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【前編】未来の自分の歌いざまを想う。吉田チキンの帰る居場所

Flagmentでは「お名前こそ存じ上げているもののお話するのは初めて」ということも少なくないが、吉田チキンさんに関してはそのブランクが随分と長かったように感じる。いつでもお名前はお見かけするけど、いつまでもご挨拶はできない。この界隈ではあるあるなのかもしれないが、今回の取材にあたっては特にそれを強く感じた。

であればこそ、紡がれるお話は新鮮でもあり、知った名前が出てくればその繋がりにも高揚感を覚える。
この数時間の取材で、先に述べた「ブランク」が全て埋まるとはもちろん思っていないが、それでも心を許してオープンにその半生を振り返っていただけたことに、まずは心から感謝したい。
そして、歌で生きてきた……というよりも「歌と共に生きてきた」というべきであろうそのライフヒストリーに、しばしぜひお付き合いいただきたい。

取材・撮影・編集:永井慎之介

*本記事は、ふくしまFM「FUKU-SPACE」12月7日放送の「つながる音楽」のコーナーと連動しています。あわせてぜひお聞きください。
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憑依させてみて、その人がどう感じているのかを知りたい

——ライブでお会いしたりとかもなかなかないですしね。

 お客さんとしては(zanpanを)観に行ってたりしたんですけど。最近だと……間空いちゃったんですけど、ピーク(郡山PEAK ACTION)でやったワンマン(2020年2月)に行ったのと、僕が高校生の頃はよくアウトライン(福島OutLine)とか、テルサ(キョウワグループテルサホール)でやったイベントとかも。

——めっちゃ懐かしい……なんだっけ、『響鳴ハイライト』だ!

 星の時(THE☆N☆PAN)の缶バッジも持ってます。

——お恥ずかしいです(笑)生き恥です。そっか、じゃあなおさら今日ちゃんとお話できて嬉しいです。よろしくお願いします。

 こちらこそです、お願いします。

——Flagment読んでもらったことは?

 ひと通り読んでます。

——ひと通り!(笑)ありがとうございます。そしたらだいたいはお察しいただいてると思うんですけど、お生まれからずっと今までの生き様というか、人生のお話を伺っていきます。基本、あえて下調べはそんなにしないで来てるんですけど、一応浪江町のご出身っていうのだけ。どのくらい住まれてたんですか?

 小学5年生の3月までかな……ちょうど震災があって、そこで引っ越した感じだったんで。

——なるほど、なるほど。そこからは福島のほうへ?

 そこからは避難をして、東京に一瞬行って、福島に定住して。

——言葉選びが悪いですけど、結構ど真ん中というか、もろに食らってしまったエリアではありますよね。

 そうですね。原発も車で行ったらそんなに近くはないけど、直線距離だと近い方、みたいな。でもお家も……どうなんですかね。住めなくはなりましたけど、でも割と周りにいっぱい大人がいたので、大人が大変そうだなって。

——そうですね。僕もその時高1でしたけど、守られっぱなしというか、やっぱり大人がてんやわんやな感じでしたよね。

 ですよね。でも次の年の卒業式は出れたし、浪江の時に宿泊学習に行って、東京で修学旅行に行って、福島市で修学旅行に行って……割と大事なイベントは隈なくやれてたなって。

——それならよかったですね。ちょっとその辺も、おいおいという感じで。お生まれの方に戻りますが、幼少期の時の自分って、今の自分と比べてどうですか? 昔から今みたいな感じだったなって思います?

 多分昔から、素質?みたいなのは変わらないんだろうなって思います。根っこの部分みたいなのは、幼少期から持ち合わせてきているなって。

——具体的にはどんな感じですか?

 ずるさ、みたいな。ずる賢さ……賢くはなかった(笑)。ずるさみたいなのが、多分幼少期からずっとあって。野菜ジュースが嫌いだったんですけど、お弁当に入ってた野菜ジュースを庭に捨ててから帰ってたとか(笑)。夜、寝たくない時に「パパに電話する」って言ったら起きてられるから「パパに電話する」ってママに言ってとか。なんだろう、そういうずるさみたいなのは、未だに持ってて。

——機転というか、頭の回転というか。

 ある意味、その場がよければいいと思って、生きてる感じがしますね。ずっとひとの真似をして生きているというか。幼稚園生の時に、鮭を見に行くっていう日があったんですけど、みんなで川にいる鮭の絵を描く時間があって、ずっと斜め前の子の絵を模写するっていう(笑)。オリジナリティみたいなものを追い求めずに……オリジナリティの出し方がわからなかったのか、怖かったのか。
 赤が好きだったんですけど、戦隊ヒーローも赤が好きだったけど、青が好きっていう人として生きてみる、みたいなことを未だにやってる気がします。例の出し方が飛び飛びなんですけど(笑)美容室に行って、「ご趣味は何ですか?」とか聞かれたりする時も、持ってもないのに「シルバニアファミリーにハマってて~」とか言ってみたり。「シルバニアファミリーにハマっている子」として今を生きてみる(笑)みたいな、たぶん遊びだったと思うんですけど、それを未だにやってる気がします。

——面白いですね。でも、困らないですか?

 困ります。

——困りますよね(笑)。

(笑)困ります。今になって「自分とは」みたいなこともわからなくなってしまって、本当に困っています……(笑)。

——自分とちょっと違うものを演じる、じゃないけど。

 そういうのになりたいのか、憑依させてみて、その人がどう感じているのかを知りたい、みたいな。とりあえずその人と同じことをしてみる、みたいなことを幼少期から。思い返したら、そんなことばっかりしてました。

——「『シルバニア好きな人』に対してこの人はどういうムーブをするんだろう?」みたいな?

 みたいなことなのか、憧れみたいなのを、もう叶わないから、叶えたていで生きてみよう、みたいなことなのか。

——自分が本当に好きなものの話とかはあんまりしなかった?

 言えるまで多分すごく勇気がいるんだと思います。言ったら安心するんだと思いますけど、すごいエネルギーを使うことだったんだと思います。だから誰かとして生きて、そのていで、「この人だったらこういう生き方だろうな」っていうのをやる方が楽だったんだなって思って。

——楽なんですね。

 楽なんだと思います。本体は傷つかない、みたいな。

——ああ~、一枚(間に挟むから)。

 一枚あるから、本体は傷つけないみたいな。

——なるほど。ちょっとわかった気がする。

 バリアみたいなのを自分で作ってたのかな……今になってそれがすごい邪魔してるって思うんですけど(笑)本当の自分を探すまですごい時間がかかるというか。その場のそれらしさ、みたいなのの方が先に思いついてしまって。本心かどうかは、もう分からないっていうか。「多分ここは好きって言った方がいいだろう」みたいな、打算的な考えをしちゃって。

——その場のグルーヴの方を優先してる感じなんですね。

 みたいな。「寝れないんだよね」みたいな人がいたら「分かる、寝れないよね」みたいな。のを、多分ずっと自然とやっちゃってるみたいな。

——なるほど。なんか少しわかった気がする。

 通じましたか(笑)うまいこと、やってください。

——「本当は自分はこうなんだけどね」の部分を、今はちょっと、出せるもんなら出したいと思っている?

 結果どれがそれか、も分かっていなくて。今現在の話でいうと、恐竜が好きなんですけど、「恐竜が好き」って言っていることに安心しているんですよね。物を選ぶときも、「僕は恐竜が好きって言ってるからこれを選んでいいんだ」みたいな。恐竜の知識も何もなくて、ビジュアルが好きなだけなんですけど。アイドル推しみたいな。果たしてこれも恐竜好きと言ってもいいものなのだろうか、というのが……こじらせています(笑)。

——でも「詳しくないと好きって言っちゃいけない」みたいな風潮ありますもんね。

 そうなんですよね。オタクのレベルが高くて……(笑)。「なんとなく好き」も「好き」に入れてほしい。

——それはでもめっちゃ、そうだと思います。なるほど、面白いですね。

ちゃんと恥かいて帰ってきました

——幼少期の自分の残っている記憶の中で、印象的なシーンとかあったりしますか?

 ……おうちから10分くらい歩いたところに公園があるんですけど、一人でブランコを漕ぎながら、後ろが山なんですけど、そこからずっと「イノシシが来るかもしれない」っていう想像だけを掻き立てながら、それでもなおブランコを漕いでいる自分が今浮かんでいます(笑)なんでそのシーンが浮かんできたのか……。

——(笑)まあでも、来ないんですよね。

 来ないんですけど。絶対来ないんですけど。「イノシシが来た場合、どうやって逃げよう」。
 妄想癖みたいなのがすごいあったと思うんです。ポケモンが好きなんですけど、自分の肩に、サトシはピカチュウを乗せていますけど、僕もポケモンを乗せているていで、「この子が僕の友達だ」ということで、ずっとその子とおしゃべりしていたおかげで、寂しくなかったです……ちょっとこじらせてますね(笑)。

——結構マイワールドが濃い目にある感じ。

 かもしれない。

——分かります。僕も小学校の時とか、漫画を趣味で描いていたんですけど、その漫画の設定をいかに面白くするかということばかり日々考えて生きていたので、なんかそれに近いのかもって。

 かもしれないです。ずっと「架空の友達」みたいなのがいて、でも小6か中1くらいでこじらせて、「魔法が見える」みたいなところに一瞬行って、「これはあかん」ってなって、そこは帰ってこれたんです。

——帰ってこれたんですね。

 魔法からは帰ってこれました。ザ・中二病みたいな、そういうふうに一瞬発展して、ちゃんと恥かいて帰ってきました。

——よかったです……っていうのも変なんですけど。そっち行ったら行ったで、なんかあるでしょうしね。被災は……小5でしたよね?

 小5ですね。

——その時の話とか聞いてもいいですか?

 もちろん。家は崩れてはなくて、玄関からリビングまでは入れる状態だったので、一晩はそこで寝て、そこから親戚のお家を点々としていく中で「原発が……」ってなって。で、また点々と関東の方に行って、津波が来るところではなかったので、そこは大丈夫だったんですけど。

——一定期間、東京で学校生活とかも?

 そうですね。小学校6年生の1学期で、東京に行って、夏休みをきっかけに戻ってきました。

——割とじゃあ、一瞬というか。

 一瞬だったけど、東京の小学校、やっぱりめっちゃ楽しかったです。

——違いますか、やっぱり。

 都会だなって。浪江はすごい田舎だったので、隣町まで行かないとファミレスもないんですけど、東京に引っ越したときは目の前にコンビニがあって、ガストがあって。「すげー」。友達の家も、ピッてやったら入れる(カードキー)みたいな。見たことなかったし、ずっと新鮮な感じでした。
 短い期間というのも良くて、自分の予想ではもうちょっと経ったらいじめられてたと思うんですよ。いじめの対象になりかけてたところを、上手いこと逃げてこれたので。楽しい部分だけをやらせてもらって、バイバイって。

——新鮮な気持ちのまま。そこからは福島市で。

 東京への転校というのが、自分の初めての転校だったんですけど。東京はみんなフレンドリーで、「鬼ごっこしようよ」とか、「お絵かきのほうが好き?」みたいな。歓迎、ハグとかされて、「田舎はハグとかしない……」(笑)。グイグイやってくれて、やっと自分も心を開くみたいな感じだったんですけど。
 福島市はみんなシャイだったんですよ。僕もいつまでもシャイで、みんなもいつまでもシャイ。東京の小学校はすごかったなって。

——関東……関西なんかはなおさらでしょうけど、そっちの人たちからすると東北人ってやっぱシャイなんですよね。

 シャイですよね。自分も含めですけどね。

——自分(永井)も含めですけど(笑)。

芸人さんよりaveさんのおしゃべりの方が面白かった

——今の活動に直接関係ないにしても、大まかに音楽っていうくくりで、一番最初にピンときたりとか、好きになったみたいな記憶とかってあります?「テレビ見てて~」とか。

 音楽を聴くっていう感覚はずっとなくて、なんかしら歌ってたみたいですけど。
 また小学校時代に戻っちゃうんですけど、幼稚園からの幼なじみが4人グループでいて、自分以外みんな楽器ができたんですよ。自分は何もやってなかったんですけど、みんなピアノやってて、ピアノが好きで。その子たちが曲を作って、そこに自分が歌詞をあてて……お遊びですけどね。で、ずっと学校の廊下をそれを歌いながら周回するみたいな(笑)のが、僕の音楽の原点です。

——マーチングバンド的な(笑)。

 マーチングバンドしてました。

——すごいですね、小学校の時から楽器。

 自分は何もできなかったけど、音楽っていったら(ルーツは)そこかもしれないです。世の中の音楽は何も知らなかったです。

——そうですか。何かに感化されたり、影響を受けたりみたいなのもあんまりじゃあ、なかったですか?

 そうですね、CDの買い方とか、買う文化とかもわからなかったり……みんなどこでそういうやつを仕入れてくるんですか?って。『おじゃる丸』のオープニングとか、『(とっとこ)ハム太郎』のオープニングとかしか歌わなかったので……でも親が、NHKの音楽のCDとかを車で流してたりとか、あとはラジオとか流してたりして。そこに興味を示してたかはちょっと謎ですけど(笑)。

——それが……ちょっともしかしたら話飛んじゃうかもしれないですけど、興味を持つというか、実際に自分が歌うところに至るのは、きっかけはどこにあったんですか。

 きっかけは……中学生の時に卓球部に入っていて、割と部長とかやりたいタイプだったので、女子のほうのリーダー的なものをやっていて。外部コーチが来ていたので、コーチのおうちに週何日かで通って練習をしていて。そのコーチがいる卓球クラブのOBに、福島市のaveさんがいたんです。それで、「今度aveっていう奴のコンサートがあるけど、一緒に行ってみるか?」みたいなことを言ってもらって、「わあ芸能人だ~」みたいな感覚で(笑)。
 お笑いがすごい好きだったんですけど、地元の芸人さんも出てて、aveさんも出てて、割と芸人さんを楽しみにしてたんですけど、芸人さんよりaveさんのおしゃべりの方が面白かった……(笑)。「この人面白い人だ」って思って、YouTubeとかでaveさんがしゃべってる動画を見漁って、とりあえずまずaveさんの面白い部分にハマっていったのが……のめり込むきっかけはそこでした。

——トークが取っ掛かりってのもなかなか(笑)。

「この人面白っ!」ってなって。

——面白い部分に最初は心惹かれて、だんだん曲とかも?

 aveさんの歌も聴くようになって、自然とずっと聴くようになって。主にYouTubeだったんですけど、関連でいっぱい、aveさんの関連の人の動画が上がってくるようになって、そこで他の弾き語りの方とかがいっぱい出てきて、それをポチポチポチポチ見てて、「いいな」「この人たちを観に行きたい」と思って、自分でライブ観に行ってみようと思って。

——それはライブハウス?

 ライブハウスです。

——それも中学の時?

 中学生ですね。超緊張しました。

——絶対おっかないですよね。

「地下だ……」って。

——あ、アウトラインですか?

 いや、自分が行ったのはAREA559。

——はいはいはい!

 めっちゃタバコ吸ってるし、お酒飲んでるし、暗いし、怖いし……。

——赤いし……(笑)

(笑)赤いし、みたいな。「何これ?」ってなりながらですけど。当時、学割とかが設定されてたり、中学生無料とかがあって、それも使わせてもらって、観に行きました。

——どうです? ステージで観るその人たちの演奏って。

「生だ!」って感じだったし、「会えて嬉しい」、あと「仲良くなりたい」と思いました。

——すごい。

 まだ中学生だったし、ひととの距離感もちょっとバグってたから(笑)距離を多分すごい詰めたかったんです。「居場所にしたい」みたいな感じだったかもしれない。そこで初めて、CDを買って。藤田悠治さんって方のCDだったんですけど。そのCDを聞く機械も初めて……。

——あ、そこで?

 そこで初めて。YouTubeとの音質の違いに感動して(笑)。基本はYouTubeでずっと見漁ってて、福島に来てくれた時には、ライブを観に。

——やっぱりいろんな人の話を聞いていると、世の中で流行っているバンドとか、アイドルとかシンガーとか、いわゆるパブリックな音楽からきっかけを得ていく人が、体感的には多い気がするんですけど、ローカルシーンの音楽がきっかけだったんですね。良かったです、CDの音質に着目してくれて(笑)。

(笑)CDの音質は本当に。でもそれが今思えば、宅録のCDだったんですけど、それでもやっぱり感動するもんですね。ノイズとかもない……やっぱりYouTubeって、「YouTubeの音質」って感じで。それはそれで良かったんですけど。ライブの動画だったりもして、ガヤが入ってて、みたいなところから、音楽だけを抜粋して聞くっていう、のをしたことがなかったです。ずっと聴いてましたね。2曲しか入ってないCDを。

「伝えたい」って思ったんです、最初にステージに立った時

——そこから、自分でもやってみたいってなったのはどういう流れだったんですか?

 仲良くなりたかったので。でも人見知りもちょっとあったりして、何かきっかけを作りたいと思って。「自分が楽器を始めたら、楽器のことを話せるんじゃないかな」みたいなところから、ギターを始めて。最初は、ギターを(みんなの前に出て)弾きたいとかは、特になくて。Twitterの30秒の動画で、弾いたやつを「できたよ、見て!」みたいなところから、最初にやり始めた。

——それは、アコギで。

 アコギです。

——それもじゃあ、聴いてた人たちの曲のカバーとか?

 とりあえず易しい教本みたいなのを買って、『チェリー』とか、一通りやって。あとは、頑張って、(好きなシンガーたちの)手元をずっとYouTubeで見て、何かな、こうかなって。弾けさえすればいいと思ってて、弾いて歌えれば満足だったんですけど、「正しいコードじゃなくても歌えるんだ」っていうところに気づいたり、Fは早々に簡略コードで(笑)。C、F、G、Cで、Amとかで、だいたいこれで歌えるかもしれないとか。それで、ちょっと満足しちゃったりして。

——でも実際に、ゆくゆくステージとかでやるときに、必要なのって実はそういうところだったりしますもんね。自分の手癖とか、指運びみたいなのができていったりとかで、多分きっと自分流みたいなところに辿り着くものなのかなって思いますけどね。

 それはあったかもしれないと思います。今になって、F押さえられないってなって(笑)。でも(当時)つまずいてたら終わってたかもしれないから、(簡略でも)やってよかったかなって。

——簡略、できるだけ良かったですね。

 簡略とかあるんだ(笑)って。そもそも。「壁の向こうも広いけど、壁のこっち側も広いじゃん」みたいな感じで、正当化して。

——なんか幼少期のずるさみたいなところ、あるかもしれないですね。

 ですね(笑)発揮してます。

——実際にステージに立ったのはいつの話ですか?

 高校2年生の夏、7月。衰退羞恥心、今のthing of gypsy lionの真琴さんが……真琴さんのライブもよく観に行ってたんですけど、Twitterにあげてる動画を見て、「ライブやってみればいいじゃん」って、ずっと声かけてくださってて。でもなんか……お金を取るじゃないですか。高校生で、お金の重みもわからないのに、ひとからお金を取って歌うなんて、僕にはその責任感はまだないから、出られないって思って断ってたんですけど、「思い出作りだったら許してくれるかな」みたいな。そんな気持ちに、なんかのタイミングで心が変わって、「出させてください」ってなったんです。「じゃあ今度こういうのあるから、出てもらいたい」みたいな感じで。2人組で出ました。

——あ、相方がいたんですか?

 相方がいました。高校の友達だったんですけど、一緒にやろうよって。最初のそのステージだけ2人で。

——すごい、でもその時から、「チケット取っていいんだか」みたいなこと考えられるだけ、すごいと思います。自分は何も考えずにライブしてたから……(笑)偉いなって思いながら聞いてました。

 お金は難しいですね。わからないものだから。

——自分のライブにどのくらいの価値があるのかって、なかなか悩みどころですもんね。

 そうですね。歌唱力も技術力もないから、技術があればカバーでもいいと思ったんですけど、技術がないのにひとの曲歌っても何にもならないと思って、オリジナルを作って、「これがオリジナルです!」っていう。

——どうでした? その初ステージ。

 超楽しかったです。緊張もめっちゃしましたね。一日ご飯食べれなかった。普通に学校帰り、授業受けてからライブだったんですけど、授業中もずっとMCをどうしようって(ノートに)書いて……ダメですけど(笑)。その一日、25分とかの時間に向かって、ライブが決まってから、ずっとそればっかり考えて過ごしてる、その時間もめっちゃ楽しかったし。ひとに歌うっていうことが、たぶん、すごい衝撃的だったというか、「伝えたい」って思ったんです、最初にステージに立った時。それにびっくりした。

——自分で。

 自分で。「伝えたい」って思った……へえ~って(笑)そんな自分、いらっしゃったんですねって感じで、びっくりしました。

——でも、そうなってみて初めて知る気持ちとかありますよね。

 ありましたね。

——じゃあ、思い出作りのつもりだったけど、そうはならず。

 そうはならず。


<次回>
シンガーとしての出発と、得られたさまざまな経験や思い。
*後編は12月8日公開予定

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Flagment - インタビューマガジン
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