【後編】分解と追究の先にあるもの——「奏者」を呼び寄せる、金戸俊悟のサウンドワーク
上手く弾けてない、けどどうしていいかわかんない
——進学後はどうでした? そこからまた新しい音楽経験とかもありました?
進学して東京出て、ジャズ研に入ったのね。最初は別に入るつもりなかったんやけど、でもそこで「ジャズってなんやろ?」「どういう音楽なんやろ?」と思って入ったのがジャズ研なんやけど、2つジャズ研があって。1つが普通のジャズ研究会、もう1つが、2部モダンジャズ研究会っていうところがあって、俺はその2部モダンジャズ研究会に入ったのね。で、入ってみたらジャズをやらないっていう(笑)。ジャズやらずに、ファンクとかソウルとかR&Bとか、そういうブラックミュージック。なんでそうなったかっていったら、ジャズ難しいからそうなったんやけど(笑)。
——名前負けしちゃってる(笑)。
そうそう(笑)。で、結局ジャズは全然やらなかったけど、でもそういうファンクとかソウルとか「こんなかっこいい音楽あるんや」っていうのもそこで知って。
で、週に1回セッションがあるのね。みんな集まってセッションする。そこでソウルとかファンクのスタンダードをやったり、まあ本当に何も決めずにジャムセッションしたりとか。その週1回のセッションっていうのが、まあ結構きつい子もいて。弾けないと楽しくない、アドリブできないと楽しくないから、どんどん辞めてくのね。最初20人ぐらいいた同期が、結局最後残ったのは、演奏してたのは3〜4人ぐらいだったな。でもそれがすごい楽しくて、自分には。で、外のセッションとかにも顔出すようになって。卒業後も……卒業後はすぐ行かなくなったか(笑)なんか営業の場みたいになってるのがつらくて。
そのセッションとかR&Bとかブラックミュージックっていうのが、一つ大きな音楽として自分の中ではあったけど、もう一つ、路上に出始めて。
路上で、アコギをインストで弾くようになったのね。まあバイトしたくなかったからっていうのもあるけど(笑)東京でそうやってアコギインストで「投げ銭お願いします」みたいな感じでやってると、意外と稼げて。それで渋谷とか新宿、池袋、吉祥寺とかでやってたかな。
そこで知り合ったミュージシャンの一人に、高松豪っていう人がいて。
俺の3個上かな、男性のシンガーソングライターで。その人と知り合って、「ちょっと一緒にやってみないか」。で、そこからそのシンガーソングライターのサポートとしてギターを弾くっていうことをやり始めた。それが大学3年生ぐらいかな。だからみんな就活始めるぐらいの時に「サポートをやらないか」って言われて、その人の音楽がものすごい好きだったからめちゃめちゃ嬉しくて「絶対やる」って。「就活いいや」って(笑)就職したくない逃げみたいなのも多分あったと思うけど、それで初めてそうやって、ずっと同じ人のサポートをする。
1年ぐらいやってたかな。アコギ弾き語りの男性シンガーソングライターなんやけど、そこに対して自分がエレキギター、あとベースとドラムがいる。それが難しくて……伴奏考えるのが。今までブラックミュージックかギターインストとかしかやってこなかったから、ポップスのバッキングが全くわかんないのよ。一応考えてスタジオ持ってくんやけど、もうなんか全然「あーだめだめだめ」みたいな。悔しくて。上手く弾けてないっていうのもなんとなくわかってた、けどどうしていいかわかんないみたいな。そこで「あ、J-POPって深いんだな」と思って。「ちゃんとたくさんいろんな音楽聴こう」と思って、そこからJ-POP勉強して。
結局でも、理由は本人に聞いてみないとよくわかんないからアレだけど、1年でサポートは自然に終わって。高松豪はその後メジャーデビューするんだけどね。だから彼の人生もすごい面白いけど。
「この曲をCDにするとき、俺にアレンジさせて」
でもそのサポートを1年間やってた中で知り合った人、ミュージシャンもたくさんいて、その中の一人に濱田竜司っていう、ピアニスト、キーボーディストなんやけど、今はミュージカルの音楽監督したりとかしてる、その濱田竜司と出会って。濱ちゃんは尚美ミュージックカレッジ出身で、尚美の先生の演奏補佐みたいなのもしてて。それきっかけで、尚美の学生さんとか尚美出身のミュージシャンとたくさん知り合うことになって、その中の一人がsayuta。
で、sayutaのサポートするようになり、他にもちょいちょいシンガーソングライターのことをサポートしたりっていうので、もう完全にブラックミュージックから、そっちに移った。苦手だったJ-POPに。
sayutaとライブするようになって、リハーサルの中で「まだ出来上がってない曲あるんですけど、聴いてもらってもいいですか?」みたいなのがあって、「後半が決まらない」と。「こういうのあるよ」「こういうのあるよ」って、コード進行提案したりとか、構成を提案したりとかしていくうちに、「あ、自分結構引き出しあるな」って。色々できるかもと思って、sayutaに「この曲をCDにするとき、俺にアレンジさせて」。『Outro.』っていう曲なんやけど、『Outro.』をCDにするときはアレンジさせてと。
それが、アレンジャーとしてキャリアをちゃんとスタートさせたきっかけかな。2015年くらい、アレンジャーとしてちゃんと作品を残していくっていうふうになったのはその辺りかな。
——高松豪バンドでの経験が生きてってことですよね。
そうだね。あと意外やなって思ったのは、ビートルズをめちゃめちゃ聴いてたから、ビートルズからもらってるものもかなりあるなって思う。結局、10代で聴いた音楽って強いなって思うやん。
——そうですね。
やっぱそれはあるんやなとは思うね。
——かつ、大学のジャズ研での経験も含めて引き出しが出来上がって。
それこそ、ラジオで『さよならひまわり』がちょっと意外なアレンジだったって言ってくれたやん。あれは自分の中では70年代のソウルなの。
ちょっと跳ねてんのか跳ねてないのか……でも心地よい横揺れというか。あれは完全にそういう知識というか経験から生まれたアレンジかな。あれにコンガを入れるっていう発想とかは、多分そこから来てるかもね。ベースのラインとかも結構そういうの意識してて。モータウンじゃないけど、ソウルを意識したベースラインにしてたりとか、今回の『Melody Line -BLUE-』はブラックミュージックの要素は結構あるかもしれないね。
『マチガイサガシ』、あれのベースラインとかもディスコやから、ファンクから派生した音楽とかって考えると、うん。
『こんな夜のためなら』とか、ベースラインは結構ファンキーやし。
——めっちゃ楽しいですよね、あの1枚。
ありがとうございます(笑)。昨日、さゆちゃんの実家でお母さんと一緒に聴いてて、「いやあ、改めて聴いてもいい曲やな……」(笑)。
——(笑)幸せ空間じゃないですか。
うん。本当に各曲しっかりコンセプトがあるから、聴いてて飽きないなって。自分が作ったから当たり前かもしれんけど。各曲本当に色が違うから。
そこに「人」をちゃんと宿す
まあでも、アレンジ始めたての頃は本当に大変やったな。ギターしか弾けんかったから、ベースは本当ちょっと弾けるぐらい。でもその時も「まあギターより弦2本少ないだけやろ」ぐらいの感じ。弾き方とかも全然めちゃくちゃやったと思うし、ピアノに至っては全く弾けなかった。もう全然両手で弾けない、片手でも全然弾けない、コードが何かも全然わかんないみたいな。そこから始めてたから、とにかく作るのに時間がかかるし、なにより何も知らない。
ギターですら高松豪バンドでボロカスに言われながら弾いたのに、アレンジャーってなったらピアノ考えなあかん、ドラムのパターンも考える、ベースも弾けんとダメ、さらにストリングスとかホーンとか管楽器とか入ってくるからもう……(笑)何がなんだか。
——(笑)じゃあほんと、やりながらって感じですよね。
やりながらやったなあ。もう、聞いて「これかっこいい」と思ったらすぐ耳コピする。「こういうフレーズ使うんか」みたいな。「じゃあここで鳴ってるコードこれ何やろ」みたいな感じで。それもだから「仕組みを知りたい」というところに繋がるんかもしれんけど。どんどんその、紐解いていくっていう感じで最初は。
まあ今でも勉強しながらではあるけど、最初は本当に大変だったな。
1年でアレンジできる限界が、5曲。ピアノ弾くのにめちゃめちゃ時間がかかるから。
管楽器とかも、「らしいフレーズ」じゃないと急にダサい感じ、「急になんか打ち込み入ってきた〜」ってなる。ストリングスもね、そうなりたくなかったから……でもまあ今振り返って聞くと、まだまだできてなかったなって思う。例えば『ドラマチックポップ』、sayutaの最初のアルバムとか聞くと「まだまだやなあ」と思う。
——まあでも、どっかでキャリアをスタートさせて、積んでいかないと手に入らないとか、気づかないものって絶対ありますもんね。
確かに、始めないとキャリアはスタートしないもんね。始めてから準備期間なんて言ってたら何も始まらないよね。
——永久に準備期間になっちゃう(笑)。
そう、まさにそれ。何もない状態で走り出したって感じ。
でも面白いのが、『ドラマチックポップ』出来上がって「こんなん出来たよ」ってお父さんに聞かせたん。すごい喜んでくれたんやけど、言われてハッと気づいたのと「チッ」って(笑)思ったのが、「ギターのフレーズでコピーしたいと思うフレーズが一個もなかった」みたいに言われて。「確かになあ」。「俊悟がこれ、10代でこのアルバム聴いて、ギターコピーしたいと思うか?」みたいな。「うわ、厳しい〜」と思ったけど、もともと厳しかった、お父さんは特に。「おお、きついこと言うな」と思って、そこから結構その「コピーしたいと思うようなフレーズ」を、ギターはもちろんしたいけど、全パートそういうふうであるべきやって考えて。
ベースにしてもピアノにしても、ギターにしてもストリングスにしても、その奏者が弾きたいと思うフレーズを必ず入れるっていうか、それで構成するっていうふうにそこで変えたかな。
——確かに、作るのは打ち込みで作るかもしれないけど、その「奏者」はいますもんね。
うん。そこに「人」をちゃんと宿すというか。プレイヤーを一人一人置く。で、そのプレイヤー像まで考えてアレンジしてるかな。「こういう人に弾いて欲しい」みたいな。それが著名なプレイヤー・ミュージシャン……例えばスティーブ・ガッドに叩いてほしいとか、そういう場合もあるし、全然もっと具現化されてない抽象的な人だったり。っていうのをシミュレーションして作ったりはしてるな。
こんないい場所があるんやったら、住んだ方がいいな
——2015、6年ぐらいからキャリアが始まって、ざっくり10年ぐらい。ターニングポイントみたいなのはあったりしましたか?
ターニングポイントは、高松豪との出会いが一つ大きかったなとは思う。あとは……やっぱこっちに来るきっかけかな。コロナがあったよね。演奏の仕事が本当にパタッとなくなって。
それまでアレンジ半分、演奏(サポート)半分みたいな感じで。サポートの現場が自分にとって、プロモーションじゃないけど、宣伝の場でもあったわけ。ギターを頑張って弾いてれば、いろんなシンガーソングライターだったりミュージシャンと知り合うことができて、そこで「じゃあ次の音源お願いします」みたいな。それができなくなった。まあ仕事はすごい減ったけど、逆に言うと制作に集中しようっていう切り替えにもなったかな。
で、sayutaともリモートで一緒に曲作ったりとか。コンペやってたから……まあ今もやろうと思えば全然できるけど、ちょっと時間がなくて、(当時は)コンペすごい出してて。二人で作ってて、それやってくうちに「東京おる意味あんまないな」って。家賃高いし、部屋狭いし。
あとはMANAMIさんの存在もやっぱ大きいかな。福島・郡山で、音楽だけで食っていけるんだっていうのをやっぱ体現されてる方だから、その姿を見てて本当に、「どこに住むかじゃないな」っていうのは強く思った。MANAMIさんとの仕事も結構頂いてたし、「もう俺これ福島行った方がいいんじゃね?」「その方ができること増えそう」って思った。
ちょいちょい郡山にはライブで来てて、その中でPEAK ACTIONのジョンさんとの出会いもやっぱ大きくて。いつ来てもジョンさんは、「迎えてくれる」。こんないい場所があるんやったら、住んだ方がいいなって。
住み始めて……こっち引っ越してきて最初のライブ、引っ越した次の日ぐらいやったかな確か、9月11日とかやったと思うな。ピーク来て「おはようございます」って言ったらジョンさんが「ようこそ~!」って(笑)「すごい人が来てくれた~!」って。ちょっと買いかぶりすぎじゃねえのとか思いながら(笑)でもすごい本当に喜んでくれて。本当に来てよかったなと思う。
——(時間がきてしまい)じゃあ強制的に……(笑)締めに入りたいと思うんですけど、何か僕のほうで聞きそびれていることとかがもしあったら。
うーん。でも最近、作曲をちゃんとするようになって思うのは、「シンガーソングライターすげーな」っていう。作曲する人みんなすごいなと思う。一応「作編曲家」って名乗ってやってるけど、作曲するときと編曲するとき全然違うなって思うのね。
作曲って、自由やん。何を作ってもいいやん、何もないから。だから、その自由の中から制限を作ってく作業だなって思う。
例えばテーマを一つ決める。「夏」を題材にする。それだけで制限が生まれてる。「夏」のどの部分を切り取るか……夕方なのか、海なのか、誰かと一緒にいるのか。どんどん制限を生んで作っていく作業だなって。自由の中から制限を生む作業が、作曲。
編曲はその逆だなって思う。歌詞、メロ、コードも決まってる制限の中で、いかに自由になるか、を作るのが編曲の仕事だなって最近考えるようになって。だからその「自由である」「自由を作る」っていうことが、さっき言った奏者が生まれるか生まれないか(に通じている)。例えばベースでルートだけ弾くにしても、そのルートの弾き方は1個じゃないと思うのよね。
——うんうん。
いろんな弾き方あると思うから、その「ルートしか弾かない」っていう制限の中で、自分がいかに自由になるか。そこで「人」が生まれるなっていう感じは(している)。
——聞いていてとっても楽しかったです。ありがとうございました!