見出し画像

【前編】だって、楽しいじゃん!——「入り口の音楽家」kumajiro、シーンの前途に吠える

ダーティーなロックンロール、軽快なブルース、あるいは語りかけてくるような一人声楽アンサンブル。
5thアルバム『シンガーソングライター』にはこれだけの振り幅がありながらも、「kumajiro」という筋が一本、アルバム全体をしっかり串刺しにしている。
それでいてユニークなテーマ性や歌詞が散りばめられているから、最後まで耳が飽きることもない。現に、このアルバムをBGMに取材へ向かう道中はあっという間だった。

このバラエティ豊かでユニークな音楽性は、まさにそのパーソナリティーから滲み出てきたものなのだということがよくわかる。
取材させていただいた私にとっても、そして今からこのインタビューをお読みいただくあなたにもきっとだ。
ぜひ、『シンガーソングライター』をBGMに、お読みいただきたい。

取材・撮影・編集:永井慎之介

確実にヒーローになれるわけじゃん。それが嬉しくて

——さっそくですが、お生まれから。

 生まれは三春町で、6歳まで三春で過ごして、その後は二本松。うちの父親の実家が二本松にあったもんだから、そっちに行って、そこで小中高を過ごしていたという感じですね。

——あんまり三春の記憶みたいなのはじゃあ、そんなにないですか?

 ないね。ただ、結婚してから何年間くらいだろう、6~7年、三春に住んでたんですよ。かみさんと僕の勤務先の、ちょうど中間が三春だったから。そういうのもあったりして、だからトータルそっちの思い出の方が強いかなって感じ。

——後になってみると。

 そうそう。残像っていうかさ、景色は変わらないじゃない。そうすると、子供の頃見てた景色、「これあったよね、そういえば」みたいなのを感じながら、三春では生活してたね。

——確かに、見て思い出すっていうのはありますね。

 そうそうそう。

——古い記憶をたどろうと思うと、やっぱり二本松。

 そうね。でも、これもまたね、自分が薄情なのかなと思うんだけど、あんまり覚えてないんだよね、子供の頃の思い出って。怒られた記憶しかないから(笑)なんかいい思い出っていうのもあんまりなくて。
 ただ、ここ4~5年やっぱりね、50歳近くなってから、そういう昔のことを、いわゆるノスタルジックな思いを持つようになったのが……歳のせいなんだろうなって思ってる。

——ここ最近のことなんですね。

 ここ最近。今年もやっぱ桜とかさ、見ちゃうとなんかこう……ちょっとね、エモい気持ちになるんだよね(笑)。カメラ買って、ちょっと写真撮ったりとか、そんなことはしてますけど。

——幼少期の印象的な記憶って何かありますか?

 子供の頃の記憶はね……僕が住んでるところって、二本松の菊人形の会場の裏っ側になるんだよ。その菊人形会場の山、霞ヶ城公園っていうんだけど、あそこ全部が遊び場みたいな感じなわけ。そうすると、夕方まで遊ぶじゃん、子供って。暗くなる、ちょうどあの辺のときに遊んでたら、カラスに襲われたな(笑)カラスがなんか襲ってきてさ。そんな記憶くらいしかないな、あんまり、子供の頃って。
 あとは、さっきも言ったけど、とにかく誰かに必ず怒られてた。学校の先生もそうだし、近所のおじさんおばさんもそうだし。

——やんちゃしてたんですか。いたずら的な。

 やんちゃでしたね。いたずらもそうだし、今だったら、僕たぶん捕まってるよね。

——……何したんですか(笑)。

 不法侵入っていうかさ、ひとの家に。例えば、柿の木があったら、行って勝手に食って。あと、あぜ道とか自転車でバーッと走り回って、怒られたりとか。そんなことばっかりしてたから、とにかく子供の頃はもう、怒られた記憶しかない(笑)ははは。

——良く言えば活発というか。

 そうだね、落ち着きがないしね。とにかく、じっとしてない子供だったね。

——なんか、これが好きだったな、みたいなのってありましたか。

 プラモデルが好きだったりとか、なんかあったけど……やっぱりね、音楽は好きだったね。歌を歌ったりっていうのは、もう、ずーっと。

——あ、もう、その頃から。

 うん。

——何か、きっかけみたいなものが?

 きっかけはね、『マジンガーZ』の主題歌。あれがものすごく好きで、ずーっとどこでも歌ってたんだよね。それがきっかけで。
 子供ってよく、わけのわかんない歌を作ったりとかするでしょう。それで僕が、小学校入る前くらいから、歌を作って、勝手に。自分の妄想ヒーローを作りあげて、その歌を、作ってたみたいよ。覚えてないの僕は。でも、親戚の兄貴がカセットテープに録音してて、20年近く前にそのテープが出てきたからって、聞いたんだけど……びっくりするくらいちゃんと曲になってんだよね(笑)。「すげえな、俺」。「一成、6歳くらいで、こんな曲作ってたんだな」って。

——意外と、幼心ながらのこだわりみたいなのってあるんでしょうね。自覚的に、ちゃんと「あ、音楽好きだな」ってなったタイミングってどこかありますか?

「音楽が自分は好きかもしれない」って思ったのは、それこそね、小学校入るくらいのタイミングで、KISSに出会ったんですよ。親戚の兄貴がちょうどその頃、中学生くらいで、ポスターとかいっぱい貼ってたわけ。1977年くらい。ちょうどKISSが日本で、ガンと聴き始まった頃で。それで、なんか知らないけど、いわゆるあの歪んだギターの音を聴くと、なんかこう……自分も盛り上がってたみたいなね。
 それから、ちょうど小学校1年生くらいのときに、サザンオールスターズがデビューしたんですよ。で、バンドっていうのをテレビで初めて観たわけですよ。ギター弾いて、ドラム叩いて、なんていうのを観て、「あ、これかっこいいな」って思って、すぐやりたいって思っちゃったんですよ。「自分もギターを弾いて、こういったことをしてみたい」って思って。そのときくらいからかな、「音楽好きかもしれない」って思ってたのは。

——「ギターを弾いて歌ってみたい」っていう。

 そうそう、目立ちたいって(笑)。

——ギターっていうとでも、小学校1年とかだと、すぐには叶わないですよね?

 ただね、親戚をひと回りすれば、必ずどの家にもギターがあった時代なのよ、僕の世代って。僕らの、それこそ5つ6つ上の世代って、松山千春とか、さだまさしとか、いわゆるフォークがすっごい流行ってた時代だったから、必ず一本はあるわけよ。だからもう小学校1年生の段階で、「持ってっていいよ」っていうギターは一本あって。でも誰も(弾き方を)教えてくれるわけでもないから……しかも、白いクラシックギターだったんだよね。抱えて、ただこうやって遊んでるだけが、小学校1年生くらい。ちゃんと弾くようになったのが、5年生くらい。

——それでいっても、早いですよね。

 そうだね。早いね。

——とりあえずじゃあ、ギターは傍らにあって。

 うん、そうですね。あともう、途中から剣道とか始まっちゃったから、そういう運動ばっかりしてたのもあったから、そんなもんだったけど。

——小学5年生っていうのは、なんか、そういうのが落ち着いたタイミングだったりしたんですか?

 っていうかね、よく小学校ってさ、お楽しみ会みたいなのやるじゃない。クリスマス会とか。あんときに、「何か出し物をやっていいぞ」って言われて、「じゃあ、ちょっとギターでも弾いてみようか」って思って。「そういやうちにギターあったな」って。「俺、ヒーローになれんじゃん」って思って。でも、弾けないじゃん。そんな、流行ってるやつとか、コードなんかも全然わかんないし。で、なんか知んないけど、自分でオリジナルを作って、披露したのが最初。小学校5年生のときかな。

——さすが、一回ヒーローソング作ってましたもんね(笑)。

(笑)うん。今でも覚えてる。EマイナーとAマイナーしかねえ(笑)なんで小学校5年生がさ、そんな暗い曲作ってんだよって(笑)それが最初かな。

——その曲は何かで残ってる?

 残ってないんです。ただ、なんかほら、目立ちたいし、確実にヒーローになれるわけじゃん。それが嬉しくて。

——なれました?

 なれた(笑)結構盛り上がったね。EマイナーとAマイナーのやつ(笑)。

——(笑)。一般的なイメージですけど、弾けないんでしょうからね、大多数は。

 そうそうそう。だから、結構目立ってたね。

楽しかったね。「これだー!」って思って

——それがその後、何かのきっかけになったりしましたか?

 やっぱ、バンドがしたくて。中学校入るタイミングで「バンドを組もうぜ」っていう話になって。今も僕のサポートしてくれてるマーヤンっていうのがいるんだけど、マーヤンは僕小学校1年生のときからの同級生だったの。で、中学1年生のときに初めてバンド作って、「一緒にやろうぜ」って言って、始まったんですよ。やっぱ文化祭に出たいから……でもそのときは僕は1年生で、3年生のバンドに入れられて、ライブをやったんですよ、文化祭で。LOUDNESSを。

——(笑)。

(笑)弾けるわけねえじゃんって。『CRAZY DOCTOR』を弾きましたな。

——ギターとして。

 ギターで。ギターボーカルで。

——あ、ど真ん中ですか!(笑)1年生で、いきなりだいぶ試練が与えられて。

 でも、わかんないからねえ。今みたいにさ、いろんな情報があるわけじゃないから。TAB譜ってあるじゃん、バンドスコアとか、あれがちょうど出始まった時代だから。
 それまでコピーするって言ったら、本当に音聞いて……しかもレコードだから。で、速弾きなんかできないじゃん。どうするって言ったら、オープンリールのテープレコーダー、あれ速度変えられるから。あれで遅くやって、(楽器の)チューニングを低くして、音を探して、だんだん速くするっていう、そういう作業をしてた時代なんですよ(笑)。

——(笑)なるほど。

 YouTubeがね、もちろん今はあって、バンドも全部TAB譜あるからすごい楽だけど、昔はそんなことなかったから。

——基本的に耳で。

 耳で弾いてた。っていう時代でした。
 で、同級生だけのバンドを組むってなったときに、難しいじゃない。僕はそういうジャパメタだったりとか、ハードロック、ヘヴィメタルが好き。でも、できない。で、ちょうどチェッカーズがデビューしたから、「じゃあ、俺たちはチェッカーズをやろう」って(笑)。僕の一番最初のバンドデビューっていうか、自分のバンドはチェッカーズのコピーバンドだった。だから、文化祭でチェッカーズ、ウケるじゃない、絶対。そのときも人気絶頂だったから。そんなことをやってました。

——そっちの方が簡単でしたか。

 いやあ、簡単だったね。すぐできちゃったからね。バンドスコアをみんなでお金出し合って、買って、それをやって合わせれば。

——それが、バンドとしてステージに立った最初の経験だと思うんですけど、そのときに抱いた感想とか感情みたいなのは覚えてますか?

 やっぱりワーキャー言われるじゃない。しかも、僕らがまだ中学生くらいの頃だと、バンドは「不良のもん」だから、僕が1年生のときにやってたときの3年生たちも、みんなそういうワルい人だった。でも僕らの仲間内っつうのはみんな、生徒会の役員やってたりとか、そういう奴らがバンドをやって、その中に僕もひょっこり入ってやってたら、僕もワーキャー言ってもらえるし。もう、なんか、楽しかったね。「これだー!」って思って。

——じゃあ入口としては、だいぶやりやすかったんですね。

 やりやすかったねえ。うん。

——バンドは、なんかの形として続くんですか?

 高校3年まではやってました。中3のときかな、尾崎豊がパーンって売れて、尾崎豊のコピーをやりたいってなって。それでやって、なんかね、CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックレコーズ)のオーディションかなんかもね、それで行ったんだよね。尾崎豊のコピーで。中3の終わりで出して、高1で仙台まで行って、オーディションを受けてきて、で、ダメで。
 そこから、THE STREET SLIDERSが出てきて、「なんだこれ、かっこいい」ってなって。THE STREET SLIDERSのコピーバンドが始まって。それと並行して、オリジナルを作り始めた。高1の終わりくらいからかな、オリジナルをずっとやって、ライブをやったりとかしてたんだけど、ライブハウスとかないから、当時はまだ福島県内に。だから、音楽堂の小ホールとか、文化センターの小ホールを借りて、みんなで。それでライブをやったりとかしてました。

——結構、本格的にというか、力を入れて。

 やってたね、うん。ちょうど時代は、バンドブームだから。THE BLUE HEARTS、JUN SKY WALKER(S)とかが、ドーンと来て、イカ天とかも出てきた時代で。もうとにかくバンドやってりゃモテたのよ。で、僕らオリジナルで、ドーンって出ると、結構ワーキャー言ってもらえて、しめしめみたいな(笑)。

——バンドの活動の中で印象に残るシーンとかはありますか?

 僕はずーっと二本松だったから、福島(市)の状況とかはわからないわけですよ。そうすると……メンバーの何人かは福島の高校行ってたんだけど、福島のシーンとか、高校生の活動とかわからないからやっぱり、えらくおっかなかった(イメージがあった)ね、福島の人たちは。

 で、そんなときに、AREA559のさ、紺頼さんの奥さんがバンドをやってらっしゃって、そのときからの付き合いがあって、面倒見てもらったりとか。あと、おいちゃんって呼ばれてる、半澤徹っていう奴がいるんだよ、福島に。ハムチーズとかのギター弾いてる奴。あの人なんかも同級生で、一緒にライブやってたりとか、そういうことをしてた。

——じゃあだいぶ広がって。

 広がってたね。あとは、それこそ郡山だったら、ドラマーの(佐藤)勇さん。僕らが高校生くらいのときは、Secret Flower Gardenっていう、すん〜ごいバンドやってて。だからそのときはあの人と、まさかこんな普通に、「勇さ〜ん」とか「一成くん〜!」とか言えるようになるとは思わない。

——でも、その二本松っていう、ちょっと福島寄りですけど、郡山と福島どっちにもアクセスできる立地はいいですよね。

 うん。でも活動は福島の方ばっかりだったから、郡山では全然やってなかったね。「おっかない」っていう、やっぱり印象が強くて。酒飲んでライブするのは当たり前みたいな感じ。ちょっと、おっかなかったよね。

——ちょっと、一次元上の世界っていうか。

 そうそうそう。だから昔のライブハウスとか、ライブバーとかって、やっぱそういうイメージって、あったっていうじゃない。なかなか入りづらい……そういう、最後の世代なんじゃないかなって思う。

——なんかその、影みたいなものが今も、印象として残ってたりするんですかね。

 イメージはあるよね、絶対ね。全然そんなことないのにね(笑)はははは。むしろ、今の若い子たちはみんな爽やかだよね。みんな礼儀正しいしさ。僕らのときはやっぱり、声なんて絶対かけてもらえなかったもんね、先輩のバンドとか。楽屋が一緒になったら、もう椅子になんか座ってらんなかったよな。ずーっと端っこに立ってたもんね。

——怒られてるみたいな(笑)。

 うん。「何座ってんだよ」みたいな。そういう……昭和だよね(笑)。

みんなで作り上げるのが楽しかった

——声楽の方面でも、歌をやられるじゃないですか。それはいつぐらいの話で?

 それはね、高校生で、バンドと並行して合唱部に入ったんですよ。で、面白くて、学校には行きたくないんだけど部活には行きたいから……(学校が)家も近所だったから、朝のホームルーム出て、家に帰って寝て、部活の時間になったら行って、みたいなそういう生活だった、ほとんど。
 で、部活本気になってずっとやってて、そんな生活してるんだからさ、勉強なんかするわけないし、できっこないじゃん。もう赤点だらけで。でも就職するって選択肢はなかったわけですよ。時はバブルだったので、大学行けるんだったら行きたいなと思ったときに、勉強してないから普通の大学は無理だと。で、音大だったらワンチャンいけねえかって思って調べたら、学科の科目は国語、現代文と英文、長文読解だけなんだよ。「これいけるかもしれない!」「受けよう!」と思って。
 でも、それまでやったことないから、もちろんピアノとかさ、そんな楽器で(受験して)行くなんて無理だなって。じゃあ可能性があるとなったら何かってなったときに、歌だったらいけると。歌も結構上手だったから、当時から。部活の演奏会とかでソリストを僕がやってたりとか、学指揮(学生指揮者)とかもやってたから、いけるんじゃないかと思って。そこからピアノとか習い始まって、高校2年生くらいから。

 で、音大に行って……まあ「音大にしか行けなかった」っていうのはあるけど。でも行ったら、日本全国のそういう音楽バカが集まるから、僕なんてもう霞んじゃうわけよ。もっとすげえ奴いっぱいいて。「ああ、これはもう全然ダメだな」と思って、第一の挫折があって。

 でも、元々音大に行くのも、うちの両親に言ったら「福島に戻ってきて学校の先生になるんだったらいいよ」って言われてたんですよ。だから自分はプロの歌い手になるとかそういう意識なんて全くなくて、「俺は大学終わったら福島に戻って、学校の先生になるんだ」と。「高校の先生になって合唱をやるんだ」という思いでいたの。
 そしたら19歳のときに、オペラの現場っていうのを初めて見て。お客さんじゃなくてスタッフで入ったの。バイトで、いわゆるボーヤってやつですよ。そしたらば、すごい世界で。まだバブルの時代だったから、金もすごいかけてて、「なんて楽しいんだろう」って。しかもすごい人がいっぱい関わるわけ、オペラって。キャストとオーケストラもそうだし、あと裏にいる転換のスタッフだったりとか、ステージマネージャー、舞台監督、衣装さんだったりとか、そういう人たちがわーっといる中に組み込まれて。そこでわーっと作るのが楽しくて。「これはいいわ」って思って、もうハマったっていうか、みんなで作り上げるのが楽しかったんだろうね。

——舞台上のキラキラだけじゃなくて、それを取り囲むものも全部含めて。

 うん、そうです。だからどっちかっていったら、自分がプレイヤーになるっていうよりは、大学卒業するときは裏方さんになりたくて。オペラの演出家だったりとか、ステージマネージャー、舞台監督とかそっちの方になる方法ないのかな、なんて思って画策したんだけど。もちろん大学卒業してすぐなれるような仕事じゃないから、大学院に行かなきゃいけないし、大学院行ったら留学しなきゃいけないし……お金かかるじゃない。でも親は全然そんなもん、ダメで。「じゃあ自力でなんとかしようかな」って思ったんだけど、奨学金とかも全部ダメで、諦めて福島に戻ってきて、中学校の先生になって、中学校の先生をずっとやってた。

 10年くらいやって、そのときにたまたま、福島大学の大学院に、長期派遣研修っていうのがあって。在職したまんま2年間、普通に大学院に行きませんかっていう、そういう制度があって。で、応募してみたら通ったんで、大学院の試験も受けていいよって言われて、入試受けたら受かったから、「じゃあ大学院に行きましょう」っていって、福島大学院に。給料もらいながら、なんならボーナスももらって(笑)2年間行って、修士取ったときに、今の師匠に出会って。「あなた歌えるんだから歌いなさいよ」って言われて、そこから舞台に復帰したっていうか、プレイヤーとして。で、学校の先生やりながら、年に1本とか2本くらいオペラの舞台に立ったりとかをしてて。

——オペラの舞台って、それまでに培ってこられたものとちょっと違う技術だったりとかではなかったんですか?

 でもね、やっぱり「演出したいな」とか、「舞台やりたいな」っていう根底、バックグラウンドにあるのは「自分が歌う」ってことだったから、あんまり相違点がないの。むしろ、そういう外の世界、ちょっとだけでも知ってるから、割りかし。
 しかもオペラを始めたとき、プレイヤーだけじゃなくて、制作とか、そういう作業もしないと、人が足りないから。だからもうそういうこともやってたんで、全然なんともなく楽しくやる。

 で、やってたら震災があって。

「バックボーンって大事なんだよ、一成さん」

 震災で、ちょっといろいろ、なんか、嫌になっちゃった。なんていったらいいのかな……公立の中学校の先生だったんだよね。言うことを聞かなきゃいけないんですよ。教育委員会だったりとか、文部科学省だったりとか。そうすると、今、自分らが目の前にいる子供たちの安全だったりとか、そういったものをどうしようかって思って、いろんなことやって、「こうしましょう」って言っても、ある日、本当、文書一発で変えられることがいっぱいあったんですよ。なんかもう、それでぽっきり心が折れちゃって。
 42歳のときに「仕事を辞める」って言って。まあ、どうにかなるだろうと。「かみさん、学校の先生だし、俺一人くらいは養ってくれるよね」(笑)。「好きなことやってていいよね、俺くらい」と思って辞めちゃった。

——辞めちゃうほどの、その、見解の相違というか。

 うん。あのときって、みんなね、必死だったんだよね。しかも多分、今の年齢で、同じことあったら僕辞めないと思う。大人になったから、ちょっとだけ。やっぱ立場が違かったらさ、言うことだって違うよね……っていうふうに思って、「じゃあ」って、自分の生かす道を探す努力をしたと思うんだけど。そのときはまだ42歳だからさ、まだこう……ギラギラしてるわけさ(笑)。で、「こうじゃなきゃダメだ!」みたいなのもあって、衝動的に辞めちゃったからね。「もういい、もうやってらんねえ」って。校長室、バンッ! って行って、「辞めるのどうしたらいいですか」。校長とも、反り合わなかったから、「ああ、退職願書いて?」って。

——一般論で言ったら、すごく勇気のいることだと思うんですけど。

 うん。まあでも、そのときはさ、別に学校の先生じゃなくても……さっきも言ったけど、「俺一人くらいどうにかなるよね」って思ってたからね、正直。
 辞めて、ぷらぷらしようと思ってたんですよ。なんならもう、このまま俺、死んでもいいなあなんて思ってて。ちょっと精神も病んじゃってたから、そのとき。薬とかもいっぱい飲んだりとかね。「もういいや」なんて思って……まあ、おかしくなってたんだよね。
 でも、大学院でお世話になった福大の教授に、「あなた、もう学校の先生っていうバックボーンがなくなったんだから、これからあなたは自分のことを『声楽家』だと名乗りなさい」。「いや、俺、そんな気なんかねえですから」って言ったら、「いや、違う。そうじゃないんだよ」「バックボーンって大事なんだよ、一成さん」って言われて、「ああ、じゃあ、これから僕は声楽家として生きていきます」って。

 まあでも、もちろん仕事なんかないから、ほんとに細々と、レッスンをしたり、歌を歌ってたりとかしてたら、たまたま、シャイーン☆せいやんっていう奴がいまして、そいつがバンドをやるときに、ベースを弾いてくれないかと、マーヤンから話がきて。で、ベースやって、バンドやってみたら、楽しかったんですよね。
 ちょうどその頃、震災から4〜5年目くらいだから、ほんとイベントがいっぱいあったんだ、毎週のように駅前とかで。だから、必ずそういう人たちの出番があった。そういうのをやってったら、勇さん経由でまこっちゃん(真琴 / thing of gypsy lion - ex.衰退羞恥心)を紹介されて、「衰退羞恥心のベースを探してる」と。「一成くんもしよかったら、ベースやってみねえ?」って言われて、「ああ、いいですよ」。

 でも、衰退羞恥心っておっかなくてさ、当時。今でこそまこっちゃん、あんな感じだけど、やっぱ昔は尖ってたんだよ。「みんなで群れんのがパンクだと思ってねえですから!」とか言ってさ。そういうイメージばっかりが入ってて、「おっかなあ……」と思って。やる前に、AS SOON AS(福島市)でライブやるっていうのを観に行ったら、もうすっげえ低姿勢で(笑)「あっ、よろしくお願いします……!」。「え、なにこの人、全然違うな」って。そっから付き合い始まって。
 今はもう、塩井(潤一)くんに俺の座はすっかり奪われてしまったけども(笑)結構、バンドでもやってたんだよ。

——ベースって、それまでは経験は?

 ないないない。

——あ、じゃあもう、その声かけきっかけで、急に始めた……どうでしたか、っていうのもあれですけど。

 楽しかったね。やっぱね、ベーシストって、いそうでいないんだよね。セッションやったりとか。そのあと、ブルースとかのやつ(サポート)もやってたんだよ。ブルースの人が一人で福島に来たときに、現地調達でバンド作って演るなんていうのも結構あって。それで、南東北ツアー、帯同させてもらったりとか。ブルースって基本3コードだから、とっつきやすいんだよね。でももう、全然分かんなくって。「いや、kumaちゃんがやってるのはテキサスブルースだから」「俺たちがやってるのはシカゴブルースなんだ」。「知らねえよ!(笑)そんなの」。「なんだよそれ、めんどくせえな」なんて思いながら、やったりとかしてて。
 もちろんほら、ちゃんとしたベースシストじゃないっていうのは自分にはあって。じゃあどうするかと。やれることっていったら、やっぱドラム聴いて、ボトムきっちり作ってれば、気持ちよく歌えるし、気持ちよくギター弾いてもらえるよねって思って。だから、「余計なことはしない」。「できないんだけど、しない」(笑)っていって、もうルートと、とにかく位置。(リズムの)位置を合わせて、リズム作る作業だけっていうのをやって。
 だからShimvaとか、もう引退しちゃったけどね。Shimvaがホールワンマンやるなんていうのも、弾かせてもらってた。で、まこっちゃんに繋がっていく。

——2000……14〜5年とか。そっからなんですね、いわゆる今の活動に、直接繋がってくるのは。

 そうそう、そうなんですよ。

<次回>
シンガーとしてのはじまり、そして今この業界に対して抱く思いとは。
*後編は5月22日公開予定

いいなと思ったら応援しよう!

Flagment - インタビューマガジン
記事に頂いたサポートは、全額をその記事の語り手の方へお渡しさせて頂きます。