見出し画像

【前編】フロアをひとつにする、ビートの絵筆。nerd music clubのライフワークを紐解く。

私がnerd music clubさんと初めてお会いしたのは、たまたま郡山PEAK ACTIONの店先を通りかかったある日のこと。
共通の友人でありアコースティックデュオTAKAHIKOのヨコヤマユウヤさんと、ドリンクカップを揺らし談笑していたところだった。
はじめましてのご挨拶からまもなく、「Flagmentを愛読している」と打ち明けてくださったnerdさん。
正直な話、それが嬉しくてお声掛けしてしまったというのが、今回のインタビューのきっかけだ。

nerdさんのフィールドは、私にとってもFlagmentにとっても未知の世界。
お話を伺うにあたり、心惹かれない理由はなかった。
ライフヒストリーには意外なことに私との共通点も多く、たちまち親近感をおぼえた一方で、ビートメイカーとしてのお話はやはりとても新鮮な内容ばかりで、取材時間に限りがあることが大変惜しまれるインタビューとなった。

取材・撮影・編集:永井慎之介
取材協力:ふくしまFM

*本記事は、ふくしまFM「FUKU-SPACE」11月16日放送の「つながる音楽」のコーナーと連動しています。あわせてぜひお聞きください。
ラジオとのコラボについての詳細はこちら


何時間でも一人遊びできる感じの子供

——たくさん(Flagment)お読みいただいていると思うので、ざっくりどんな感じかっていうのは、多分ご存知だと思うんですけど。お生まれから今にかけて、流れるように伺っていく感じになるんですが……さっきも(ラジオ収録前にも)伺いましたけど、お生まれは郡山で。

 そうですね、郡山です。進学と就職で仙台に住んでいたこともあるんですけど、生まれは郡山ですね。

——幼少期のころって、今のご自身と比べてそんなに変わらないですか? それともまたちょっと違う感じでしたか?

 どうですかね……高校ぐらいのときに、闇落ちするんですけど(笑)小・中は、割とクラスの中心にいたような感じの子供で。ちょっと今とは違うかもしれないですね。

——結構明るいというか、活発というか。

 そうですね。

——当時好きだったものとか楽しかったこととか、印象に残ってることってありますか?

 割と活発で、友達と遊ぶのも好きだったんですけど、それと同じぐらい、結構一人でも何時間でも一人遊びできる感じの子供で。あんまり頻繁に最新のゲームとか買ってもらえる感じの家じゃなかったんで、一人で漫画描いたりとか、自分でゲーム作ったりとか、そういうの好きでやってた時間が多かったような気がします。

——私も漫画描いてました!

 本当ですか!

——友達に見せたり、見せてなかったときもありますけど……見せてました?

 いや、見せてないですね。

——完全に自分だけの。

 完全に自分だけでしたね。好きでしたね。

——おお〜。絵は今も描いたりされるんですか?

 絵はほとんど描いてないですけど、好きです、今でも。いわゆるデザイン的なやつとかもすごく好きですね。そのころの名残なのか。

——あ、じゃあアートワークとかも作ったりされます?

 そうですね、やってます。

——みんなともワイワイするし、一方でマイワールドも持っているし……で、そこから先はマイワールドの方が大きくなっていく?

 そうですね。

——部活とかって、どんなことやってたかって聞いてもいいですか?

 中学のときはテニス部に入ってましたね。高校は入ってないです。闇落ちしてたんで(笑)。

——(笑)結構スポーツもお好きだったんですか?

 そうですね。上手かは別にして、嫌いではないです。

——この辺りでは、まだ音楽との出会いとかルーツみたいなのは?

 音楽っていうか、一番最初はギターを始めたんですけど。それは結構めちゃくちゃ早くて、たぶん小6から中1になるぐらいのときなんですよ。めちゃくちゃ上手い友達がいて、その人は今も東京で音楽やってるみたいなんですけど。その友達の影響で、そのころにはギターは練習してましたね。

——その友達はもう小6~中1の時点で上手かったってことですか。

 めちゃくちゃ上手かった。世代じゃないんですけど、その当時はX JAPANとかの曲を完コピしてて。それに憧れてギター買いましたね。全然上手くならなかったですけどね。

——たまに小学校とかでクラシックギターの授業があったりとかってのもありますけど、nerdさんはもう完全に友達の影響で、個人的に。

 そうですね。

——ただギターはそのとき限りというか。

 そこからいろいろバンドやったりとかもしてたんですけど、そこまですごくのめり込んでっていう感じではなかったんです。

サンプリングでこんなかっこいい音楽作れるんだ

——闇落ちについて訊いてもいいですか……?

 聞きますか?(笑)闇落ちは……これあんまりひとに言っても共感してもらえないんですけど、中学ぐらいまですごい楽しかったんですよ。友達とかも自然とできてく感じで。小~中のころって、「友達になりましょうよ」とかなくても、名前知らなくてもとりあえず一緒に遊んだら友達、みたいな空気あるじゃないですか。そんな中でいざ高校、日高(日本大学東北高等学校)なんですけど、大きいじゃないですか。周りに知ってる人誰もいなくて。そしたら……なんていうんですかね、「友達の作り方わかんねえ」ってなって、そこから心閉ざしがちになっちゃった感じですね。

——あのですね……めっちゃわかります。

 わかります!?(笑)本当ですか?

——まさにそうです。高校に入ったら友達の作り方がわかんなくなったタイプです。まさしく。

 ながいせんせもあれですね、だいぶ闇属性……(笑)。

——(笑)そうですね。

 良くないのが、多分そこで「友達になりましょうよ」っていければよかったんですけど、ちょっと斜に構えてた自分もいたりとかして、そのまま3年間過ぎて……って感じですね。

——斜に構えちゃいますよね。「まあまあ、いなきゃいないで」みたいな(笑)。

 そうそうそうそう(笑)。

——そこもまたわかります(笑)。高校のときは、何か楽しみにしてたものとか、何をして過ごしてたとかは?

 高校卒業してからも、本当に趣味みたいな感じで、バンド組んでスタジオ入ったりとか。ただ高校ぐらいからは、徐々にそのペースも減っていって……ずっと音楽聴いてましたね。それが本当に唯一ぐらいの楽しみだったかもしれません。そこで本当にいろんな音楽聴いて、それこそ流行ってるやつだけじゃなくて、ロック、ジャズ、パンク、ソウルとか、そういうところまでもひたすら聴きまくって、それが結構今のサンプリングに生きてる感じですかね。

——なるほど。一気に裾野が広がって。衝撃を受けた音楽とかってありましたか?

 実際、サンプリングの手法を使ったヒップホップをちゃんと意識して聴いたのもそのころで、Nujabesっていうすごい偉大な日本人のビートメイカーがいるんですけど、その人を聴いたときにやっぱ衝撃は受けましたね。「サンプリングでこんなかっこいい音楽作れるんだ」と思って。そこが結構、原体験みたいになってるかもしれないです。

——それってどんな……って、言葉でお聞きできますか? 一番は耳で聞くべきだとは思うんですが。

 僕の作ってるやつって、結構広い意味だとローファイヒップホップっていう、ちょっと聞き流せるようなヒップホップっていうジャンルに当てはまるところがあると思うんですけど、Nujabesはそれの元を作った人。
 ヒップホップって、いわゆるチェケラッチョ的な、いかついお兄さんたちがやってる……っていうところから、すごくオシャレでジャジーで、カフェのBGMでかけてても全然違和感がないっていうような、そういうビートも元々昔からあったはあったんですけど、それをメインストリームに押し上げた人かなと。そういう人だと思います。

——めっちゃ初歩的な質問でお恥ずかしいんですけど、ローファイがあればハイファイもあるんですか?

「ハイファイヒップホップ」っていうのは多分聞いたことないですけど、なんていうんでしょう。いわゆる流行ってるもの、90年代とか2000年代ってサンプリングじゃなくて打ち込みで作った、音の綺麗なヒップホップが割とメインであって。そこに対するカウンターカルチャーみたいなので、あえて音を汚くしたヒップホップで、聴き流せる感じのBGMにもできるっていうので台頭してきたような気がします。

——そっか。だからあえて「ローファイ」っていう言葉を用いてるってことなんですね。

「死ぬ前にもっとガッツリ活動したいな」と思って

——バンドのときは……ギターをやられてたんですか?

 一番長かったのはベースなんですよ。ながいせんせの前で恥ずかしいですが……。

——とんでもないです(笑)。何系というか……コピーバンドですか?

 そうですね。本当に人前でできないようなオリジナルとかは作ったこともあったんですけど、世代的にやってたのはメロコアとか、そういう感じですね。ルート弾きしかできないベーシストでした(笑)。

——いやいや(笑)それじゃあ、高校の次の進学で仙台に……何らかの勉強をしに行かれてたんですか?

 福祉系の学校に通っていて。すごい、楽しかったですね。

——そこで音楽的にも新しい刺激とかあったりしましたか?

 やっぱり初めて地元を離れて……郡山に比べると都会じゃないですか。なので、より色んな音楽も聴いてたし、仙台発のアーティストさんとかもたくさんいたんで、そういうとこで刺激は受けましたね。

——ちょっと前後しちゃってあれなんですけど、ライブハウスとの接点ってどこら辺で?

 僕、元々お客さんとしてめちゃくちゃ観に行ってたんですよ、(郡山)PEAK ACTIONとか。ただ、ライブをやりだしたのって実は結構最近で。

——あ、へえー!

 そうなんですよ。ずっと、作ってる期間はめちゃくちゃ長いんですけど、下手したら本当に中学とかぐらいから、ずっと一人で作ったりとかしてて。誰に聞かすわけでもなくだったんですけど、でも「死ぬ前にもっとガッツリ活動したいな」と思って。そこからライブをやり始めたんで、割と最近です。

——中学ぐらいから作ってたってことは、それこそ高校のときも、たくさん曲を聴きながらたくさん曲も作って。インプットとアウトプットを。

 そうですね。めちゃくちゃ作ってました。

——仙台でもライブハウス、お客さんとして行かれてました?

 そうですね。ライブハウス、クラブもですかね。

——そうか、ライブハウスだけじゃないですもんね、遊びに行かれるエリアとしては。仙台には、そしたら2年間ですか?

 最終的には結構いましたね。何年ぐらいいたのかな。7〜8年いたんじゃないですかね。

——あ、じゃあ卒業後も。

 卒業後も、そうですね。

——向こうで就職されて。福祉のお仕事で?

 学校卒業してからは、上手く社会に馴染めなくて……これだけ聞くとヤバい奴みたいですけどね(笑)。

——(笑)いやいやいや。

 仕事を転々としながら、って感じでしたね。

——その間も、音楽には親しみながら。

 そうですね。作るのは本当にやめたときなかったですね。ずっと作ってますね。

——それを本当に、披露というかパフォーマンスという形にしたのは最近、という感じなんですね。

 そうですね。2019年とか2020年とか、多分そのくらいですかね。

——ここ4〜5年ぐらいの話ですか!

 そうですね。

もう踏み出して全然よかったんだな

——「死ぬ前に〜」っていうお話がありましたけど、それは何か火をつけるものが、きっかけがあったりとかしたんですか?

 仙台でうまく生活を営めなくて、「ちょっとこれヤバいな」と思って、郡山に帰ってきて仕事をしたんですけど。
 仕事をしてたらしてたで、ある程度の年齢になってくると、なんかこう……色々と社会的なポジションみたいなのがある程度見えてきたりとか、「このまま年老いていくのかな」っていう、なんていうんですか……アレが(笑)見えてきたりとかがあって。「このままじゃ嫌だな」と思って、やっぱ音楽がとにかくずっと好きでずっと作ってたんで、最後にやりたいなって思った感じですかね。

——逆にそれまでって、誰かに聞かせるタイミングとかっていうのは……全くなかったってわけじゃないとは思いますが。

 そうですね。学校のイベントのBGMを作ったりとか、本当に近しいミュージシャンの人とかラッパーの人とかにビートをあげたりとかはしてましたね。

——ビートを誰かに提供するっていう活動っていうのはどのあたりから始まったんですか。

 そこも、2019〜2020年。このnerd music clubっていう名前を名乗り始めてからですね。おおやけにやるようになったのは。

——え、それまではもうじゃあ本当に、内なる趣味というか。誰のためでもなく、ただ作っていったものが蓄積していくだけだったんですね。

 そうですそうです、本当にそんな感じです。

——その蓄積の中から今、世に出ていってるものもあったりするんですか。

 ありますあります。一番最初に出したアルバムとかは結構、ずっと作り貯めしたやつの中からっていうのもありましたね。

——どのぐらいあるんでしょう、その蓄積は。

 ストックは多分……形になってないもの、いわゆるメモ程度みたいなものを含めると……めちゃくちゃあると思います。数字では言えないぐらいかもしれない。

——圧巻ですね……。お客さんとしての立場かもしれないですし、作る立場としてかもしれないですけど、さっきもおっしゃってたいわゆる同業というか、その界隈での出会いとか繋がりみたいなのってありましたか。

 当時はなかったかなあ……? 結局作ってるのを表に出せなかったのは、ずっと自信が持てるようにならなくて、「このくらい作る人いっぱいいるしな」みたいな感じで、一歩踏み出す勇気がなくて。ライブハウスとかクラブとか観に行って、「めちゃくちゃこの人好きだな」って思っても、「自分なんかが……」みたいに思って、繋がっていけなかった。今思うと、「もう踏み出して全然よかったんだな」って思いますね。

——確かに、「上見たらキリない」みたいなのありますよね。多分上見ちゃいけないんでしょうね。

 もうほんとそう思いますよ。

——そしたら結構、音楽的なお話を訊こうと思ったら、2019〜20年以前よりも、それ以降の方が色濃い感じになりますか。

 そうですね。そこからがめちゃくちゃ濃かったですね、ここ数年も。

——活動として最初に始めたのは、制作・提供とライブ、どっちの方が先でしたか?

 最初は制作で。自分で作ったビートをSNSにアップしたのがスタートですね。「nerd music club」っていう名前で。それが思ったよりすごく反響をいただけて、そこから色んなことが広まっていった感じです。

——その一本のアップロードで。

 もし自分と同じように内側に留まっている人がいたら、「やった方がいいよ」って言いたいです。

——そうですよね。それをきっかけにじゃあ、「ちょっと頼むよ」みたいなお話が来て、それとともにじゃあライブもやってみようかなと?

 そうですね。その流れで……サンプラーを使って、今ライブでやっているような、既存のビートにエフェクトをかけてライブするっていうのも、これもあげてたんですよ、SNS上に。そこからですね、お誘いいただいてっていう機会もあったので。

——ステージの上でやってみないかっていう。一番最初は、場所はどこだったんですか?

 いっちばん最初はC-moon(福島市)だったんですよ。それは、社会人になってからも趣味でバンドとかもやったりしてて、その繋がりで当初バンドでブッキングが来たんですけど、「今やってないんですよ」「今こういうことやってます」って言ったら、「じゃあそれで」って(笑)。そのあとは、県外が多かったですね。埼玉とか東京とか。

——お誘いする人が「ここでやりますから」っていうので、そこに「じゃあ行きます」っていう感じですか?

 そうですね。ブッキングいただいてっていう感じですね。

——前、越谷(EASY GOINGS)でやられてましたもんね。

 あ、めちゃくちゃ楽しかったです。

——イージーはもうzanpan的にも縁深いというか、めっちゃ流してもらって。

 あの日も流れてましたよ、zanpanがずっと(笑)。


<次回>
ステージに足を踏み入れ、生まれた変化と展望。
*後編は11月22日更新予定

いいなと思ったら応援しよう!

Flagment - インタビューマガジン
記事に頂いたチップは、全額をその記事の語り手の方へお渡しさせて頂きます。