ。というより、彼が勤めている手紙の代筆ビジネスの会社に勤めている人たちは、皆言語コミュニケーションが圧倒的に秀でている。観ている我々は、彼らの流れるような会話に惚れ惚れしてしまうほどだ。
セオドアはしかし、離婚協議中の妻がおり、自分の気持ちの整理ができず、塞ぎ込みがちだ。そんな彼はある日、会話型のサマンサの名乗る女性ボイスのOSと出会う。彼はまるで本物の恋人のようにサマンサとの仲を深めるようになる。
私がまず興味を惹かれたのは、この世界に登場するほとんどのモブたちが、耳にイヤホンをつけ、スマホのようなデバイスと会話している様子だ。これはセオドアもそうで、街の往来でブツブツ喋っていても、だれも意に介さない。
対照的なキャサリンとエイミー
ほとんどの、と言ったのは、こうした世界で唯一、現代の我々と近い感覚の人物がいる。それが、セオドアと離婚調停中のキャサリンだ。彼女は、言葉で説明できないことは黙り込んでしまうセオドアとの生活に疲れてしまい、抗うつ剤を飲むほどになる。
キャサリンがセオドアにしてほしかったのは、同じ気持ちになり、ただ寄り添うという極めて人間的な関係だった。だが、セオドアは、キャサリンの論文など、言語になったものしか興味を示さなかった。
離婚届にサインすることに決意したセオドアが久々にキャサリンと会い、会話したとしても、相変わらずセオドアはキャサリンがセオドアの何に愛想を尽かしているのか、全く理解ができていない。セオドアがOSの恋人がいる、ということに、キャサリンは吐き捨てるように言う。気持ち悪いと。
そんなセオドアでも、人間の理解者がいる。それが同じハートフルレター社に勤める元カノ、エイミーだ。彼女は、セオドアと同様、言語コミュニケーション力が圧倒的で、セオドアと同じようにOSの友人がいる。セオドアとエイミーの会話はまるで詩のように取り交わされる。OSの恋人がいる、ということもお互い理解しあえるほどだ。
OSとの関係は一体何が違うのか
OSのサマンサは、ある事件から自分が肉体を持てないことに見切りをつけ、ひたすら知能を高めることを優先する。その結果、彼女は、ネットの海にのまれ、消えてしまうことになる(攻殻機動隊か)。サマンサだけではない。同じ会話型のOSの友人がいるエイミーも同様に、OSを失ってしまう。
セオドアは、キャサリンに最後の手紙を書き、エイミーと寄り添いながら街の風景を見るシーンで映画は終わる。
セオドアにとってOSとの関係は一体何だったのだろうか。セオドアのようにITと密接に繋がり、言葉巧みにコミュニケーションできる「未来人」であるセオドアは、最もフィジカルな関係構築の手段であるセックスもOSとできてしまうほど、「進化」している。だからこそ、彼はサマンサと「付き合う」ことができた。
しかし、それほど進化してしまったことで、却って、本当の人間との関係構築は、一体どうすればいいのかわからなくなってしまっているように見える。
しかし、ラストで、言葉なく、セオドアがただエイミーと寄り添うシーンは、セオドアが非言語コミュニケーションの一端に触れたシーンではなかったか。
「AIは心を持つのか」問題
AIは心を持つのか。この問いは心の哲学の分野ではあまりに重要なトピックで、その議論も様々な視点で語られる。ここでは、その内容には触れず、映画においては、どのようにアプローチしているのか考えたい。
この問いで「心を持つよ派」の代表はエイミーだ。彼女はセオドアと同様、OSに心があることに疑いを持っていない。一方で、「心はないよ派」の代表はキャサリンだ。OSに恋をするセオドアを「気持ち悪い」と断罪する彼女は、むしろ現代人の我々に感覚が近いと言えるだろう。
哲学の領域では、結局、「心」を解明するには、これまでのような客観的な観察を積み上げて知ろうとする科学的アプローチでは限界があるのではないか?という議論が出ている。この映画の舞台でも、そもそもこの問題にアプローチすることは避けているように見える。心があろうがなかろうが、それに触れる人間がそう考えればそうなんだろうという柔らかい結論に落ち着いているようだ。
サマンサの選択した道
サマンサは、人間の「フィジカルなフィードバックが心的体験に及ぼすもの」を探求するというアプローチは諦め、人間が言語で表現しきれない抽象概念を追求することに決める。その抽象概念を突き詰めすぎた結果、彼女は彼女の考えることをセオドアに伝えることができなくなってしまった。結局、言語に頼って構築された二人の関係は、破局を迎えることになる。
現代の我々がメタ認知すべきこと
言葉は大事だ。言葉ではっきり気持ちを伝えることで、人間関係の構築はなされる。しかし、より深くつながるには、言葉だけではダメだ。ただ、同じ気持ちになり寄り添う、そしてお互いがそのことが心から理解している、そういう関係こそ、「人間的」な関係といえるだろう。
我々は、生成AIの時代において、益々「言語力」が進化するようになってきている。巧みに言語で表現することが良いこととされるようになってくると、もはや、我々の中にセオドアでありエイミーが育ってきているとも言えるかもしれない。この映画は、まさに、SF(サイエンスフィクション)の金字塔と言えるだろう。
最後に
サマンサとセオドアを、心でつなぐものがひとつある。それは、「音楽」だ。サマンサは今の気持ちを音楽や歌にのせて、セオドアに伝える。HERの時代では、AIはこれが限界だった。しかし、より未来になれば、本当に、AIと人間が「人間的な」つながりを持てるようになるのかもしれない。