瀬戸内ハードコア自転車行③
9月11日(土)
雨上がりの路上、午前7時高松。本日は曇りのようで自転車旅には最適。
ではあるが、そろそろ尻の皮が剥がれそうなほど痛い。全身の筋肉も悲鳴を上げている。
当初は松山市まで足を延ばして風流な温泉街で浴衣美人でも眺めようかと企んでいたが、高松―松山間は150キロもあり、さらに桜三里と呼ばれる峠を越えなければならない。しまなみ海道にも遠くなってしまう。よって今日はあまり無理をせず、高松から約100キロ地点の愛媛県西条市に宿をとることに決めた(それでも100キロ……)。ネットで最安値を検索すると、なんと2,900円シングルルームを発見。その名も西条セントラルホテル。部屋の写真や口コミを確認する。問題なし。
純白のシーツ、柔らかなベッド。誰のいびきも聞こえない静かな夜、鍵付きの個室。世界平和はきっとそういうところから生まれるのだろう。さっそくクレジットカードで料金を払い部屋を確保。そして漕ぎ出す。
綾川町は湖とダムの街。
坂出市は隠れSATYの街。
丸亀市付近で12時を迎え、いよいよ香川のうどんをいただこうとソワソワしはじめる。外観がポップすぎず、歴史に裏打ちされたような由緒正しいうどん屋を探すがなかなかどの店にするか決められない。いくつもの店を通過。こういうときにネットの力もなるべく借りたくない。私はGoogleの操り人形ではない。そうこうしている間に、丸亀市を出てしまった。善通寺市に入る。
ここらで決めよう。思えばいつも一人旅ばかりしているが、いつまでたってもひとりで飲食店に入るのに気後れしてしまい、慣れるということがない。
バンコクの屋台で、台北の夜市で、イスタンブールのチャイハネで、フィレンツェのトラットリーアで、いつも私はグズグズと尻込みしてから決死の思いで入店したものだ。基本的には気が弱いのである。店の人や客に変な風に見られたくない。今回も、香川のうどん店には色々と守るべきルールや独自のシステムが存在することを聞きつけ。戦々恐々としていた。セルフの店での麺の茹で方。つゆはどのくらいかければいいのか。そもそも「かけ」うどんってなんだ。
気が弱いのを矯正するのはとうにあきらめたが、そのかわり、注意深く店の様子を観察して店員にもズケズケと質問する能力が発達してきた。気負いを感じながらも、である。人間とはかくもアンビバレントな存在なんだ。恥ずかしいなあ、と思いながら恥ずかしいことをする。自覚が備わっている分、それが目的に対するより純度の高い行為になる。小さなことでも、そういう行為をたくさん集めていきたい。稀代のシャイ旅行者は今日もゆく。
田んぼの中にぽつんと出現、店の壁面の力強い「山下うどん」の字に意を決して入店。
広い店内に家族連れや若者グループなど、客の入りは上々である。
まずは左から順にお盆を取り、コップに水を入れ注文口へ。元気よく働くおばちゃんに「かけうどんひとつ!」と注文、こちらでうどんを茹でる必要はなく、出来上がりをもらい受け、天ぷらコーナーで好きなものを取り、最後に薬味を入れて終了。大変わかりやすい。
カウンター席に座りマスクから自身を解放、目の前の壁に貼ってある著名人のサイン色紙や写真を眺めながらうどんを喰らう。すずきふく、小田和正、AI……。ちなみに私は麺類を食べるときにズルズルと音をさせるのが好きではないので箸でだんだん口の中に押し込む感じ。弾力が強めで嚙み心地が良い。そして醤油風味のつゆが絶妙にうまい。これは名店である。この店にしてよかった。
ものの10分ほどで平らげ、「お食事がお済みの方は速やかに退店してください」という貼り紙の通りにそそくさと店を出た。
この旅に出て以来はじめてのマトモな食事に、胃袋のよろこびもひとしお。気合を入れて国道11号線を西へ西へ。片側1車線ながら路側帯のスペースが広く、自転車にとってはありがたい。
と、モダンな民家のシャッターに見覚えのある肖像が。
おお、hide!
黒字に白い塗料でなかなか上手に描かれている。ここの住人が大ファンなんだろう。待ってるだけの昨日にアディオス。自転車を漕ぐ脚にがぜん力が入る。同時になぜか少し涙ぐんだ。やれやれ、おれもいつの間にか年をとってしまったようだ。
市街を貫いていた11号線が海沿いに流れると、大きな工場が立ち並びはじめた。中でも「エリエール」の文字が何度も目に入る。いつも大変お世話になっております。
ここは四国中央市。なんだか機能的で無骨な名が表す通り、「工業」とか「資源」とかいう言葉が似合いそうな市である。工業地帯をすぎると、見事な砂浜がどこまでも広がるビーチに出た。その名も寒川豊岡ふれあいビーチ。さては、ここの人たちネーミングセンスあんまりねえな。西条市まではあと30キロほどなのでここで海とふれあうことにする。
私が砂浜に寝転んでいると、近くに白人男性とその子供たちがやってきた。男性が男の子と話しているのは、私には耳なじみのない言語。ラテン語系でも、ゲルマン系でもない。もしかしたらヘブライ語か? と、父親の肩に乗っている女の子は「パパ―! さかながいっぱい飛んでる!」と日本語。「おお、本当だねえ」
うすうす気づきはじめていたが、もしかしたら瀬戸内海を眺めながら暮らすのはかなり生活の質を向上するのではなかろうか。彼ら家族もそれで都会から移住してきた。もともとはトーキョーでビッグなプロジェクトにエンゲージしていたが、クオリティオブライフを求めて……。
気づけば午後3時。夕暮れ前到着を目指し砂浜を後にしてラストスパート。最後の最後で峠が出現、昨日とは違いなんとか一度も自転車から降りることなく上り切った。滝のような汗、そして下る、下る。下るために上るのか? 上るために下るのか? 下っているこの瞬間、ブレーキから手を離しておそらく時速35キロ以上は出ている。こぼれる笑み。
夕方6時ごろ、西条セントラルホテルに到着。受付でカギをもらいチェックイン。「エレベーターはありません」「はい」「オートロックではなくご自分でカギをかけてください」「はい」
まあ、この値段ならまったく問題ない。あてがわれた3階の一室に入る。可もなく不可もない、いたって普通の部屋。ベッドもきちんと整えられており、洗面所に入れば清潔なタオルが3枚用意されている。というか、個室ってことは、もういきなり裸になってもいい。冷房をガンガンかけてもいい。これが、2,900円分の自由か! 部屋の案内を見ると、どうやら50円で洗濯機も使えるらしい。干すのは屋上。ううむ。なんだか外観の煤けっぷりも相まって、東南アジアの安宿にいるかのよう。愉快愉快。
シャワーを浴びて洗濯物を干し、沈みゆく夕日の中、西条市街を散策する。
小規模な飲み屋横丁を発見するも、緊急事態宣言発令中のためどこも空いていない様子。食堂やラーメン屋などに行くしかなさそうだ。JR伊予西条駅周辺をブラブラしているうちに夜7時を過ぎてあたりは真っ暗。早くしないと空いている店も閉まってしまうだろう。
かめや西条うどんというおばあさんがひとりでやっている店にはいり、「釜玉バターうどん」なるものを注文。これがかなり美味だった。大盛り600円。ハードボイルドな私はおばちゃんと雑談することなく「おいしかったです」とだけ言って店を出た。
コンビニでポンジュースとみかんの酒を買って早々にホテルへ引きこもった。
明日はこの旅唯一の目的、しまなみ海道を抜け尾道へ。自転車で海を、空を渡る。
……酔っぱらって早々に寝たので深夜に目が覚めた。駐輪場に降りて、愛車フジ子の汚れを丁寧に丁寧に拭き取った。ああ尻が痛い。肉を切らせて骨もバラバラ。
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