追いかけてシドニー③
窓から木漏れ日が差し込み、南半球の鳥たちがとぎれとぎれにさえずる。早く起きすぎた私はひとまずトムの両親に挨拶しようと階下へ降りた。広く整ったキッチンには、細部まで見事な模様が彫られたテーブルと椅子がどっしりと待ち構えている。居間の北側にはバルコニーがあり、入り組んだ海岸線にせき止められて海は朝の光をチラチラと反射する。
「グッモーニン」と居間のふたりに声をかける。トム父もトム母も笑顔で「よく来たね」と言ってくれた。トム父は何度か日本に行ったことがあって、いろいろな寺社の庭を見てまわった経験をおもしろおかしく語ってくれた。コンサートのためだけに来て、2泊して日本に帰ります、というとトム父はおどけた顔で "Are you mad?" と言った。イエス! 狂ってます。JAPAN-狂撃-SPECIAL。そのとおりである。しかも見たいバンドなにひとつとして見れなかったし。
二日酔いのトムが起きてきて、私に朝食を作ってくれた。トーストベーコン卵アボカドそしてベジマイトを塗りたくる! うまい、うまいよトム。ありがとうトム。ゆいも起きてきた。ゆいとトム母は巨大なジグゾーパズルに取り掛かった。昨日からはじめているらしい。「めっちゃいい天気だな」トムをさそってバルコニーに出た。 晴天の下でおたがいパンツ一丁になる。水のせせらぎ、日光の頼もしさ。なんていい家だろう。安心しきった私たちはとりとめのない話をした。トムは昨日の賭けやら飲みやらで結構な大金を使ってしまったらしい(私の酒やメシもすべて出してくれた)。オーストラリアは物価が高いから、ちょっと外食するだけで1万2万と飛んでいくんだと。日本で店を経営しているトムにとっても円安はひでえもの。「もうアカンわ!」と笑い話にしつつもちょっとだけへこんでいるのがわかる。そのときの私はもう底が抜けちまったAIR-LINEだったので「金なんて使い切れないで死ぬんだからバンバン使っとこうや、トムちゃん」なんてことを言う。「ほんまやな、かおる」そう、おれたちに後悔はない。かわりに行動がある。もっというと、移動だけがすべてだ。流れる景色が好きなんだ。どこにだっていってやる。徒労に終わっても移動したことだけは残るのだ。屋内にもどり、私もジグソーパズルに混ぜてもらった。ちょちょいと何ピースかはめて、さてこの陽気のもと、街へ繰り出そう。もう昼だった。
トムとゆいとかおる、3人の陽気なビーサンギャングがシドニーを闊歩する!
フェリーが大事な市民の足になっていて、ハンターズヒルからセントラルまでわずか3ドルくらいで乗れる。向こう岸から白い船体が近づいてきて、エンジンがとまったかと思うとゴウンゴウンと乗降口が開く。中から現れたたくましいおばちゃん船員が港の地面に突き出した杭にぐるぐるとロープを巻いて船を係留した。さっそく吹きさらしの二階席に陣取り海風を全身に受けつつ出発。空と海の境界を目に焼き付ける。
青い。どこまでも濃い水の色。そして自然が多い。ビルと森林は両立するのである。あちこちに糸を垂らす釣り人。その糸がひとつ船体にからまって釣り竿からぶちんと切れた。驚いた若者のあんぐりと空いた口。「あほやな、あいつ」とトム。そうこうしているうちにかの有名なオペラハウスに着いた。ドラゴンボールの悟空みたいなシルエットだな、っていうとゆいが笑った。トムにとっても20年ぶりくらいらしくてちょっとテンションがあがっていた。京都人が清水寺行くくらいの感じだろう。歴史ある建物の歴史あるトイレで歴史ある小便をしてマーキング完了。かおるここにあり。
その後も歩いて歩いてニュータウンの方へ。「高円寺っぽいところやで。かおる好きやろ」たしかに、若者が多く時々パンクスもいる。レコード屋や理容店、古着屋がそこかしこ。世界中から人が集まっているので、多彩なスタイルの店がある。そんな中、われわれは本格中華を夕食とし、こんどは私が払い、せめてもの感謝の意を表す。酒場をハシゴしてハシゴして、気づいたらそこではじめて会ったアルゼンチン人移民の若者らとビリヤード勝負がはじまっていた。ビギナーズラックでホールイン! かと思えば次はスカしてしまい手玉は微動だにせず。トムの落ち着いたプレイでなんとか勝利。
終フェリーはとっくに過ぎてしまったがバスは深夜まである。バス停まで歩く道すがら、「かおる、めっちゃこの街に馴染んでたな。ここの人みたいやった」とゆい。「ほんまにすごいな、かおる。才能やな」とトム。そうか? ちょっとうれしい。肩を揺さぶって歩く歩く。
ちょうどやってきた506番のバスに乗り込む。停留所で降りていく乗客は、みながみな大きな声で "Thank you!" と言う。悪そうなやつも年寄りも。ステキな習慣だな。なにより大声ってのがいい。
帰り着いて荷物をまとめる。明日は早朝に空港へ向かわねばならない。さっさと寝支度をすましてシャワーを浴びようとするとトムが入って来た。ちょっと来てや。私が寝泊まりしている隣の部屋、それはトムが若い頃を過ごした部屋だった。古い教科書、CDプレイヤー、サーフボードや釣り具とともに、巨大段ボールにぶちこまれた大量のCDがあった。もういらんから持って帰ってくれ、とトム。EYE HATE GOD, IN FLAMES, BLOOD DUSTERをオーストラリア土産として持ち帰ることにした。
別れの日。早朝に準備を整え、最後にジグソーを2、3ピースはめ、トムがトム母の車を借りて私を空港まで送ってくれた。もちろんゆいも一緒。日本ですぐまた会おうな。ふたりとも本当にありがとう。
そうやって帰国した。関空のセブンイレブンですぐさま缶ビールとピースを買って飲んで吸って飲み干した。物価は段違いに安かった。アムステルダムドというバンドをやっている滝口に会いになんばへ向かう道中、今回の連続危機はなぜ起こったのかゆっくり考えた。「予測のつかないことが起こって、これだから旅はやめられまへんなあ」で済ませたくなかった。限られた日数のなか、ネットで飛行機や電車の時間を調べて効率よく無謀な移動をする、最近そういうスタイルになってきていた自分へのしっぺ返しだったのではないか。3日や4日旅行して帰る、まあそれはいいもんだよ、実際、でも、そうやって忙しくちょこまか動いて、移動だけがすべてだってそれは事実だけど、そうだとしたら3日や4日ぽっちの移動で「すべて」感が満たされるはずもない。そうじゃなくて、予定なんて考えもしなかった、その時に思い付きで行き先を決めた、今日も明日も明後日もその次も選択のち移動。移動、移動。守るものなんてなんにもねえ。私は、いやおれはそういう状態をもう一度味わいたいんじゃないか。やっぱりそう思う。あの頃は……、なんて死んでもいいたくないから、じゃあ黙ってこれからやるしかない。いつだってやるしかない。でも同時に、そんな自由さもすべてが新鮮だったからこそ味わえたんじゃないかとも思う。どこにいっても新しく、誰としゃべっても刺激的で、知らないことが山とあった。そういう状態だからこそ、半年も1年も旅をしていられた。それは事実だろう。いいやもううるせえ。新鮮さがなくなってからが勝負だ。結婚とかだってそうなんだろ。大きな感動がなくなって、それでもなお続けてしまう。それでもなお出かけてしまう。だって、感動なんかなくたってそれ自体がやりたいことだから。つらくてもやっちゃうんだ。どうしようもねえんだ。衝動。予測のつかないことが起こって、これだから旅も人生もやめられまへんなあ。あ、言っちゃった。まあ今度仕事辞めたら無責任な旅に出よう。10年に一度くらいでちょうどいいだろう。
旅の締めくくり、大国町の滝口ハウスでBUCK-TICKを大音量で流す深夜2時。痺れた体すぐに楽になるさ。変な旅だった。