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【前編】玉坂涼太に微笑む、大きな「信頼」と少しの「運」。彼が生き、彼を生かすフィールドとは

昨日放送となったラジオで話題に上がっていた通り……あるいは、もとよりなんとなくお察しいただいていた通り、
前回お話を伺ったhpnさんの新しいMVを手がけられたという話の流れから、玉坂涼太さんに滑らかにオファーをお送りした。
ご快諾こそ嬉しかったが、その実ちょっとの面識だけで、あまりしっかりとした交流はなかった。この取材でもって色々な面を知れればと思っていたが、下調べの時点でその刺激は非常に豊かだった。

近年の福島のクリエイティブシーンに鮮やかに躍り出ている彼の胸中と、我々が身を置く「街の音楽シーン」、その交差上にはきっと新しい視点や価値観が開けてくるに違いない。

取材・撮影・編集:永井慎之介
取材協力:ふくしまFM

*本記事は、ふくしまFM「FUKU-SPACE」9月14日放送の「つながる音楽」のコーナーと連動しています。あわせてぜひお聞きください。
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消去法で合唱部に入って、そこで多分音楽好きに

——早速ですが、お生まれから。

 平成8年11月16日ですね。今度27歳です。え、おいくつなんですか? ながいさんって。

——94年生まれなんで、2個上ですね。今度29歳になります。

 なるほど。

——で、お話なんですけど、幼少の頃から……。

 おお〜……! 覚えてるかな……?

——ライフヒストリーっていうのでやってるもんで、人生を追っかける形で。

 えー、どの辺からですか? 幼稚園、小学生ぐらいですか?

——逆にじゃあ、一番古い記憶って?

 あんまないんですよね。幼稚園……小学生ぐらいだったら、 まあ、あるかなっていう感じですかね。小学生の頃……。

——どんな子でした?

 幼少期は結構、野球とかやってました。野球、ドッジボール、水泳、剣道……とか習ってて。意外とそと少年だったんですけど。えっと、小学校何年生だったかな。2年か3年ぐらいの時に……足を骨折したんですよ、遠足で。右足かな? 複雑骨折しちゃって。2ヶ月ぐらいギブスをしてて、習ってたスポーツも全部やめたんですね。それをきっかけに。多分それが小2だと思うんですけど、そっからですね……パソコン少年になりました(笑)。

——(笑)もうガラッと。

 ガラッと。その2ヶ月の間にパソコンの楽しさを覚えてしまい……パソコン少年になって。

——何もやることなくて、みたいな。

 そうですね。学校にも行くけど、帰ってきたらパソコンつけるか『ファイナルファンタジーⅦ』をやるかみたいな(笑)生活をしてて。っていう感じですかね。

——元々運動系は、好きは好きだった?

 上手かったかどうかはさておき、体を動かすのは結構好きな少年でした、昔は。

——でも、パッタリとやめちゃったんですね。

 そうですね。

——そのぐらい引き込まれてしまった?

 ちょっとですね、某『メイプルストーリー』というゲームが流行っていた時期で(笑)その辺りだったと思うんですけど。それを始めて……パソコンというか、インターネットゲームの沼に落ちたっていう感じなんですよね。
 当時めちゃくちゃ新鮮だったのが、「友達と遊ぶ」って対面で遊ぶとか、キャッチボールをするとかっていうのだったのに、チャットで遊べるっていうのが衝撃的で。それで多分のめり込んじゃったんですよね。

——これまでとのギャップで。

 そうなんですよ。で、中学校に入ってもずっとネットゲームを続けていて。で、中学校、部活全部あの……帰宅部なしで、部活絶対やりなさいみたいなやつで。で、もう運動をする気になれなくて、文化部に入ろうと思ってたんですよ。その時にあったのが、パソコン部と、美術部と、合唱部だけだったんですね。美術はその時全然興味がないからいいや。パソコンはパソコン部入らなくてもできるからいいや。で、合唱部に入ったんですよ。

——今のお話聞いてると、パソコン部入る流れかなって。

 そうなんですよ。パソコン、別に部活でやらなくても家でできるしな、みたいな感じで。消去法で合唱部に入って、そこで多分音楽好きになるんですよね。

——一番最初は、流行とか、バンドとかとはまた全然違う接点で。

 そうなんですよ。全然クラシックみたいなやつをやっててですね。

——歌には苦手意識とかは全然なくて?

 歌うということに、何か関心を持ったことは特になくて。好きとか嫌いとかもなく、消去法で入ったっていう感じなんですけど。

——「まあ、できるんじゃね?」みたいな。

「別に歌うだけでしょ」みたいな感じだったと思います、多分当時は。その時、合唱部に男の子が2人しかいないっていう、結構寂しい状況で。それが良かったのか、合唱部の顧問の先生がすごい……(笑)辞めてほしくなかったのか分からないですけど、すごいめっちゃ面倒を見てくれてて。それで多分、音楽に引き込まれていって。わかんないなりにピアノを叩いてみたりとか……その後も楽しい思い出を積み上げていったのが多分、音楽系の話で言うと根底にあるかなっていう。

多分その頃から、まとめたりとか、何かを作るとか

——歌から入ったけど、そこから派生して楽器とかもちょっと触ってみようかなと。

 そうですね。合唱をやってて、中2の終わりぐらいにギターを始めるんですね。

——それも、それこそ楽器触ってみようかなの流れで。

 っていう流れだとかっこいいんですけど、『けいおん!』です(笑)。ちょうどあの頃『けいおん!』が放送始まって、けいおん!キッズだったんですね。ギター持ってやってみよう、みたいな。

——合唱は合唱でやりつつですもんね。部活では何か思い出とかありますか?

 合唱部の時は、中学はそんなにあれだったんですけど、高校に入ってもそのまま合唱を続けてて。明成高校(福島県立福島明成高等学校)というところに入ったんですけど。合唱部、全然強くなくて……だったんですけど、その時に入ってきた人たちが結構やる気ある感じの人たちで、1年目はそんなに目立った功績は残せず、ただ2年目に県大会に出場ができて、3年目は(声楽アンサンブルコンテスト)全国大会に出て、銅賞まで入るっていう……なんかすごい奇跡、映画みたいな登り詰め方をしていって。

——全国トップ3ってこと?

 各賞で何校かは入るんですけど、そこに入ったっていうのが一番思い出ですかね。

——サクセスストーリーだ〜。

 サクセスストーリーですね(笑)。

——そのぐらいじゃあみんな、楽しくというか熱中して。

 そうですね。仲間運が良かったというか。でもその頃には、今の活動につながるのか分からないんですけど……歌う側ももちろんやるんですけど、学生指揮者っていう、先生がいないときにみんなの前に立って指揮を振ったり「音程悪いよ」とかって指導するところに来てて。多分その頃から、まとめたりとか、何かを作るとか……なんて言うんですかね? それとはまた違うのかな。

——バンマス的な?

 バンマスみたいな方面に行ってたっていう感じでしたね。

——全然苦手意識とかもなく。

 ですね。楽しかったです。楽譜とか当時、全然読めなくて、ずっと耳で聞いてやってたんですよ。「楽譜読めないけど、音程が悪いのが分かるから、お前やれ」みたいな感じで、学生指揮者になってて。だから指導するときに、ピアノ弾けないからピアノ弾ける人呼んで、「ここ弾いて」って言って、正解の音を鳴らしてもらって、上手くできない人たちに「これ」とかって言って、みたいな。ちょっと変な指導者みたいな感じでしたね。

——でも感覚が物を言うときってありますもんね。面白いなあ。軽音的には、バンド組んだりはしましたか?

 バンド、組んでました。高校は軽音部なかったんで、大学に入って、それこそ(福島)学院大学に入って、軽音部に入ってバンド組みました。

——高校の時は、ギター弾くは弾くけど……。

 けど、好きな曲の練習してみるぐらいで留まっていた。それこそ『けいおん!』の曲、めちゃくちゃ弾きましたね。めっちゃくちゃ弾いた。

——俺もちょっとやってましたね。みんな通りますよね。

 みんな通りますね。『けいおん!』と『涼宮ハルヒ〜』とか。『God knows...』とか流行ってて、「弾けるわけないでしょ……」とか思いながらやってた。

——黄金期ですね。

 黄金期ですね〜。アニメ黄金期。

——大学に入ってから、バンドとかは。

 バンド本格的に始めたのは大学の時ですね。

——大学、まず選ぶときってどんな気持ちで選んだんですか?

 これがですね、全く面白くないんですけど、就職したくなくて(笑)。まず進学っていう選択肢を選び、家から近いところがいいなっていうので福島大学か学院大学かっていうので、家から近い方が学院大学だったのでそっちにしたっていう、とんでもない選び方をしたんですけど。

——まあ福大、アクセスがアレですしね……。

 そうなんですよ。

——TripDaysのボーカル(さとうしょう)とかって、面識あったり?

 あ、挨拶するくらいなんですけど。同じ学科だったみたいですけど、被ってないから……「いる」みたいな(笑)存在は知ってるみたいな。

——「そうらしいな」みたいな。学院の話、それこそこないだしてくれて。

 うんうんうん。そっすよね。(自分は)とりあえず学院行くかみたいな、そんな感じでした。

運だけで生きてきてるみたいなとこはちょっとあるかも

——そこでサークル入って。

 サークルでバンドをやってて。

大学時代の軽音部、バンド時代の写真

 で、当時ですね、自分で言うのもアレなんですが、かなり弾けてた方みたいで。初心者の人たちが多いから、バンドが逆に組めなかったんですよ。

——逆に組めない……?

「いや、ちょっと玉坂くんは上手すぎて、申し訳ない」みたいな空気がすごいあって。「そっかあ……」みたいな感じで、あんまり組めなくて。それを見かねた顧問の先生がバンドに入れてくれるっていうので、木村先生っていう人なんですけど、その人が情報ビジネス科の先生でもあり軽音部の顧問の先生でもあり、自分自身もバンドをやっていてみたいな感じで。顧問と、OBのドラムのおじさんと、現役学生、俺ともう一人っていうかなり変なバンドがありまして(笑)。

——新入生の中ではかなり渋いバンドが一つ。

 そうですね(笑)って感じでした。

——そんなレベルでみんなとは差が。

 耳コピができるっていうのが……。

——そうか、耳がいいから。

 が、当時「ヤバい人」みたいな映りをしていたみたいで。「別にできる人いっぱいいるよ……?」って思ってたんですけど、「ちょっと畏れ多いです」みたいな感じになっちゃってたんで。

——初心者というか、そのサークルに入って楽器を始めるみたいな人が圧倒的に多かった。

 多かったですね。

——確かに……声をかけづらい気持ちもあるかもしれない。申し訳なさなのかな?

 どうなんでしょうね。指導されたくないとかなんじゃないですか? 多分。

——だんだんでも、難なくバンド組めるようになっていきました?

 いや。結局、自分がやってたのはその先生のバンドだけで、あとは学祭とかの時に足りないパートで入るみたいな感じの活動しか、サークルの中ではしてなくて。
 その後、大学のOBの人たちとどんどん繋がりだして、そこでイディオットっていうバンドを組んだんですね。外バンみたいな感じで、そんなに長くやらなかったんですけど。外国語で「バカ」っていう意味なんですけど、そのバンドでオリジナルの活動をやって、大学時代はそんな感じでしたね。

——あんまりサークルの中で何かをやるっていうよりは、ちょっと一個別の枠に。

 ちょっと別でしたね。

大学時代の軽音部、バンド時代の写真

——それはそれで楽しいのはあると思いますけどね。でもそれこそ、技術的に学院で勉強できたこと(学業面)とかもありました?

 やっぱり、(さとう)しょうくんの読んだんですけど、本当に先生が強烈だったので。完全に師匠だと思っているんですけど、デザインの考え方を教えてもらったっていうのが一番大きいですかね。具体的に言うと何だろうな。まあラジオの中でも言った「見る側の人の視点を持てるようになった」というか。自分が作りたいものは別にみんな求めてなかったりするよね、みたいなやつとか。そういうのを刷り込まれたっていうのが一番大きいですかね。

——「アートとデザインの違い」ってやつですね。

 そうですね。そんな感じですね。

——脈々と教えられていることなのか……。

 そうですね。木村信綱先生っていうんですけど、木村一派が(笑)結構できている、各地で成してきている感じですね。

——(笑)。じゃあ一応土台作りみたいな感じの、振り返ってみるとそういう時代だったんですかね。

 そうですね。幼少期からやってきたことと、社会人になってやったことと、フリーになって音楽でやったことが全部つながって、映像でめっちゃ活きてるみたいな感じですね。だから確かに土台作りだったかもしれないですね。パソコンが得意になって、今やパソコン使わないことなんてないし、音楽はもちろん合唱が土台になってて。デザインの勉強が一番、生き方の土台になってるって感じですかね。

——そこでじゃあそういう時間を過ごして、今度雑誌の編集社に勤めるようになるわけじゃないですか。それは何か志があってのことなのか……。

 いや〜(笑)これもですね、大した理由じゃないんですけど。

——かもなあ〜とは(思いつつ聞いてみた)……(笑)。

(笑)そうなんですよ。もう大学を選んだ理由がアレな感じなんですけど、デザインの授業の時に、印刷会社の社長が教えに来てくれてて、外部講師で。その社長と仲良くなって入ったっていう感じなんですけど。
 ただそのクリエイティブなことができるとか、何かを伝える、情報を扱って誰かに何かを伝えるみたいなことはやりたいと思ってたので、運よくマッチしたっていう、ただそれだけの話なんですけど。もちろんそういう業界に行こうとは思っててっていう感じですね。

——本当にじゃあタイミングというか、運が。

 運だけで生きてきてるみたいなとこはちょっとあるかもしれない(笑)。

——まあでも巡ってくるもんですからね、何かあったんでしょうね。

 そうですね……ちょっと、熱い話ができなくて申し訳ないんですが。

——いやいやいや(笑)。

若いうちだしやってみようかなって

——どんな仕事をしてたかとかも聞いていいんでしょうか。

 もちろん。印刷会社に、そもそもは日進堂印刷所っていうところに入社したんですけど、そこの関連会社がエス・シー・シーっていう、雑誌を作ってる会社で。こっちの印刷会社に入ったんですけども、新卒でいきなり出向で、雑誌の編集社の営業部みたいなところに入って、雑誌の広告枠を売るっていう仕事と。あとはイベントの企画をしたりとか、市とか県のコンペに応募する企画を作るみたいなことをやったりとかしてましたね。

出版社時代の写真

——そこで広告、PRのこととか、それこそ伝える部分とかは培ったというか。

 そうですね。大学時代に種を植えて、社会人時代に水あげをして、フリーランスになって芽が出たみたいなイメージですかね。

——芽が出た感覚ってやっぱあるもんです?

 やっぱり映像やるようになってから相当、感覚がありますね。「うわ芽出てるな〜!」って感じする。

——いいなあ!(笑)すると、辞めちゃったのは独立志向があって?

 そうですね。実際辞めるきっかけになったのは、体調を崩して入院しちゃったっていうのが一番のきっかけなんですけど。ただそれは本当にきっかけに過ぎなくて、自分でやってみたいっていうのはずっとあったし、なんかすごい生意気な新入社員だったので(笑)上司が言ってることよりも俺が言ってることの方が絶対うまくいくとかって、思ってる節が結構あって。「絶対こうやった方がいいだろうな」って思ってて、それを言ってもなかなか通らないし……っていうのを3年くらいやってすごい感じてしまって。若いうちだしやってみようかなっていうので、入院しちゃったっていうきっかけもありつつ辞めてみたっていう感じですかね。

 あと、大学時代デザインの勉強をしていて、情報ビジネス科ってすごく、街と一緒に企画をやるっていうことが多くて。企業さんと学生が一緒にやるっていうので、すごい色々プロジェクトがあったんですけど。あんまり講義とかに出ずそっちをいっぱいやってて、すごい楽しいなと思ってて。そのある段階から、木村先生に企業とのやり取りを一人で任されるっていうタイミングが来て。社会人とのやり取りなんてしたことなかったんで、「先生の携帯貸すから電話かけてみ」みたいに言われて。何も分からずやってみるみたいな。

大学時代、プロジェクトや街の事業に勤しんでいた頃の写真

 っていう経験があって、それで多分、一人でやってみたい願望は強くなってたと思うし、社会に出て、入社してからも「いや絶対こっちの方がいいよな」みたいな自我をずっと持ち続けていたんじゃないかと思うんですね。その経験がかなりでかいかなと。

——自分一人でやるって、それなりにやっぱり大変さはあると思いますけど、そういう通したいものが通らないみたいなところで言うと、そこはすごくいいのかもしれないですね。

 そうですね。失業保険をもらいながら、「歌ってみた」とかすごい流行ってたので歌の編集・ミックスをしたりとか、そういうところを「暇だしやってみるか」みたいな感じで、とりあえず手始めにやってたんですね。そしたら、「なんか、意外とお願いされるな」と思って。ずっとやってたら「あ、開業しないといけない」というところまで来て、フリーになったっていう感じなんですよ。

——一番いいじゃないですか!

(笑)言うだけはかっこいいですけど、作業泥沼ですからね。ず〜っとこうやってピッチ補正してるみたいな。

——「歌ってみた」スタートだったんですね。

 でした、最初は。

——「開業しなきゃいけなくなった」って言ってみたいですもんね。

 そんなすごいアレじゃないんですけど(笑)。

——でもそこからだんだん、例えばそれこそ地底人じゃないですけど、生のというか、地元でやってる人たちとの絡みも出てくるわけじゃないですか。そういう絡みって元々その時はありましたか?

 地元バンドは普通にお客さんで見てたって感じですかね。SkyRideさんとか、Stand☆Jr.さんとか。あの時代はお客さんで楽しんでたっていう感じですね。

——じゃあその時からどっかですれ違ってたかもしれないですねえ。

 可能性はあります。ていうかzanpanさんも見てましたよ、あの川辺のあたりで撮ってるMVありますよね?

——ありましたね(『光の街』/現在は公開終了)。最初期ですね、2014年とか。

 最初の頃見てたっす、客で。

——わあ〜。なんか申し訳ない……。

 なんで!?(笑)見てました見てました。

——じゃあそれが今、こういう形で再会するっていうのはなかなかエモいですね。

 そうですねえ。


<次回>
人と人との繋がりから芽吹く信頼と、その先に見据える使命とは。
*後編は9月22日公開予定

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