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【前編】三吉梨香が信じるラジオの力——出会ってつながる、ふくしまのグルーヴ

ラジオと音楽。
切っても切り離せないこの関係性には、私も何度となく救われてきた。
昨年FlagmentがふくしまFMとコラボできたのも、そういう縁の延長線上にあったものだったと言っていい。

人と人、そして人と音楽の交差点ともいえるこのメディアの担い手——ふくしまFM、三吉梨香アナウンサーが今回の語り手だ。
福島に住む人ならきっと誰もが、そのお声に聞き覚えがあることだろう。

ラジオとの歩み、ラジオが持つ力、ラジオの在り方についてのお話はもちろん、
県内外のさまざまな音楽イベントにも積極的に参加する三吉さんが思う、福島の音楽シーンの魅力についてもお話を伺うことができた。

取材・撮影・編集:永井慎之介
取材・撮影協力:ふくしまFM

目立ちたくないのと、目立ちたいのと……

 何を喋ればいいんだろう……何か訊いてくださるんですか?

——そうですね。でも(Flagmentを)お読みいただけているってことなので、なんとなくわかるかと思うんですけど、人生を……流れで伺っていく感じです。もちろん質問はご用意はしてるんですけど、でも形とか、それこそ時系列とか、全然こだわらなくて大丈夫なので……お気楽に。

 わかりました。じゃあ、ながいせんせに訊かれたことを、答えていきます(笑)。普段はインタビューをする方なので……。

——そうですよね。

 あんまりされることがないので、なんか緊張しますね。

——そうですか? こちらこそ、素人のインタビューで申し訳ないんですが……。

 そんなことないです。だってラジオ(『FUKU-SPACE』)で喋ってたじゃないですか、いろんな方と。

——聴かれてたんですよね(笑)。

 めちゃめちゃ聴いてました(笑)楽しかったです。すごく核心をついて、さすが。ながいせんせの観点からの質問が、やっぱり私たちの感覚と違ったところに切り込んでいかれてて、すごいなって思いました。特にアーティストさんとかだとやっぱり。

——同士だからっていうのもあるんですかね?

 ありますよね。いいなあって思いながら聴いてました。

——ありがとうございます……! じゃあすみません、早速なんですけど。

 はい……(Flagmentではいつも)音楽関係の皆さんが出ていて、なんか私一人違う感じだなと思っちゃうんですけど(笑)大丈夫ですか?

——いえいえいえ。「大丈夫です」……ってのも変なんですけど(笑)。

(笑)大丈夫かな。

——お生まれから伺っていきたいんですけど、ご出身っていうと……兵庫、っていうことになるんですか?

 そうなんです。兵庫県の神戸市生まれ。両親も神戸人なので、けっこう神戸大好き家族・親戚・祖父母っていう中で育ちました。

——神戸大好き。大阪とはまた少し違って、ってことですよね。

 そうですね。なんなんでしょう、神戸市の人たちの「神戸生まれです!」っていうあの感覚って……。

——あるんですね。

 なんかあるみたいですね。でも私、途中で大阪に引っ越したので、大阪の血の方がめっちゃ濃いんですけど。

——何歳ぐらいから?

 3歳ぐらいのときには大阪に引っ越してたので……ただ学校とかも、やっぱり神戸を選んで。祖父母、親戚もみんな神戸だったので、2ヶ月に1回はおじいちゃんおばあちゃんの家に行って、みんなでワイワイっていう感じで。

——あ、じゃあもう通える範囲……県境みたいなところに?

 そうですね、車で1時間ぐらい。

——あっ、でもそうですよね、そんな遠くないですもんね……福島感覚で考えてました(笑)。

 そうそうそう(笑)だから大阪からだと神戸も近いし、京都も近いし。

——福島がデカすぎましたね。

 ねえ(笑)大きいから……そう考えると、(関西圏は、近県もみんな)同じ県ぐらいの感じで。

——当時、客観的に見てご自身でどんな子供だったと思いますか?

 どんな子供……? 客観的に見て…………すっごい、恥ずかしがり屋。

——へえ~。

 そう、だから小学生のときも絶対、授業中に発言しないし手も挙げないし、目立つのも嫌い。でも潜在意識的には多分、何かあったんでしょうね。お楽しみ会で劇をやるのとかはすごく好きで、恥ずかしがり屋なのに。だから自分で劇の台本書いて、演じるのもやるみたいな、配役とかも決めて……みたいなのをやってたりはしました。

——その当時からですか? すごい。

 小学生3年生ぐらいのときとか。恥ずかしがり屋なんだけど、そういうのは好きっていう。

——何か秘めてるものがあったんですかね。

 なんですかねえ(笑)。

——でも「頑張って、出てみて」っていう感じだったんですね。

 そうですね。でも、授業参観とかで親が来るじゃないですか。一番後ろの席で、母親は私のノートが見える位置にいるんです。で、「答えがわかってるのに、なんで手を挙げないの?」って帰ってから怒られて。「お母さん観に行ってるのに……」。でも「やだ~」みたいな、「恥ずかしい」って(笑)いう感じだったので。だから、目立ちたくないのと、目立ちたいのと……みたいな、ややこしいですよね(笑)。

——幼少期とかちっちゃいときに、「これが好きだったな」っていうもの……とか、コトとか人でもいいですけど、ありますか?

 幼少期に好きだったことって……なんだろう。そうですね、「いちご」とか、「いちご柄」とか、「お人形」とか……「ピンク」とか。いわゆる「女の子が好き」っていうものを、とにかく大好きで。フリフリのスカートとか……でもフリフリのスカートはうちの母親があんまり好きじゃなかったから、着せてもらえなくて、「なんで~!」っていう感じで。
 私、弟が二人いるんです。だからどっちかっていうと、例えば修学旅行用の大きいバッグとかって、弟たちも使えるようなものを親としては選んでほしいじゃないですか。でもやっぱりピンクとか、いちごとか、そういう柄が欲しいから、すごい葛藤なんですけど、結果ピンクのバッグを持ってるっていう(笑)。

——勝ち取ったんですね(笑)。

(笑)勝ち取ったみたいな。「今日は黄色か~」みたいな、「今日は緑にした方がいいのかな~」とかもありました。

「梨香ちゃんは大器晩成型だから」

——印象に残ってる思い出とか、子供の頃の記憶とかはありますか?

 子供の頃ハマったものでいえば、けん玉が大好きで。小学校……3年生くらいのときに、地元の公民館でけん玉を教えていて、その先生が、「私たちが二十歳になる頃には、けん玉はオリンピックの種目になってる!」って言ったんですよ。で、そこからすっごく必死にけん玉を練習して。
 っていうのも、自分自身がすごく運動が苦手で。走るのも遅いし、飛び箱も飛べないから、オリンピックと自分を結びつけることがなかったんですけど、けん玉でオリンピックに出られるかもって言われて、「はっ! これだったらいけるかも!」と思って、すっごい毎日一生懸命練習をして。
 当時、18歳まではけん玉3段までしか取れなかったんです、日本けん玉協会の。9歳のときに3段取ったんですよ。

——え~! すごい、飛び級じゃないですか(笑)。

(笑)。文部大臣杯とか大会があって、文部大臣特別賞みたいなものをもらって、『24時間テレビ』で取材していただいたりとか。あと、沖縄の子どもたちにけん玉を教えに行くとか。いろんなところに、けん玉で遠征に出かけるっていう……小学生なのに。

——遠征に(笑)。

 遠征に(笑)それがすごく楽しかったです。一番印象に残ってるのが、ザ・ドリフターズの雷様(『ドリフ大爆笑』)ってわかります? いかりや長介さんの……(永井の目が泳ぐ)あ~わかんないか~……!

——いや、多分見たことあります。

 ああ、でも多分なんだ~。そこで、高木ブーさんがちょっと小技を披露するっていうコーナーがあって。そこでけん玉をされるっていうことになったときに、じゃあ子どもたちからけん玉を教えてほしいっていうオファーが私たちの街の公民館に来まして。なんと、私たちが高木ブーさんにけん玉を教えたんです!

——ええ~。 それは、放送されたんですか?

 テレビの取材とかは入ってなくて。高木ブーさんがいらっしゃって、本当にけん玉を教えるだけっていう。放送のときには、日本けん玉協会東京支部の、一番上手な男の子が、子どもの雷様の格好をしてドリフターズに出ていて。「いいなー」って思いながら見ていました。
 でも雷様の高木ブーさんにけん玉を教えたのは大きな宝物です。印象に残ってる出来事です。

——本当にただ、学びに来たってことだったんですね(笑)。

 そう(笑)「教えてあげてください」っていう感じで……そうだ、あれは日本けん玉協会から(オファーが)来たんだ。そうだそうだ。

——そのぐらいじゃあ……ガチというか。

 ガチ! ガチですよ。ガチでやってたんですけど、全然オリンピックの種目にならなかったです……(笑)。

——(笑)なってたらちょっと違ったかもしれないですね。

 そう……言っていいのか分からないですけど、ふくしまFMの入社試験でけん玉しました(笑)ふふふ、最終面接で。

——(笑)でもその経歴があったら、しますよね。

「一応念のため持っていっておいた方がいい」ってアナウンス学校の先生に言われてて、常にカバンの中に入れてたんですけど、ふくしまFMの最終面接のときに「けん玉得意なの? ちょっとやってみて。持ってる?」みたいなことは言われて、「持ってます!」(笑)。だから私は、ふくしまFMにけん玉で入社しました(笑)。

——(笑)そんなことないと思うんですけど。今もできるんですか?

 今もうほとんどやってないんですけど、でもできると思います。ときどきアーティストさんでけん玉にハマってる方がいらっしゃったりすると、スタジオでけん玉対決……MONKEY MAJIKとけん玉対決やったりとか(笑)。

——(笑)意外なところで。

 そうなんですよ、意外なところで。オリンピックには出られなかったんですけど、ちょっとしたコミュニケーションツールになったりはしてます。今ちょっと、流行ってるじゃないですか。

——ああ、ありますよね。

 だから「やりたいな」っていつも思うんですけど……また練習します。

——もしかしたらどこかで、日の目をまた見るかもしれないですね。

 ねえ(笑)確かに、今日のながいせんせのインタビューがきっかけでね、どこかで披露させていただけることがあればぜひ。

——楽しみにしてます……何の取材なのか(笑)。

 なんの話だ(笑)大丈夫なのかなこれ(笑)。

——そこから話を戻すとしたら、学生時代はどんなふうに過ごされたんですか?

 中学生のときは3年間テニス部に入っていたんですけど、ちょうど私が入学した中学1年生のとき、テニスコートが校舎の増築で資材置き場になってたんです。だから一切テニスコートで練習ができないっていう1年間で。じゃあ何をやるのかっていうと、毎朝グラウンドを10周走るっていう、ただそれだけの部活だったんですよ。

——ええ~。ラケット握れなかったんですか。

 はい。私、走るの大嫌いなんです、運動。

——おっしゃってましたよね。

 はい。でも走り続けました。走り続けたら……短距離走はクラスで最下位か、最下位から2番目だったんですけど、長距離走になるとクラスで(上位)2番目とか3番目になって。「もしかしたら私って持久力があるんじゃないか」と思って。先生にも言われたんです、「短期戦とかは絶対ダメだけど、長い目で見ると……」(笑)、「何か実を結ぶものを持ってるかもしれない」って言われて、それって今も自分の糧になってるというか。

 入社したときも、本っ当に何もできないアナウンサーで。最初の放送から大きなミスをして、スタジオで大泣きして。「こんな新人はふくしまFM始まって以来だ!」って言われるくらいだったんですけど、「そうだ」って。「短期戦はダメだけど、長い目で見れば、いつか実を結ぶかもしれない」。親には「梨香ちゃんは大器晩成型だから」ってずっと言われて。「そうだそうだ」って思いながら……今も思い続けて仕事をしてます。

——でもその最初の1年間のランニングが相まってってことですよね。

 そう、だって本当に走るの嫌いなのに、10周走れるわけじゃないですか。「明日絶対行かない!」「もう辞める」って思うんですけど、「……とりあえず行くか」ってなるんですよね。
 結局その1年間だけ資材置き場になってたんですけど、テニスコートが使えるようになってからも、10周走るのは3年間続いたんですよね(笑)顧問の先生の気まぐれなのかわからないですけど。だから陸上部でもなんでもないけれども、テニスをしたっていうよりは、ただ毎朝グラウンドを10周走り続けたっていう。

——半分陸上部みたいな感じだったんですね。

 しかも長距離ばっかりっていう……そんな学生時代でしたかね。

高校3年間は一番ラジオを聴いたかもしれないです

 あと大学時代は、そう、一瞬軽音サークルに入ったんですよ。

——わあ。(パートは)何を?

 キーボードを。ピアノを15年間やっていて。

——あ、そうだったんですね。

 そうなんですよ、全然上手にならなかったんですけど、好きだったので、子供のときから。ピアノの音も大好きだったので、ずっと続けてたんですけど。
 ある日先生が……楽典ってわかります? 音大に進む人が勉強する本を先生が持ってきて。自分自身の中には「音楽の道に進む」っていう選択肢がないので、「なんか……違うかもしれない」と思って辞めちゃったんですよね。
 でも、鍵盤を弾くのは好きだったので、軽音サークルでキーボードはやってたんですけど……アルバイトの方が楽しくなっちゃって(笑)。

——何をやられてたんですか?

 映画館でアルバイトをしていました。大阪のナビオっていう、試写会とかだといろんな俳優さんたちが来たりとか、宮崎駿監督が事務所に座ってたりとか、東宝系列の事務所のある映画館だったんです(現・TOHOシネマズ梅田)。そこでアルバイトをするのがすごく楽しくて。
 映画が見放題だったんです。関西中の。アルバイトの特権で。1日3本ぐらい観たりとか……そっちの方が楽しくなっちゃいました。

——3本も観れるんですか……?

 けっこう疲れますけどね。映画好きな人たちがアルバイト先にいっぱいいて。大きな映画館だったので、アルバイトだけで100人ぐらいいて、全員学生なんです。そこがサークルみたいな感じになってすごく楽しくて。いろんな映画館に行って、観て……映画漬けみたいな感じでした。
 映画館の空間っていうのもすごく好きだったんです。そこに入るとこう、いろんなストーリーが動き出すみたいな。自分と違う世界に、そこにいるだけで……。その感覚が毎日楽しくって。

——臨場感もやっぱり違いますもんね。

 そうなんですよね。それがすごく楽しかったので、そっちの方がメインになっちゃって、サークル辞めちゃったんです(笑)。やっぱり、自分が演奏するっていうのは合わなかったみたいですね。聴くのは好きだけど、自分が演奏するのは違うかなっていう感じだったみたいです。

——聴く方だと、好きな音楽とかは?

 いわゆるJ-POPが大好きで、Mr.Children、スピッツ、エレファントカシマシ、CHAGE&ASKA、aiko、とかをひたすら聴いていました。地元のラジオ局にFM802っていうラジオ局があって、そのラジオ局が大好きで……だからラジオにハマってたかもしれない、そういえば(笑)これを言わなきゃですよね(笑)。
 中学生の頃からはFM802を聴いて、リクエストしてステッカーをもらうっていうのがすごくおしゃれで。当時、そのラジオ局から羽ばたいていくっていうアーティストさんも多くて。DREAMS COME TRUEとかミスチルとか。「自分たちの街で喋ってる人たちが」っていう……なんですかね、あの「自分たちが先に聴いて見つけたアーティストさん」みたいな(笑)。そのラジオ局のイベントにもいっぱい行きました。

「MEET THE WORLD BEAT」っていう(FM802主催の音楽フェス)、今は違うのかな……当時無料で(編注:2023年からは有料開催となった)。毎日ラジオ聴いているとわかるキーワードがあって、それを電話とかファックスで送るとチケットが当たる、みたいな。でもなかなかチケットが当たらなくて、太陽の塔のある万博公演で行われるんですけど、高校の制服のセーラー服を着たままそこまで行って、音漏れをひたすら聴いて。そしたら最後ガードのおじちゃんが「もういいよ、入りな?」みたいな感じで最後の方だけ入れてくれたりとか……(笑)もう時効だと思いますけど。
 当時はそういうのがあったりとか、試写会のイベントも行きましたし、ライブのイベントがあれば応募して……そう、それにハマりました。そうだった、そっちだった、ここで言うべき話は(笑)。

——(笑)本当にじゃあまるっきり、当時はリスナー側として。

 リスナーでしたね。

——ラジオが、音楽を得るルートの一つだったんですね。

 ほぼラジオですね、間違いなくラジオだと思います。だから自分の好きなアーティストさん自身が影響を受けたアーティストを紹介してたら、すぐTSUTAYAに行って借りて、そのアーティストの曲をひたすら聴いて。好きなアーティストさんが紹介してるアーティストさんって好きになりません? そればっかり聴いて、みたいな、その繰り返しだったかなって、思います。

——今もそういうイメージがあるんですけど、当時からいっぱいイベントに通われてたんですね。

 そんなに出かけてるって感覚はなかったんですけど、今言われたら、行ってましたね。そういえば行ってました。周りもでも、そうだったからかな。

——ブームじゃないですけど、みんな普通に行ってたんでしょうか?

 まさにブームでした。高校のとき、ラジオブームだった。だからリクエストもすごくしましたし、電話でのリクエストもけっこうあったんですよ。電話で言うじゃないですか、オペレーターの方に。それを高校の友達が聴いてて、「ちょっと!」、「あんな恥ずかしいことよく電話で言えんなー!」、「あ、聴いてたんやー!」みたいな。「読まれた読まれた」「やったやったー」。だからアーティストグッズプレゼントもみんな応募したとか、当たったとか、クラスのみんなで言ってましたね。高校3年間はけっこうそれが多かったかもしれない。一番ラジオを聴いたかもしれないです。

——ラジオとともに、じゃあ過ごして。

 いましたね。高校、大学はそうかもしれないです。

人生って本当に何があるかわからない

——そこからじゃあ、実際アナウンサーを志されるにあたっても、そこは関係があったんですか?

 そうですね。ただ、「アナウンサーになりたい」とはもう小学生のときに思ってたんですよ。走るのが遅かったとか、飛び箱飛べなかったっていう話をしたじゃないですか。小学生ぐらいのときって、クラスで走りが速い子が目立ったりとか、運動神経いい子が目立ったりってあるじゃないですか。恥ずかしがり屋さんだったので、本当にこう、影に隠れてるタイプだったんです。
 でも国語の本読みだけは大好きで、人前で読むっていうのが。国語の授業のときに、先生がみんなの前で、「すごい梨香ちゃん、本読み上手ね」って。「アナウンサーになったらいいのに」って言ってくれて、「もうこれしかない」と。だから、小学校4年生のときには間違いなく「アナウンサーになる!」って思っていました。

——すごいですね、運命的というか。

 ただその「なりたい」っていう(思い)だけで今に至ってるって感じですね。

——大学生になっても、それはずっとあったんですね。

 もうずっと。絶対なりたいからアナウンス学校にも行かなきゃなって思ってたんですけど、就職活動を開始するのが3年生のときだなって思って、3年生になったときにアナウンス学校に行きました。でも周りを見たら、本当にアナウンサーになりたい子って放送サークルに入ってたりとか、うちのアナウンサーもけっこうそういう子たちは多かったりするんですけど、ちゃんと1年生のときからアナウンス学校に行ってるとか、「ああ、そういう感じだったんだ」と思って……けっこうのんびりしてたなと(笑)思いました。「もっと早く行っておけばよかったな」って。なりたいっていうのはずっとあったんですけどね。
 読むのは好きだったので、一人でいるとき……夜、新聞をアナウンサー風に読んでみるとか、絵本を誰もいないところで読んでみるとか、そういうのはすごく楽しくて常にしていました。子供の頃から国語の授業だけはいつも「当てられないかな、本読み」って思ってました(笑)。

——アナウンサーさんとかメディア関係の就職活動って、全国飛び回るような感じだって聞くんですけど、三吉さんもそうでしたか?

 そうでした。私が就職活動をするときって、アナウンサーになりたい人が今よりもっと多くて……今ってね、あんまりアナウンサーになりたい人少ないなって思っちゃうんですけど。今日は北海道の局へ行って、明日は福岡……みたいな、そんな感じで飛び回っていました。履歴書もひたすら出して。

——そうですよね。

 もう落ちて落ちて……ダメだ~、みたいな感じです。だから、全国どこに行っても会う子たちがいっぱいいて。

——「この間もいたよね?」みたいな(笑)。

 そうそう!(笑)「昨日も福岡で会いましたね」とか言って、今日は岡山にいるみたいな。
 最初の方はもう書類で落とされちゃうので、どんどんどんどん自信がなくなっていくっていう感じでした。

——その中でも、ふくしまFMと出会ったきっかけみたいなのって何かあったんですか?

 本当に不思議で。関西だと、FMの局もそうなんですけど、局アナじゃないんですね。皆さんDJオーディションを受けて、DJ、ラジオパーソナリティになっているっていうイメージだったので、FM局で局アナがいる、局アナでお仕事できるって、あんまり詳しく調べてなかったんです。

 広島のテレビ局を受けたときに、たまたま試験で隣に座った女の子が、「明日、ふくしまFMのエントリーシート締め切りだよ」って教えてくれて、「えっ、ふくしまFM?」ってなって。その子と帰り一緒だったので、コンビニでエントリーシートをコピーさせてもらって、そのまま広島から大阪に帰って、大阪の中央郵便局でエントリーシートを書いて。
 そうだ、その前に一回家に帰って……音声を送らなきゃいけなかったので、(当時はまだ)テープだったんですけど、自分でテープでレコーダーに入れてちょっと喋って。しかもそのテープがマライア・キャリーの(笑)音源が入ってる……急いでいたので、明日(締め切り)だからって、翌朝郵便で出さなきゃって……。とりあえず「えい!!」って大急ぎで出したんです。

——それまで、じゃあ何の脈絡もなかった。

 そうです、急に。で、後から上司に訊いたら、いっぱい応募する子たちがいるわけじゃないですか。吹き込んだ音声の後にマライア・キャリーの曲が流れてくる大学生なんていなくて(笑)「なんだこいつは!?」って思ったっていう話をされました。

——(笑)それがフックになったんですかね……?

 かなりマイナスだったと思うんですけど。広島の局を受けなかったら、その子が隣にいなかったら、私はふくしまFMには入ってないので、間違いなく。たまたまその子がいたからっていう……不思議ですよね。

——不思議ですね。

 本当に。よく思い出すんです。どうして私ふくしまFMに入社させてもらって、今も仕事をさせてもらってるんだろうって思うと、「そうだ、あのとき広島に行かなかったら」「広島で隣にあの子が座らなかったら」。って思うと、やっぱり人生って本当に何があるかわからないし、いろんなところに足を運ぶことって、どう繋がるかわからないなって思います。

——本当ですね。何か違う話と混ざってたんですかね? その方も。

 アナウンサー志望の子だったので、情報交換の中で「ふくしまFM明日だよ」って教えてくれたんです。いろいろ情報交換するんですよ、「どこどこの局どうだった?」とか、「どういうこと訊かれた?」とか、「次どこどこの試験あるよね」とか。そういう話の中で、たまたま教えてくれたっていうことだったんですけど。

——その、たまたま教えられた会社に入られるわけですもんね。

 そうですね、よく……採っていただきました(笑)。

——マライア・キャリーなのに……(笑)。

 マライア・キャリー、本当に……(笑)とんでもないと思いますよ。絶対そんな人いないと思いますもん。いや……ひどいと思う(笑)。でも何も気負ってないので、それほど時間がないから、何を喋ろうとか考える間もなかったので。

——そうですよね、一件一件そうやって悩んでる余裕もないくらいですよね。

 そして、テープ音声を送るっていうのも、当時そこまでなくて。実際に試験を受けて、スタジオで音声チェックっていうのはもちろんあるんですけど、「事前に音声を送ってください」っていうのがあんまりなかったんですよ、他では。……っていう言い訳をしておきます(笑)。

——書いておきます(笑)。

「出会いがこれからの人生を大きく豊かにする」

——そこから実際アナウンサーさんとしてキャリアが始まっていって。さっきも「大きな失敗があって」っていうお話だったんですけど、始まってみて実際どうでしたか? オンエアに乗ったときの感覚だったりとか……それまでにもいっぱい勉強とか、ご苦労されたこととかはあったと思うんですけど。

 なんでしょう……自分の声が放送に乗った感動とかは全然なくって。「どうしよう、この先やっていけるのかな」「こんな喋りで、こんな声で、どうしよう」っていう方が多くて。1回目から大きなミスしてますし。

 同期アナウンサーが3人一緒に入ったんですけど、もう2人がすごくできる子たちで。自分はまだ学生から何も進歩できてないのに、2人はどんどんちゃんとしたアナウンサーになってて、どうしようって。「嫌だ、もう明日辞める」って(笑)「向いてない!」って毎日思っていました。なのに私が一番ふくしまFMに長くいるっていう……(笑)不思議ですよね。

——まして、だって大阪から一人で来られて、ですもんね。心細さとかもきっとおありでしたよね。

 そうなんですよ。私、実家がとにかく大好きで、なんなら実家を出たくないっていうタイプで。大学時代も一人暮らししたこともないし、したいと思ったこともなかったんです。でも、いきなり就職と同時に初めての一人暮らしじゃないですか。で、新人だから毎日怒られてるわけですよ。「こんなに人間って、ひとから怒られる……?」(笑)っていうくらい怒られるから、もう毎日泣いてました、自分の不甲斐なさに。一人暮らしも寂しいし。
 毎日「もう明日辞める、明日辞める」って実家に、母親に電話するんですけど、両親が「ああもう辞め辞め!」って、「明日帰ってきい、帰ってきい!」って言うんですよ。そうすると「そっか、明日帰っていいんだ」って。「じゃあもう一日だけ頑張ろう」っていう。

——さっきのランニングみたいな……。

 そうなんですよね。「じゃあもう一日だけ頑張ろう」「もう一日だけ」っていう、繰り返しですよね。
 でもそれも多分、性格によるんでしょうけど。私の友達とかは「もうちょっと頑張りなさい」って言われた方が頑張れるタイプだったから、ね。親って面白いですよね。わかってたんですかねえ。

——かもしれないってことですよね。親御さんなりの励まし方みたいなことなんですかね。

 だったんですかね。だったんだろうなと今は思うんですけど。

——たくさん大変な思いもされたとは思うんですけど、励みになったこととかは?

 そうですね、「すごく怒られて」って言いましたけど、やっぱりみんな優しいというか、先輩たちも。「怒る」ってエネルギー要るじゃないですか、すごく。それは愛情を持って言ってくれてるんだなっていうのを、自分も感じていたので。だから、ちゃんと恩返しできるように、ちゃんと喋れるようにならなきゃなっていうのは、常に思ってはいました。

 入社して2年目のときに、福島県内で活躍するいろんな分野の人を迎えるっていう1時間の番組を生放送で担当させてもらったんです。それが4年ぐらい続いたんですけど、東京からディレクターが来て、ミキサーさんもいてくれて、構成作家さんもついてるっていう。

——へえ……!

 今じゃもう考えられない(笑)当時ならではの番組だなって思います。その番組を担当させてもらったときの構成作家さんが福島の女性の方で、構成をするにあたって台本を作ってくださるんですけど、事前の取材に一緒に連れて行ってくださったんですよね。
 ゲストの方も、インテリアコーディネーターさんだったりとか、福島のミュージシャンだったりとか、飲食関係の方とかカフェの方とかいらっしゃったんですけど。その(作家の)方が「今のあなたの出会いがこれからの人生を大きく豊かにするから、いろんな人に会っていろんなところに行きなさい」っていうふうに言ってくださって、それはすごく支えになりましたね。

 行ったらやっぱり自分も、「こういう人たちが福島にいるんだ」って、すごく感動して、もっと知りたくなる。「福島すごい!」、「なんでこんなにすごいことをしてるんだろう?」と思って、もっと知りたい、もっと知りたい、もっと紹介したい、もっと見に行きたいとかイベント行きたいってなって、その時間がすごく支えになった気がします。

——じゃあ、もらった言葉通りに、いろんな人に会いに行って。

 そうですね。当時インタビューさせていただいた方とか、カフェの方は今も仲良くしてくださっていて、ふいに行っても迎えてくださるので、ありがたいなって思います。

——すごく素敵なお話ですね。リスナーさんとかの反響とかはいかがでした?

 福島のリスナーさんは本っ当に優しい。ニュースが読めないとか、噛むとか、新人でミスばっかりで……今もそんなに成長してないんですけど、そういうときも、「頑張って!」「大丈夫だよ」みたいな感じで、とても温かく番組を支えてくださったっていうのがあって。でもそれって本当に福島の人たちの優しさなのかなっていうのを思っていて。

 入社した頃っていろんなところからパーソナリティさんがふくしまFMにいらっしゃっていて。仙台で活躍されている方も毎週喋ってくださっていた方がいたんですけど、私が入社したときに「いやもう、本当に福島のリスナーさん優しいから、安心してのびのび喋ったらいいよ!」って言ってくださって。そのときは「ああ、そうなんだ」っていう感じで受け取ったんですけど、本当にそれはそうだなって。多分福島じゃなかったら即クビだったと(笑)。

——(笑)いえいえ。福島ならでは、ではないですけど、そういう温かさみたいなのがあったんですかね。

 本当に温かいし、優しいなって思います。

——確かに放送を聴いてても。

 皆さん優しいですよね、本当に。福島ならではの、それこそグルーヴみたいな……ラジオから生まれるものってあるのかなっていうのは、今もすごく感じていて。リスナーさんに感謝感謝です。


<次回>
ターニングポイントと、いま大事にしていること、そして音楽についても。
*後編は6月8日公開予定

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Flagment - インタビューマガジン
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