【前編】長利和季、復活! 等身大のエンターテイナー、その新たな薄明にて。
大手を振って、歌えるように、ピアノを弾けるようになりました
ながいせんせと、アーティストとしてお話しさせてもらうのってたぶん初めて……。
——何を今まで、ね……(笑)。
そう(笑)ちゃんと「アーティスト・長利」としてお話しすること、なかったですよね(笑)。一緒に映画を観たり、エキスポ※行ったりする、不思議なご縁ですよね。
——本当に。じゃあ……よろしければ、じわじわやっていきたいと。
あ! じわじわやっていきましょう……!
——「これFlagmentで見たやつだ!」(笑)。
あはははは(笑)毎回「あ、これFlagmentで見た」ってなってる、要所要所で。
——(笑)じゃあまずは、大変遅ればせながら……おかえりなさいませ!
ありがとうございます! ただいま戻りました、ありがとうございます。
——ただいまって言っても、長利くん的には(永井は)戻ってくるまでの道すがら、出先で会った人なんだけどね(笑)。
そうですよね(笑)言われてみれば確かに。
——「ドライブイン入ったら、いた」みたいな(笑)。
あははは(笑)そうですよね。「なんか休止してたらしい?」みたいなね。けっこうでも、それこそ今「ただいま」「おかえり」って言われたように、2018年から病気の関係で活動を休止してたので、もう6年経ってるんですよね。6年も経ってると「ドライブイン初めましての人」の方がもう多いんですよ、実は。だから「音楽やってる人なのは知ってたけど」っていう方だったりとか、「え、長利くんって歌も歌ってる人だったんだ!」(笑)っていうことも多くて。ながいせんせもね、お友達として最初は。
——しかもネット上でね(笑)配信上※で。
(笑)そうそうそう。しばらく生身ではお会いする機会がなくて、でもちょこちょこ会う機会もいただけて。一緒に映画観たりだとか(笑)展示に行ったりとかっていうので仲良くさせていただいていたけど……改めてこうやってじゃあ、アーティスト同士、音楽人同士でお話させていただくのは、ちょっと気恥ずかしいですね。
——ちょっと改まっちゃう。
(笑)そうそうそう。
——ヲタクとしての関係値しかないから(笑)。
そうなんですよ(笑)不思議な。だから今日は、「長利くんって今までお友達やってたけど、ああ、そういう側面も」とかそういうヒストリーだったり、あとは「これからがあるんですね」っていうのも……読んでくださってる皆さんにもなんだけど、ながいせんせにもね(笑)。でもながいせんせ、けっこう存じてくれてるんですよね。
——一応その、何者なのかっていうのは(笑)。
そうそうそう(笑)一通りはね。ありがとうございます。発信できればなと思います。
——ぜひぜひお願いします。
お願いします。
——一応、動きとしては去年の年末に、配信のワンマンをやって、そこで「復帰宣言」といっていいのか。
そうですね、正式に発表をして。『歌うたいの夜明け』っていうタイトルのワンマンライブだったんですけど。僕の脳の病気で、ジストニアっていう……喉と右手が、ピアノを演奏するときと歌を歌うときに、筋肉の関係で演奏しづらい、歌いづらいっていう病気だったんですけど。そのドクターストップが解けて、自分の体調を見ながら演奏してもいいよっていうようになったのが2023年末。であれば、ワンマンライブで発表したいなっていうので、昨年末に配信限定でワンマンライブをして。そこで「来年からもっと大手を振って歌えるように、ピアノを弾けるようになりました」っていう発表をさせてもらいました。
——それから今、約8ヶ月ぐらい。率直に今の気持ちっていうのを、ちょっとまずは訊きたいなと思いますが……どう? 順調?
(笑)なんか、親戚の集まりみたいな(笑)。
——「音楽やってるんでしょ?」(笑)。
「なんか歌ってるらしいじゃん、元気でやってんだ」みたいな(笑)。でも大手を振って歌えるってことがこんなに心地良いことなんだっていうのは改めて思いますし。ありがたいことに、(ドクターストップが)解禁になったことで、「歌いに来れるの? じゃあぜひ」っていうお声だったりとか、あとは活動休止前……2017~18年に、がむしゃらにただ病気を隠して演奏してた頃に出会った県外の方から、「本当におめでとう、おかえり」「じゃあ一回歌いに来なよ!」ってお声がけいただくことが本当に多くてですね。それこそ、福島にも何度もお邪魔させていただいて。
——この間もね!(2024年7月7日 福島Player's Cafe)
そうなんです。歌いに来させていただきまして、「なんて温かいんだろう」っていう。しかも6年も経ってるので、6年経っててもこうやって発表した時に「おかえり!」って言っていただけるってことが、まずすごく嬉しいことだなっていうのと、僕が歌ってもいい場所を、いろんなご時世があった中で、ずっと繋いでてくれてるっていうのが、すごく嬉しいなって、率直に思いました。
——そうか、誘う側からしても気楽になったというか。
うん!「なんかちょっと遠慮しちゃうよね」の壁を、僕自身もずっと取っ払いたかったし。だからね、どんどん誘ってもらって大丈夫です!(笑)
——これを通して(笑)。
(笑)これを通して。
このリハビリ期間がなかったら、今の僕はなかった
——そっか、本当にだから、かつてを思えば今の活動っていうのはだいぶ精力的にできている。
そうですね、ありがたいことに。今までの牛歩というか、亀の歩みが何だったのかっていうぐらい、今は目まぐるしく一日一日時が過ぎていっていて。でも昔のように、生き急いで、ただ歌える限界まで絞り尽くさなきゃっていうよりは、毎日毎日、未来に向かってる感じというか。すごく前向きな気持ちで、一日一日を走っていけてるなっていう感覚が自分の中でありますね。
——あとで触れるんだけど、新井くんのnoteでのインタビュー(『表現者たちの伏線』)があって、そこに経緯がぎゅっと詰め込まれてるわけなんだけど。そこにあった内容的には、当時活動していく先に見ていたものってけっこう……言葉があれかどうかわかんないけど、リミットみたいなものに向かって進んでる感じというか。ゴールっていう言い方とはちょっと違う感じで。
うん。そうだな……言葉を選ばずに言えば、「僕自身の音楽活動」に対してではなく、「今の僕に何ができるんだろう」「僕にとってのスタートって何なんだろう」っていうところを探している時間だった。あてもなく、ゴールにすら向かえてないというか。で、かつ自分の病気の復帰のめどは、当時立ってない状態。だから、いつ復活できるかも分からない……明日かもしれないし、10年後かもしれない。っていう状況で、当時は当時なりにすごく、「じゃあ今の僕にできることを探そう。でもなんだろう?」っていう迷いの中で、ただひたすら「個としての長利和季」をどう立たせていこうかということを、考えていたかなと思いますね。
——そこから比べると今は、スタートみたいなものもある種切れているし、どっちかというと目標みたいなところに向かって走れているような感じ。
そうですね。「目標に向かって走る」という性質というか、その形って僕すごく好きなんですよ。人生的な大きい括りでも……マグロと一緒で(笑)泳ぎ続けるみたいな動きが僕は合っているなと思っていて。
それでいうと、活動復帰するときにもう一個大きい発表があって、2年後の2026年に『エンターテイナー』という、1000人規模の会場で行う活動復帰ワンマンライブを決めて、今はそこに向かって2年かけて走っているという状態なので。その当時からしても、何か模索するという時よりかは、明確に走る方向が定まって、今を生きている感じはするかなと思います。
——自分の手札が何であるかも、ある程度分かっていて。
把握した上で、僕に何ができるのかというのを定められたのかなと……この6年で。
——そう考えると、「6年前の自分が今復帰する」というのともまたちょっと違う……生まれ変わりめいたものになるのかな。
ああ……そうかもしれないですね。地続きではあるんですけど……新井くんのインタビュー『表現者たちの伏線』の中では、主に僕の生い立ちとして病気になった経緯と、活動を休止してどういう気持ちで模索しているかという、個人について書いていただいたんですけど。じゃああの時に「今から復帰です」って言われたら、今の長利和季になったかって言われると、絶対に違うってこれは断言できるんですよね……誤解を恐れずに言うなら、病気になって闘病・リハビリしていたこの期間が、今の僕を作ってるっていうのが正しいのかな。
——活動的にもまったく、0%ではなかったもんね。ちょくちょくできる範囲内でやっていたことはあると思うし。
そうですね。自分が表現活動する以外のところで、例えばレコーディングエンジニアだったりとか、プライベートスタジオを作ったりとかっていう活動を通して、そのすべてが今、自分自身の活動に還ってきている感覚があるので。「病気になってよかった」までは、ちょっと言えないんですけど、僕としても。ただ、このリハビリ期間がなかったら、今の僕はなかったな。
——それがまさに……新井くんのnoteが出たのが2020年4月で、そこから今日までの4年間の中のお話だと思うんだけど。その、明文化されてなかったこの4年間のお話も、今日はちょっとぎゅっと訊けたらなと思っていて。
わあ、ありがとうございます。
どれだけ声が枯れようが走り尽くしてやる
——とはいえ、これを読んでくれてる人には、ぜひ新井くんのnoteも読んでほしいと思って、リンクも貼るんだけど、「それを全部読んでからじゃあまたここに戻ってきてください」もちょっと大変なので、簡単に2020年以前のお話も今、ちょっとさらっていきたいなと思うんですが。活動が始まったところでいうと、2016年?
そうですね、長利和季という名前で活動を始めたのがその頃で。それまでは部活だったりとか、軽音楽部とか……もともと合唱部だったので、合唱っていうジャンルで歌を歌ってはいたんですね。で、大学に入学して、じゃあ一人で何かやってみようってなった時に、「自分の名前で個人で音楽活動してみたい」。ピアノかギターか選ぶ時に、「ピアノで弾き語りしてみたい」っていうので、今の活動につながる最初のスタートを切ったのが2016年ですね。
——何かに属して、誰かと一緒にやっていたところから、一人立ちではないけど、自分自身としてやっていきたい。
個としてのやりたいことも……それこそ(大学時代は)モラトリアム期間ってよく言われますけど、模索してみたいなっていう気持ちで活動を始めたのがきっかけかな。
——だったんだけれども、そこから、さっき教えてもらったジストニアが発覚したのも、割とすぐ。
そうですね。もしかしたらもっと前から持っていたものだったのかもしれないんですけど。2016年から本当にたくさんライブをしていたんですよ。大学生は時間があるので(笑)音楽と大学生活と、そしてアルバイトっていう生活の中で……1年経たないぐらいかな、にはもう「なんか歌いづらいな、弾きづらいな」っていう症状があって。
そこまで当時、そんなに認知されてなかった謎の病気。今でも治療法って確立してはいないんですけど。「できるだけ早く治療した方がいいし、今の活動ペースで体を使うのは良くないだろう」って当時も言われてたんですね。でもせっかく一人で音楽活動を始めた時に、なんで急に奪われなければいけないんだっていう、ある種怒りじゃないけど、「そんなの納得できない」っていう気持ちが一番強くて。それでそこからがたぶん……生き急いで音楽活動していたというか。家族にすら(病気のことを)言ってなかったんですよ。
——ね。って言ってたね。
そうなんです。家族にすら言ってないし、僕ワンマンライブの時って必ず、ずっと昔から苦楽を共にしたサポートメンバーが3人いるんですけど、その3人にすら言ってなくてですね。
「じゃあ大学卒業する2018年の3月まで」っていう、それこそタイムリミットを決めて。「ここまで、もうどれだけ声が枯れようが走り尽くしてやる」「僕の人生のゴールはここです」ぐらいの気持ちで、やりたいこと全部詰め込んだのが、2016~18年のギュッと詰め込んだ2年間。そこで、大学生の最後の夏休みを使ってツアーを回ろうとか、CDは3枚くらい出したいとか、ワンマンライブしてみたいとかっていうのを、その2年で可能な限り叶えさせていただいて。その中でたくさんの県外のアーティストさん、ライブハウスの皆さんとかとも知り合うきっかけができて。それで2018年の3月に、最後ワンマンライブやらせていただいて。その時にサポートメンバーさんにも「実はこういう理由で今日演奏が止まるかもしれないんですけど」。
——そこで初めて?
初めて。楽屋裏で、本当にスタート1時間前とか。
——困る~(笑)。こっちの気持ちも考えてよ~(笑)。
(笑)本当ですよね! それだけたぶん、自分のことしか見えてなかったかなって、今思えば。だから鬼気迫る形で活動してて。でもね、すごく3人とも寄り添ってくれて、「わかった」と。「演奏が止まっても、じゃあ僕らは止まらないよ」っていう形で、ワンマンライブがスタートして。
——自分以外の誰かに告白したのはそれが初めて? 全く初めてっていうわけではない?
その前に一応、やっぱ家族には。ワンマンライブで初めて僕は家族をライブに招待したんです……これ、どこにも言ってないんですけど。「この2年間こういう活動してたっていうのを見てほしい」っていうのと、「実はこういう症状が出てて、活動休止をする予定なんですけど、最後のライブになるかもしれないから、身内とか家族っていうのを抜きにぜひ見てほしい」っていうので招待させてもらって。それもワンマンライブの前日とかに言った。
——こっちの気持ち……(笑)。
(笑)でもね、結果としてワンマンライブの日に、言うことになるんですよ。っていうのは、僕の楽曲の中で『night blue』っていう、僕が病気がわかった日の夜に書き殴った楽曲があって。
その曲をステージ上で演奏した時に、今まで調子良かったのに、右手と喉に症状が出てしまって、歌えなくなっちゃって。でもサポートメンバー3人は演奏続けてくれてるんですよ、僕がそう言ってたから。なんだけど、「いや、ここで症状が出たってことは、もうこの場で言いなさいってことだよ」って……確かに「なんで僕だけ?」とか、神様を呪ったりもしたけど、「でも神様っているよな、そういうことだよな」って妙に納得しちゃって。
それで急遽「ごめんなさい」って言って、サポートメンバーの3人の演奏を止めて、ステージ上で「活動休止します」っていうのと「リハビリをします」っていうのを告白して、結果として家族とサポートメンバーだけじゃなくて、皆さんにお伝えする形にもなって。ステージ上で言ったからには、ちゃんと文章としてワンマンライブに来れなかった方にも伝わるようにしたいなと思って、改めてホームページにも掲載させていただいて。そこからリハビリ期間として、活動休止をさせていただいてました。
僕の中では宝箱に入ってる
——今回取材させてもらうにあたって、『night blue』を聴かんわけにはいかんと思って、何回か聴いてきたの。もう誰かにたぶん言われてると思うけど……心の岩脈からそのまま削り出したような歌詞で。
そうですね、だいぶ鋭角というかね。今まで僕の楽曲って、その当時までノンフィクションで自分のこと書いたこと一曲もなかったんですよ。なんだけど、『night blue』は120%僕自身のことを歌った、僕の言葉ですね。
——しかもその日の夜に書いたっていうのが。自分だったらそんなことできるかな……「できるか」っていうか、もしかしたら「そうするしかなかった」のかもしれないとも思ったんだけど。
僕もそれって、「できた」ってよりかは、逆というか。「あ、こんな状況になっても曲書くんだ」っていう僕自身の驚きが、「じゃあ歌うしかないよな」っていう、僕自身の指針になる衝動だったというか。「僕って、病気になって歌が歌えなくなる、ピアノが弾けなくなるっていう時にも、出てくるのって歌なんだ」っていう気づきが、その後2年の生き急ぐ音楽活動、命を振り絞った活動に繋がったっていう形ですね。なので、僕も驚いてます(笑)。
——この曲は、今でも歌う時はある?
でも正直な話をすると、歌う機会は減りました。っていうのも、当時から気持ちが入りすぎちゃうなっていうのはあったんですね。で、僕を昔から知ってる人であればあるほど……僕は嬉しいんですよ、率直な嬉しい意見として「『night blue』は聴けないです」っていう(笑)。
——聴く側からしても。
そうそう、「しんどいです」っていう感想をいただいてて。でもそれって僕の気持ちを受け取ってるってことだからすごく嬉しい反面、僕自身もやっぱり当時の気持ちだったりとか感情が乗りすぎてしまうっていうのもあって。2024年に活動復帰してからは一度も歌ってないです。
だから僕にとって本当に節目の、「こういうことがあったんだよ」っていう語りを伝えたい気持ちになった時に、歌えればいいなっていう。でも大切な曲であることには変わりないし、やっぱり当時のあの荒削りのままの言葉を残しておきたいという気持ちもあって。実は今年になってから、今の歌唱力とアレンジで制作し直したんです。
——わあー!
それで。今「エンターテイナーへの道」という形でこの(2026年のワンマンまでの)2年をずっと追い続けているドキュメントが制作されているんですけど、その撮影編集さんにお願いしてミュージックビデオも新しく撮らせていただいて。今の気持ちで、当時のことを思い起こした『night blue』という楽曲を、この2024年に改めて発信したいというので。後ろ向きで歌ってないというよりかは、僕の中では宝箱に入ってるイメージですね。本当にこの曲を出したいっていう時に開ける箱っていうイメージが強いですね。
——それめっちゃ楽しみ。今パッケージすることにも意味があるだろうし、それゆえのクオリティっていうのもあるだろうから、すごく意味があることのように思います。
ありがとうございます、実は。伝えてなかったけど(笑)。このインタビューをさせていただいている前日にちょうど撮影してきて。だから本当に実はこの時点で撮りたてなんですよ。僕自身もどういう形でパッケージングされてるかというか、どういう形で皆さんに届いてるか楽しみだなっていう。
——最後の節、「抗え この命尽きるまで/歌え この声が枯れるまで」。歌を書き上げた時と、そこから活動休止までの間に歌っている時と、それこそ今歌い直している時と、それぞれのタイミングで、受け取り方とか、込もる気持ちとか、歌詞の意味も、全然違うんじゃないかなと。
そうですね。あ、本当にその通りだと思います。
——しかもフェードアウトで終わるでしょう?
そうなんですよ(笑)歌い続けている状態で幕が降りていくっていうね。
——それはたぶん、その時々によって持つ意味があると思うし、今度録りなおしたものの中にも、それはそれであるんだろうなと。
そうですね。でも、一個だけ安心してほしいのは、今、僕がその二節を前向きなものとして捉えています、っていうのは言いたい。当時も、抗い続ける気持ちで書いてはいるんだけど、ある種逆説的に……「声が枯れてしまったら、抗えなくなってしまったら、もうそこで終わり」っていう気持ちも正直含まれていたんですね。抗い続けるけれども、それはつまり、「歌えなくなる=抗えなくなる=命を燃やし尽くした、僕にとってのゴール」っていう側面もあって。それがこの6年の中で、本当の意味で前を向いて抗い続けるというか……気持ちが丸くなっているといえばそうなんですけど、自分の境遇だったりとか、置かれている状況に寄り添い続ける気持ちで、歌をこの先も長く紡いでいければなっていう思いが今は乗ってるかなと思います。
2年後、僕はどういう気持ちで『エンターテイナー』を書き直すんだろう
——そこから、紆余曲折を経て、活動……たぶん再開ではなかったと思うけど、気持ちとしてもう一回活動に向き直るのが、2019年ぐらいからなのかなと。
そうですね。はい。明確に、僕の中でも。
——この時の、またインタビューの引用になっちゃうんだけど。それまで、自分の悲劇的な部分を隠して、エンタメに徹するというか、ちょっと道化的な喜劇の向き合い方をしていたところから、今度はもっと自分をちゃんと肯定した上で、開けた喜劇っていうエンターテイナーに変わっていったっていうのがあったと思うんだけど。近く公開された『エンターテイナー』の歌詞が、まさにそういう意味なのかなって思って。
本っ当にその通りです(笑)。僕の言いたいことが詰まった30秒の曲なんですけど……余すところなく受け取ってくれてありがとうございます。
——その時に抱き直したその気持ちが、ずっと今まで推進力になってる。
そうですね。2019年から持ち続けているし、この気持ちを花開かせたいって思っていたものが昇華した形が、あの4節の『エンターテイナー』という曲であり、僕にとっての第二章の始まりかなって思います。
——文字通り、幕開けをしてっていう。
この『エンターテイナー』っていう楽曲も、歌詞は本当に4節しかないんです。「さあ、幕開けだエンターテイナー/すべてを喜劇に変えて/魔法じゃなくて、奇跡じゃなくて/ありふれた夢を見せて」。僕の言いたいことが、もうこの4節の中に全て入っているがゆえに、この曲はこれ以上長くならないんですよ。
——これで完成なんだ。
そうなんです、現状。だから僕はすごく、この『エンターテイナー』という楽曲が楽しみでもあって。今僕の言いたいことは、この30秒・4節で満足しているんですよ。でも、例えばフルで、3~5分とかの曲にしようよってなったときに、2年後、僕はどういう気持ちで『エンターテイナー』を書き直すんだろうっていう、ある種、僕にとってチャレンジというか。最初の気持ちの30秒・4節の『エンターテイナー』から、この2年でさらにどう変わるか、僕は楽しみです。フルができるのかできないのかも含めて。
——成長するかもしれない曲なんだ。
まだ伸びしろがある楽曲なのかなっていう。
——ミュージックビデオを見た時に、手袋を外すでしょう。右手の手袋を外した時に、「わぁーっ……!!」。
ああ~、すごい! ちょっと……さすがヲタ友だね!
——ヲタク、感受性が豊かだから……。
さすがです、本当に。明確にそういう意図があって、右手の手袋を外してます。制限解除というかね。これは僕もそうだし、映像作家さんもすごく喜びます。
——本当にそういう意味で作ったし、そう言い切れる状態というか、覚悟もあっての映像なんだろうなって思って見てました。
そうですね、ありがとうございます。
「僕自身を皮肉じゃなくて笑いたい」
——で、だいたいそこまでがすでに新井くんのnoteで語られてること。そこから今日に至るまでのこのおよそ4年ぐらいの話を、ちょっと引き続き訊いていきたいと思うんだけど。やっぱり2020年っていうとどうしても……コロナの影響もあったと思うんだけど。2020年からずっと、去年末までリハビリは継続していた?
そうですね。変わらずリハビリは続けていて。
——リハビリを頑張りつつ、ほかに日々の中で重視していたこととか、考えていたこととかって何かあった?
それこそ今までの話、そして新井くんの『表現者たちの伏線』で書いていただいた通り、当時の僕にできることを模索している状態だったんですね。それで、2019年からの転換として、「僕が表現者じゃない形でも、音楽の場には携わっていたい」っていう……僕が誰かの表現の支えだったりとか、制作の一助になれるような仕事や活動をしていきたいっていう一個新たなスタートを、小さいながら見つけるんですね。そこからレコーディングの勉強だったりとか、編曲の勉強だったりとか、僕が演奏する・歌う以外の音楽に携わる分野での勉強を始めて。
——そこで初めてだったんだ。
初めてでした。今まではやっぱり自分がプレイヤーであることでしか表現活動してこなかったので、制作陣に回る、スタッフに回るっていう形で、でも音楽の現場には携わっていたいっていう、ある種執着みたいなもので。そこからプライベートスタジオを作ろうと。
でもどうやって作ろうっていうので、よそに借りようかとか、色々エンジニアの方にお話を聞いたりとかしていく中で、それこそ2020年にコロナ禍に突入して。当時請け負っていた仕事だったりとかが、もう、本当にゼロになったんですよ。あけすけに言うと、1ヶ月に稼げるお金が0円、0円、5000円みたいな時期があって、それが結果として半年ぐらい実は続くんですね。
——めちゃくちゃ大変だったね。
そうですね。でも、「半年間暇にできる」と。「じゃあもうここでスタジオ作っちゃおう!」みたいな。物件探しもしていたけど、「もう自分でここで作っちゃえばいいんだ!」って、自宅を改装して。その半年間でぎゅっと資材を集めて、スタジオを作るに至って。
——それが、この間遊びに行った。
そうです、CalmRoomになりまして。でもね、当時は裏方だったり制作で携わっていたいと言いつつ、やっぱりいつか自分が活動を復帰した時に、自分で制作できるスタジオが欲しいなっていうのが、最初の正直なところで。それで2020年の末にスタジオを作って、最初は活動休止前までに知り合っていたアーティストさんだったりとかから「スタジオ作ったの? じゃあ遊びに行くよ」って、お仕事をいただいたりして。でも今思えば、あの半年間でマインド的にもけっこう、楽観的な方にシフトしていったというか。そういう意味でも、エンターテイナーの種みたいなものって2019年頃から少しずつ蒔いていた気はしてて。
——今聞いてる限り、すごくしなやかだもんね。
ありがとうございます。でも話してて「そうだな」って思いました。後ろめたさだったりとか、背中を向けるっていう時間ももちろん大事なんですけど、何か一個性格がガラッと……この表現が正しいかわからないけど、「僕が思う本物のエンターテイナーになりたい」、「僕は僕自身を皮肉じゃなくて笑いたい」……っていう気持ちがすごく花開いていて。
じゃあ、「半年間でスタジオ作っちゃお」っていう……そんな、仕事もなくなった状態でスタジオ作ろうなんてアホの考えなんですよ(笑)スタジオ作ったって仕事になるか分かんない。でも、そこから少しずついい風が吹いていったように思います。っていうのも、ピアノの演奏だけ2020年末に緩和するんですね。歌はまだちょっとコントロールが難しいけど、ピアノはある程度であれば大丈夫じゃないだろうかって、実はスタジオができてちょっと経った頃に診断を受けていて。「あっ、ようやく自分もステージに立てる兆しが見えた」っていうので……。
これもアホなんですけど、「ピアノはいいですよ、歌はちょっとまだ」……「じゃあアーティストさんに歌ってもらえばいいんだ!」っていうので、2021年の2月に1ヶ月連続で仙台BARTAKEさんというライブハウスを貸切にして、連続でツーマンライブを行う『「ただいま」の第一歩』っていう企画をさせていただいて。
30組のアーティストさんにご協力いただきまして、僕は歌えないからピアノで参加して、その方の曲と僕の曲を、その方に歌ってもらって、僕はサポートっていう形で28日間ステージに立たせていただく。その後ちゃんと叱られたんですけど(笑)。
——だって……「緩和」なんだよね?(笑)
(笑)「緩和」なんですよ。「多少であればやっていいよっていうのは1ヶ月連続のことじゃないよ?」っていう(笑)。
——極端なのよ(笑)。
(笑)でもね、もう爆発しちゃったんです。その時点で、だって2年かかってるわけだから。その分のバネを「えい!」ってしたのが2021年の1ヶ月連続ライブで、最終日は許可もいただいてワンマンライブっていう形で。
少しずつ少しずつ前を向けていけるかなってなった時に、じゃあこれまでの長利和季を一つにまとめた何か証が欲しいなっていうので、その2021年の末に作ったのが、今までのすべての曲を作曲順に並べて収録したフルアルバムの『curtain call』でした。
で、その年の12月末にも仙台MACANAさんで、長尺のワンマンライブをさせていただいて。途中症状が出たりもしたんですけど、なんとか歌い切ることができて。僕のこれまでの第一章って、たぶん2021年の『curtain call』までだったのかなって思います。
——やっぱりスタジオを建てて、アーティストさんとも持続して関わりを持ったりとか、1ヶ月ツーマンやったりとか、最後のワンマンもそうだけど。シーンでなんらか顔を出し続けていたのが、これもやっぱり大事だったんだろうな。その時に蒔かれた種もきっとあるもんね。
そうですね。だし、やっぱり周りの方にもすごく言っていただける言葉があって、「自分がそういう状態で音楽の場に居続けることって、きっと長利くんが思っているよりも難しい」。それを聞いて、確かにそうなのかもしれないって。僕が演奏できない状態で、そのシーンに居続けるって、確かに苦痛だったよなっていう気はするんですけど、2019年から楽観的な気持ちがね(笑)すごく芽生えているので、正直実は、そんな辛さは微塵もなくて。そういう部分も含めて全て、アーティストじゃない長利和季も認めた上で、歩めていたかなと。
続けることってやっぱり大事だったんだな
——ちなみにこの2021年の7月に、初めて「ほかヲタ」に来てくれたの。
へえー! そんなに前なんだ! 配信でコメントでお邪魔して。
——最初はそうだね。
ずっと聞いてて、「いやー、ヲタ活いいなー」って思ってて、ついに。僕は本の虫って自称するくらい、小説、漫画、エッセイ、なんでも本はすごい好きなんですよ。だからね、今日も持ってきてる! ながいせんせ著書の『あかつきのおと』。
——おおー。
っていうくらい本が好きで。(配信にコメントしたのも)ちょうど本にまつわる回だったんですよね。
——ああ、そうだったね。
で、ついコメントしちゃって。それで追加戦士としてお邪魔させていただいて(笑)でもそんなに経つんですね。そっか、3年もの間、僕はながいせんせとヲタ友でいたのか(笑)はははは。
——「きっとピンとくる人もいないだろうけど、俺は好きだから紹介するね」って出した本を、全て知ってたんだよ。
そうそうそうそう(笑)。「あー、それはこういうところがいいんですよ」って。「コメント欄で、なんか詳しいヲタクいない?」っていう(笑)。ながいせんせの紹介する本がね、ドンピシャだったんですよね。「いいね~!」みたいなのが、すごい刺さってて。そういう波長の良さというか、も当時感じていて。
——ただその時はもう、あの通信だけの(笑)。
そう、オンライン上での、アイコンの人だったんだよね(笑)はははは。
——その年じゅうに会えたんだっけかな。なんか、フラサン(仙台FLYING SON)で会ったよね?
そう、年末に、最初のエンカウントをしたんですよね。2022年のような気もするな。「1年以上会えてなかったね」みたいな話をした気もする。
——確かに。
ちょうどね、zanpanがフラサンにいらしてたんですよね。で、新井くんと、あとaureliaのたくみさんもいて。はあー、そっか。2021年、けっこういろいろじゃあ動いた年だったんだな。
——ね、ちょっとこう、鍵になる1年だった。
うん。だってその時の出会いが今、こうやって繋がってるわけだから……不思議なもんですね。だからそういう意味も込めて、動いててよかったなって思いますね。
——歩みを止めないというか、それこそ牛歩でもなんでも。
そう、動き続けることだし、続けることってやっぱり大事だったんだなって振り返って思いますね。