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【前編】旅程は「飽きるまで」。真琴の放浪、その旅路に実るもの

「農家で音楽家」。
一見なかなか出会うことのなさそうなパーソナリティだが、Flagmentではもう3人目のご登場となる。
数々インタビューをさせていただいてきた中で、話の中に頻繁にお名前が挙がる方というのが数名いらっしゃる(ぜひnote内検索をかけてみてほしい)。そのひとりが真琴さんだった。

待ち合わせでお会いした瞬間に見せてくださった笑顔と、言葉の合間合間に挟まる自虐や謙遜に、SNSやnoteで日々触れている大らかでユーモラスな人柄がリンクした。それがそのまま緩やかに流れるインタビューの模様を楽しんでいただきたい。

取材・撮影・編集:永井慎之介
取材協力:AREA559
撮影場所:福島OutLine

本当に文字通り擦り切れるぐらいまで聴いてた

——よろしくお願いします。

 いやーやべえ(笑)緊張する。

——でも何かインタビューとか、受けられたことあるっちゃありますよね?

 新聞とかね。あんまり改まってっていうのは、ないかな、でも。

——ざっくり、お生まれから辿って聞いていくようになるんですけど。お生まれから福島県で?

 そうです、福島の蓬莱ってところで。蓬莱中なので、片平里菜ちゃんの先輩。ひとつも被ってないけども(笑)。

——(笑)。ご自身が生まれた時のこととか、いわゆる幼少期ぐらいの時のことって、覚えてますか?

 今もなんですけど、虫とか好きで捕ったりはしてたかな。なんかそういうのばっか覚えてるかなあ。

——一番古い記憶ってどんなですか?

 一番古い記憶……うち片親で、お母さんだけなんですけど、なんだろうね……買い物行ってることとか、そういうことかなあ。あんまりこれっていうの、ないかもね。そんなにいい育ちでもないし(笑)って言ったらおかしいけども。
 兄ちゃんと姉ちゃんがいて、俺が一番末っ子なんですけど。姉ちゃん5歳上で、兄貴は一回り上だし、姉ちゃんとの思い出は割とあるかもしれない。兄貴はもう、俺が6歳くらいになった時には東京に行っちゃってるので、一緒に遊んだ記憶とかっていうと、そんなにないしね。

——さっき虫の話はありましたけど、どんなことが好きな幼少期でしたか?

 虫捕り好きですね。母親の実家が岩手なんですけど、夏になると毎年行ってて。まあ、めちゃくちゃいるんですよ(笑)なんで、カブトムシ、クワガタとか、やっぱ大好きだったんで。めっちゃそういうの捕りに行くのが好きだったかなあ。

——幼い時の自分と、今の自分を比べてみると、どう感じます?

 なんか、俺は本当に(笑)精神年齢もそうなんだけど、変わってないなあと思って。今現在、果樹農家もやってるんですけど、畑にいるので、カブトムシとか。とりあえず捕るもんね(笑)一週間くらい飼ってリリースするみたいなこと、未だにやったりしてますね。テンション上がるし、やっぱり。「デカっ!」とかね。

——やっぱ男の子的なテンションの上がり方はありますよね。ざっくりプロフィールというか、noteの記事(『多分駄文』)とかをさらってはきたんですけど。音楽に触れられたきっかけとしては……ブルーハーツ(THE BLUE HEARTS)でしたよね。

 そうですね。

——中学ぐらいの話です?

 えっとね、小6か中1かどっちかなんだけど、いまいち覚えてなくて。この当時、金曜日の21時からドラマがやってて。『ハイスクール落書』っていう……知らないよね?(笑)

——知らないです(笑)。

 めっちゃあの、工業高校のヤンキーの話で。先生役が斉藤由貴さんとかで、不良生徒たちの話。それのオープニングが、ブルーハーツの『TRAIN-TRAIN』で、そのオープニングがすごく良かったんだよね。ピアノで静かに入ってって、途中からバンドサウンドがダーンって……毎回鳥肌立ってた。「ブルーハーツっていうんだあ」と思って、姉に言ったら姉がテープを持ってて。で、めっちゃそれを、本当に文字通り擦り切れるぐらいまで聴いてた。

——それまでっていうのは、特に音楽で「うわ、これ!」っていうのはあまりなかったですか?

 その当時は結構、テレビ番組で歌番組が多かったので、なんとなくは観てたり。うちの姉がそれこそ観てたので、一緒に観てたぐらいで……でもそんなハマるとかでもなく、何度か見たり聞いたりしてるだけで。

——そのドラマのテーマ曲で聴いたのが、パンッて(琴線に触れた)。

 そうですねえ。めっちゃくちゃかっこいいと思った。「ブルーハーツっていうのがいるんだ」と思って。で、歌ってる映像とか観たら、なんかもう……(笑)おかしいんじゃねえかみたいな人が暴れて歌ってて。

——そっか、テーマ曲だから歌唱の姿とは別なんですよね。裏切られた感じだ。

 そうなんです。いろいろ衝撃だったよね。今もね、ザ・クロマニヨンズをやってますけど。

——ブルーハーツにハマってから、その周りの音楽とかにも(手を伸ばしてみたり)?

 その時はもうブルーハーツ一色ですね。その当時、バンドブームとかもめっちゃあって。

——ああ、そうですよね。

 テレビでも「イカ天バンド」ってのも流れてたし、あと原宿のホコ天でバンドがすごくやってて。イカ天バンド、ホコ天バンドっていて。そっからもデビューしてきた人も、わんさかいたし。中学ぐらいになってから『BANDやろうぜ』っていう雑誌とか見たりして、そっから少しずつ広がってったりして。JUN SKY WALKER(S)がいたりとかね。でもブルーハーツが一番……自分の中ではね。

——県内ネットワーク(ビジネス)の「(ビジネス)」の由来はその、JUN SKY WALKER(S)の(S)からきてるっていう。

 そう、オマージュというか(笑)パクってるんですけど。誰も気づかないですよ(笑)。

——そのぐらい今でも根強くというか。

 そうですね、やっぱ好きかな、あの世代の音楽は。なんかいまでもYouTubeとか漁って観ちゃうし、止まんないですね、当時の映像とか観始めると。

——やっぱ10代の出会いって強いですよね。

 うん、強い。で、ちゃんとあの当時って、歌詞カード見てCD聞いてたから、めっちゃ歌詞覚えてる。

——確かに。歌詞カードも楽しいですね。

 うん、楽しい。もう折り目つかないように、こう~やって(慎重に)見ちゃう(笑)。あんまり開けないでこう、オビとかもちゃんと取っといてね。

バンドのバの字もなくて、できるとも思ってなかった

——ギターもそこから、って感じでした?

 ギターが……そうですね、高校入ってから。うちの姉が友達からもらってきたギターがあって。エレキギターなんで、最初それ弾いてたんだけど……まったくもう意味わかんなくて。だけど高校入った時に、そのクラスで(ギターが)できる奴がいて、その人から習ったのが一番大きいかな。
 その当時は結構、バンドスコアっていう、バンド用の楽譜みたいなのがあって。バンドがアルバム出すと、それ用のバンドスコアが出てきて、楽器屋行けば2000円くらいでその当時売ってて。それ買ってきて、見ながら弾いたりして。最初はコード押さえられないから、ずっとギターソロだけ弾いてた(笑)口で追っかけられるぐらいのギターソロを、やってましたね。
 その時はブルーハーツよりも、ラフィンノーズ(LAUGHIN' NOSE)ってパンクバンドがいて。(ラフィンノーズは)未だ現役なんですけど、そっちの方がコピーしたかなあ。

——コピバンとかっていうところまでは?

 高校生の時はやってないですかね。

——あ、もうちょっと経ってから。

 そうなんですよ。二十歳過ぎてから。初めて組んだバンドはなぜかGLAYに。

——あれ?(笑)

 全然パンクじゃない(笑)。

——脈絡が……(笑)。

(笑)そう、「バンドやろうぜ」ってなった時に、ドラムともう一人のギターがいて、「何やる?」ってなった時にGLAYになって。「いいや、じゃあGLAYやろ、GLAY」って。とにかくバンドをやってみたいってのがあったので、GLAYになって、ボーカルとベースを探し、なんとか5人編成でやりましたね。初ライブも福島OutLineでやりました。

——ああ、その頃からアウトラインに行かれてたんですね。

 そうっすね。紺頼さんめっちゃ怖かったんですけど……大文字で書いておいてください(笑)。

——(笑)。それもギターとして?

 ギターですね、HISASHIさん側のギターで。高校の時にギター始めて、ブルーハーツとかラフィンノーズとかパンクロック好きだったんだけど、結構ハードロック、メタルみたいなのを知り始めて、洋楽の。そんなのも聴いたり、あと、それでいて初めて生で行ったライブは氷室京介さんとかだったりして。それは姉に連れられて、高校3年の時ですね。結構、色々聴くようにはなってたんだよね。

——90年代……前半、半ばぐらい? なんとなくですけど90年代って、80年代もですけど、音楽めっちゃ楽しかった時代だろうなあっていう漠然としたイメージはあって。

 ああ、うん。いろんなバンド出てきた時だったと思う。今もね、結構根強く頑張ってますけどね。60歳とか50代後半とかの人たちで、「まだあるんだこのバンド」みたいな時たまにあるし。

——確かに。それとはまた全然関係ないところでも構わないんですけど、中学~高校あたりのことで、印象に残ってることはありますか?

 中学の時はとにかく部活、卓球部やってて。全然弱かったんですけど、でも結構、好きでやってたかな、卓球は。全然強くなかったですけど……学校自体も。高校ではもうやってなくて、商業高校だったんですけど、南福島にスケート場……その当時アミューズパークっていうのがあって、ずっと3年間そのスケート場でバイトしてて、それがめっちゃ楽しかった。スケートは一切やってなくて、時給600円くらいだったと思う(笑)。

——全然違いますねえ。

(600円で)やってましたねえ。

——どんなことが楽しかったですか?

 そこ、大学生とかもいっぱいいて、一緒に遊び連れてってもらったり。一個上の、別の高校の人めっちゃ好きになったり(笑)そんなのもあったりして、面白かったかな。あとスケート場はね、自分の好きなCD持って行って、かけられたので。

——ああ、いいですね。

 パンクばっかかけてました(笑)。

——(笑)バイトそのものだけじゃなくて、そこからいろんな人と顔合わせて。

 そうですね、それ楽しかったですね。今でもちょっと繋がってる人もいるし。

——ああ、いいですねえ。さっき20歳くらいでバンドをやられてっていうことだったんですけど、高校卒業後はどんな風に過ごされてたんですか?

 は、普通に就職してたんですよ。最初入った会社が、区画線工事っていって……道路工事なんだけど、横断歩道とかを引く仕事、あと標識立てたり(をする会社)。普通に就職して……2年くらいやったかな。学校で就職させてもらって、学校求人みたいなやつで。まだ高卒で働くのも普通くらいだったから。

——特にじゃあ「進学したいなあ」の気持ちとかも。

 全くなくて。

——とりあえず働きながら、音楽も続けて。

 家で弾いてるくらいで、全然バンドのバの字もなくて、できるとも思ってなかったし……音楽は聴いてたけど。

——じゃあ、その当時の真琴さんが今の真琴さん見たら、相当びっくりするでしょうね。

 うん、多分怒られると思うんだけど(笑)

——怒られる(笑)。

「こんなアラフィフは嫌だ」って(笑)。

なんかよくわかんないけどすごい

——さっきおっしゃったのはコピバンでしたけど、オリジナルでもやられました?

 そのGLAYのバンドが、ちょっとずつオリジナルをやるようになって。「まるでGLAY」みたいな曲を(笑)やってたりして。まあでもそのバンドも解散し、その後別のバンドで俺はベースを弾くことになるんですけど。それもオリジナルで、3ピースのバンドで。割と激しめにやってて。

——それがベースだったのは、何かあったんですか?

「ベースでやってみない?」って言われて。ドラムとギター、ボーカルが(もう既に)いたので、「じゃあやりたい」。なんかバンドやりたいし続けたいしって思って、それでやって。いきなりオリジナルだったし、それもそれで楽しくて。そんなに難しい曲ではなかったので。

——それで初めてベース弾いた感じですか?

 そうですね。

——怖くないですか……?(笑)

(笑)怖くって。「こんなに力要るのか」と思ったし、重いし。左手よりも右手が辛い(ピッキング)。

——(笑)確かに、ありますね。

 でもね、格好つけて(ストラップのポジション)下げて弾いてたりしてた。絶対高い方がいいよね(笑)。

——ああ~、でもやっぱりパンクだと「下に、下に」ですよね。

 下に下げたいよね。(そのバンドで)一応3枚くらいCDも出すし。

——おお~。結構じゃあ力入れてというか。

 そうだね……言ってもね、月1とか月2とかだったけど、ライブ本数としては。

——何年くらいやられて?

 4、5年はやってたね。

——20代……中頃とか。

 うん、30手前くらいまでやってたかな。このバンドやってる途中で、弾き語りライブがあって。

——ああ、それ(バンド)とは別で?

 うん。そのバンドやってる最中に。
 二本松出身のパンクバンドのボーカルの人で、遠藤ミチロウさんって人がいて。ザ・スターリンっていうバンドのボーカル。その人が、弾き語りでその当時全国回ってて、観に行ったとこから始まって。とにかく衝撃を受けて……アコースティックライブっていうから、どんな感じか想像がつかなくて行ったんだけど。もう、ゆずとかのイメージしかないから、俺はね。(けれど)めっちゃ激しかったし……「なんかよくわかんないけどすごい」みたいなところがあって。
 それはそれで衝撃受けて帰ったんだけども、後日そこの店でまたアコースティックのライブ……ミチロウさんが来るってなった時に、「前座を募集してる」みたいなこと言ってて、「とにかく俺なんかやるから出させてください」って言って、それで出たのが始まり。

——ああ、バンドでは出れないから。

 そう。ライブバーみたいなところで……郡山のTHE LAST WALTZっていう店があって、ちょっと前まであったところじゃないところにあった時。今のシャープナイン(郡山CLUB♯9)のアーケードあるじゃない、あそこの端っこの方にあったときがあって。それが最初の店なんだけど。地下に店があって、そう、そこなんですよ。

——じゃあ福島だけじゃなくて、郡山とかにも遊びに来られてたんですね。

 そうですね、行ってましたね。その当時は「郡山のライブの方がかっけえ」みたいなところがあって……出てるバンドとか。やっぱパンクバンドとかのライブが多いんだよね、その当時ね。

——ああ、そんなイメージありますね。

 お客さんもみんなパンクスが集まるというか、格好もすごいし、いいなあと思って。そこで友達ができるとかはあんまりなかったんだけど、「怖いな」と思って(笑)。

——(笑)。パンクの激しさを持つアコースティックっていうのはどういう演奏だったんでしょう?

 ミチロウさん? もうね、スターリンの曲もやってたし、その当時アコースティックで……説明が難しい(笑)なんていうのかなあ? あとミチロウさんは文学的な詩も書いたりするので、「なんかよくわかんないけどすごい」みたいなのがすごくあって。本当衝撃だったんだよね。

——アコースティックとしての真琴さんの起点になっているのはじゃあ。

 そうです、ミチロウさん。始めるきっかけがそれだったし。

——それが「衰退羞恥心」。

 そうですね。初めにやろうと思ったのが「衰退羞恥心」っていう名前で、もうひとりヴァイオリンの女の子がいて。その人もミチロウさん好きだったので……その人はでも、もっともっとバリバリのクラシックの人で。「とりあえず混ざってくれない?」みたいなこと言って、「とりあえず一回やろう」ってことになって。2ヶ月前くらいから、週1くらいでスタジオ入って、無理やり2曲だけオリジナル作って、もう1曲はカバーやって、3曲だけやるっていうライブをして。

——アコギとヴァイオリンですもんね……なかなか聞かない組み合わせですよね。

 そういうのがかっこいいと思ってたもんね(笑)しかも、ハードオフ行ったらエレキヴァイオリンが売ってて、そのエレキヴァイオリンの人はあやぽんっていうんだけど、「あやぽん、エレキヴァイオリン売ってたぜ」って言ったら、買ってきてて。で、俺のギターのエフェクターとかをかましたりして(笑)ちょっと面白い感じになる。「そういうのも入れよう」とか言って……ちょっとアンダーグラウンドにかぶれてるみたいなところもあって。

——なかなか前衛的で。

 そうそう、前衛的とかをかっこいいと思ってた(笑)「全然分かられなくていい」とか思ってたけど、今じゃ考えられない。

——それは共演というか、オープニングアクトみたいな感じになるんだと思いますけど……ミチロウさんとの会話というか、もらった言葉とかもありましたか?

「よかったよ」って言ってくれて。バンドとかでもさ、メジャーの人の前座みたいなのやったことはその当時もあったんだけど、だいたいは別に観てないし。ホテルでゆっくりしてて、時間になったら来て……みたいなことが結構大半だったから。「ミチロウさん観てねえだろう」と思って、割と当日までそんな緊張してなかったわけ。そしたら普通に観てて、後ろの方で。「ええ~、プロの人なのに観てる」と思って。「よかったよ、ありがとう」って言ってくれて。「ええ〜!」って。

——ええ~、嬉しいですね。

 嬉しかったっすねえ。なんなら嘘でも嬉しいです。

——嘘でも言ってくれようとする気持ちがありますもんね。

 で、その後バンドのベースと並行してアコースティック、月1とかでやるようになってって、少しずつ。そうしてるうちに、今度また福島市にミチロウさんが来たときに、また一緒にやらせてもらったり。俺が(ミチロウさんを)すごい好きなのを知ってたから、いわきのソニック(club SONIC iwaki)とかも一緒に組んでくれて……っていうのがあって、ちょいちょい一緒にやらせてもらえる機会はあった。俺の車で白河まで一緒に移動したりとかして。いい思い出ですね。亡くなっちゃったけどねえ。

——夢がありますね。じゃあ、どっちもコンスタントに続けて?

 そうなんですけど、俺はもうアコースティックの方が面白くなってしまって、ベースの方をやめちゃうんですよ、その後。

——そこからもう、じゃあ完全に衰退羞恥心として。

 そうですね、今ほどはやってなかったですけどね、ライブとかも。

——じゃあ、増えてきてるんですね。

 うん。一時期ほどではないけども、月4〜5本はやってるかな。ツアーってなればね、10本とかいっちゃうし。

安斎果樹園じゃないところでバイトしてたら、俺はやってないかも

——今の果樹園のお仕事っていうのは、最初からやってたわけではないんですもんね。

 そうですね、自分の家の果樹園とかではなくて。自分が31歳くらいの時に勤めてた工場があって、派遣なんですけど6~7年勤めてて。二本松に、今もあるんだけど。そこが派遣切りになって、そっからなんですよね。
 安斎果樹園ことDEFROCKターキンに会って、ターキンの家でちょっとバイトさせてもらって。「あ、なんか楽しいな」って感じで、ただただ楽しいなあって。工場自体は三交代で、朝から行くのと昼から行くのと、あと夜中から行くやつの三交代を4勤1休で休み挟んで回していくみたいなやつで。なんかね、忙しくて結構。本当、盆と正月も関係ないから、夜勤年越しとかもあったし。

——結構大変ですね。

 そうですね。何百人もいるとこだったし。特にね、勤めてたときはそんなに不満もなかったんだけどね。有給使ってライブやったり、普通にしてたし。でもターキンの家行ったらもう、朝はしっかり8時から17時で、10時と15時とお昼はきっちり休憩があって、2~3人一緒の仕事で、雨が強いと休みになったりして。「なんかめっちゃいい、楽しい!」とか思って。
 なんだかんだ1年くらいバイトさせてもらって、でもそうこうしてるうちに、ターキンの家の近くで、さくらんぼ畑をやめるって畑が出てきて……旦那さんがお亡くなりになってしまって。で、「そんなのがあるんです」っていう話になって、「そういうのって、俺が借りたりすることはできるんですかね?」って聞いたら、「できないことはない」みたいなところから……農協とかにも、新規で農業を始める人をサポートする課があるんですよ。それがあったり、その当時ターキンのお父さんが、その地区の農業委員会の委員長で、そういうやり方を知ってて。で、もうなんとか無理やり就農して、なんとか今に至ってます。14年目かな、2010年からなんで。

——実際それまでの経験っていったら、じゃあ1年で(就農)ってことですか?

 そうなんですよね。なかなか……。

——それこそパンクですよね(笑)。

(笑)はい。それも今考えると考えらんないな。いろいろ知ってしまうと、「いや絶対(会社員として)働いた方がいい」って、今になって少しそう思うもんね。「普通にこれ就職した方がいいんじゃねーの」って思う。体ひとつでいって、給料もらえる方がいいかなとかって思う時もたまにあるんだけど、(農業の)唯一の利点は一人の仕事っていうところなんですよ。

——ターキンさんも「音楽やるのにはうってつけの仕事だ」とは言ってました(笑)。

(笑)はい。だから、もしかしたら安斎果樹園じゃないところでバイトしてたら、俺は(今ごろ農業は)やってないかもしれない。

——ああ、ターキンさんだからっていう。

 そうそうそう。ターキン、不思議だもんね。いつやってんだろう……どんだけ東京行くのよ(笑)しかも自分のライブじゃないやつで(笑)。

——(笑)でも無理矢理(就農)っておっしゃってましたけど、始められるっちゃられるんですね。

 まあ本当、いろんな方の手助けがあって。今でも安斎果樹園には本当にお世話になってますし。

<次回>
音楽と農業、それぞれに迫った試練の話。そして、浮かんでいる「やりたいこと」。
*後編は4月22日公開予定

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Flagment - インタビューマガジン
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