「メモの魔力」1000問ノック奮闘記② 〜夢について[小学校]〜
前田裕二さん著『メモの魔力』の巻末付録である、「自分を知るための【自己分析1000問】」(通称:1000問ノック)に取り組んでいます。
ここでは、1000問ノックの中で気づいた「自分自身についてのこと」を、「自分と会話する一人言」のようにアウトプットしていきます。
noteは更新していなかったのですが、前回から小学校・中学校時代を終え、1月7日時点で、高校時代まできております。
まとめて書いてしまおうかなと思いましたが、せっかく取り組んでいることなので、しっかりフェーズごとに区切って、アウトプットしていこうと思っています。
小学校時代を振り返って気づいたことも、色々とありました。
給食との出会いで、僕は大きく食に対する価値観が変わりました。
食べたいものしか食べてこなかった、食べたくないものは拒んできた、そんな幼少期と比べて、小学校時代は拒むことができない状況に追い込まれることになります。
それが給食。
だけど、給食との出会いで、僕は食べることの楽しみを知ることができた。
「豚肉の柳川風」という献立がありました。
当時まだ小学校低学年くらいの僕にとっては、「たまご、やさい、肉がごっちゃごちゃに混ぜられ、なぜか細切りのかまぼこまで入っている、やけに色鮮やかで意味のわからないもの」を目の当たりにして、とても美味しそうには見えなかったのを覚えています。(好きな方がいたらすみません笑)
迫りくる「ごちそうさま」の時間。完食できないと、どこかムシの居所が悪い気持ちになる。それに、ちゃんと食べないと午後はお腹が空いてしまう。
食べたくなくても食べざるを得ない。だから食べてみる。
すると、食べてみたら美味しかった。
一口、また一口と食べていくうちに、「食べたことのない美味しさと出会い、嬉しさを感じる自分」が、少しずつそこに形成されていきました。
これは、幼少期の時のように、好きなものだけ食べていく、それだけでは得ることのできない経験でした。給食時間という時間の制約と、用意された献立という与えられた条件。その中で僕は完食することを選び、口に運んだ。
「制約の理論」がそこにあった。だから僕は、「新しい美味しさに出会う」という成功体験を得ることができたのです。
25歳になった今でも、食べたことないものをみると、まず食べてみたい!という気持ちが湧き出ます。それは、この給食での体験があったからなのだろうなと気づきました。
給食に限らず、小学校時代の僕は、チャレンジ精神などというものは皆無だった気がします。
いかに安定し、平凡で普通の人生を歩むか。それが、小学校時代の自分が、最も大切にしていた価値観であり、普通であることが夢でした。
それは、両親が最も大事にしている「当たり前が当たり前であることの幸せ」という価値観を、僕の人生においても大事にすること。それが両親の願いでもあり、幸せでもあり、僕自身の幸せでもあると思うからです。
幼少期時代と比べると、まるで180度ひっくり返ったような価値観です。
幼稚園卒園と同時に引っ越し、友達ゼロからのスタートだった小学校時代。
中休みや昼休みは、友達と遊んだ記憶なんてなく、1人で学校の中を徘徊していた記憶の方が強く残っています。
幼少期のように、輪の中心になることがなくなった。そんな時期が続いたから、「特別な存在になるなんてやめてしまえ、いっそ平凡に生きたほうがいいや」という価値観の軸を強くしていったんだと思います。
だけど、心の奥底にはどこかで、認められたい、特別な存在になりたい、輪の中心でありたいという欲求がふつふつと煮えたぎっていたような気がします。
小学校高学年の頃になってようやく、学級委員に手をあげたり、学芸会の主役を勝ち取りにいったり(勝ち取ることはできなかった)できるようになっていきました。
そこから、中学生・高校生と、どんどんアクティブさが復活してくることになるんですけどねえ。
ただ、小学生時代はやっぱり、
「普通でありたい」ことと、「特別でありたい」ということ。
この2つの巨大な価値観の軸が僕の中にそびえ立ち始めた時期だったなと思います。
…いやあ、かなり赤裸々にさらけ出したかもしれない…!
まあ、日記風にまとめているということでいいかなと笑