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安来・毘賣崎伝承の地巡りの解説

今回は、先日アップした出雲風土記・毘賣崎伝承地を巡りの解説をしたいと思います。
動画はこちらからどうぞ! ↓↓↓↓↓

このときのルートマップです。

安来巡りのルートマップ

安来駅ー毘売塚ー毘売の像ー十神山駐車場ー猪麻呂の像ー安来市役所ー社日公園ー安来神社ー安来港
動画ではこの順番に巡って行きました。


出雲風土記・安来郷

・地名について
風土記には先ずは、安来(やすぎ)の地名の由来が書かれています。

神須佐乃袁命(かんすさのおのみこと)が、国土のはてまでめぐりなさった。そのとき、ここに来なさっておっしゃられたことには、
「わたしの御心は安平(やす)けくなりましぬ。」
とおっしゃられた。だから、安来という。

出雲風土記より
昔の安来の地形をイメージしたもの

その昔、安来駅周辺(図赤丸内)はまだ海でした。
十神(とかみ)山も入海(中海)で陸地とは隔たれており、砥神(とかみ)島と呼ばれていました。
素戔嗚尊が砥神島に船で辿り着かれて言われた言葉が、

「わたしの御心は安平(やす)けくなりましぬ。」

出雲風土記より

と、出雲風土記には説明されています。

この地名由来説には、別由来があるのでは無いかとも言われています。
郷土史家の松本興氏は、著書で「安平け来くなりましぬ」で安来なら、発音は『やすぎ』とはならず『やすき』となるのが自然で、元々安来の港には、目印として八本の杉が植えられており、そこから『八杉』⇒『やすぎ』と呼ばれていた。しかし、風土記に記載されることになったので、より縁起の
良い由来にするために素戔嗚尊の言葉からとなって、発音だけは今まで通りとなったのではないか。と、仰られています。

<残念ながら目印と言われている八本の杉の痕跡は無く、どの辺りにあったのかも分かりません。>


・砥神島(十神山)について

素戔嗚尊が辿り着かれた砥神島は古くから聖地とされ、戦国時代に毛利と尼子の合戦で社殿が焼失するまでは、砥神島にある古墳の上に社殿が建っていたとされています。

十神山の全景
十神山の社殿があったと思われるところ
石棺の上に置かれた石の祠

十神山は昭和の中頃まで、出雲が神在り月になるときに、神々が立ち寄られる場所として、立ち入り禁止され、周辺でも騒いだりしてはいけないと言い伝えられていました。
また、十神の昔話として、神在り月に立ち入ったものに天罰が下るお話もありました。

十神と言う地名には、神々の戦の際に十柱の神々が集った場所とか、古代の祝詞「とおかみえみため」から来ているとも言われていますが、正確には伝わっていません。

十神山の焼失した社殿は、その後、村上神社⇒八幡宮へと移り変わり、江戸時代に現在の地に社殿が建てられ、素戔嗚尊と稲田姫命、誓約の際に生まれた五男三女神の十柱の神様をお祀りされています。

村上神社跡
八幡宮跡(現・忠魂碑)


・安来郷のあった場所

現在の安来市の中心部は、安来駅から西の方角へ行ったところに市役所があったりスーパーがあったりしますが、風土記の時代には逆に安来駅の東の方にある、安来ゴルフクラブや和田団地がある辺りが安来の中心地だったと考えられています。

現在の安来駅東側(赤丸内が安来郷の中心と思われる)

実際に安来ゴルフクラブの裏側にある山の斜面からは横穴墳墓群が出てきて、中には鉄剣も出土していました。
(残念ながら横穴墳墓群は造成のために無くなっています)
横穴墳墓に入る人の身分はそんなに高く無いはずなのに、高級品であるはずの鉄剣が一緒に出てきているのには驚きです。


・毘賣崎伝承

この郷の北海(きたうみ)に比売埼(ひめさき)がある。
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみやに)御宇天皇(あめのしたしらしめししすめらみこと)【天武天皇】の御世、甲戌【六七四】年七月十三日、語臣猪麻呂(かたりのおみいまろ)の娘がこの埼を散歩していて、たまたま和邇に出遭い、殺されて帰らなかった。
父の猪麻呂は、殺された娘を浜のほとりに埋葬し、たいそう悲しみ怒って、天に叫び、地に踊り悶え、歩いてはむせび泣き、すわりこんでは嘆き悲しみ、昼も夜も悩み苦しんで埋葬した場所を去らないでいた。
そうする間に数日を経た。そうしてついに憤激の心を奮い起こし、矢を研ぎ鉾を鋭くし、しかるべき場所を選んで座った。
猪麻呂は神々を拝み訴えて言った。
「天つ神千五百万、地祇(くにつかみ)千五百万、それにこの国に鎮座なさる三百九十九の神社よ、また海神(わだつみ)たちよ。大神の和魂(にぎみたま)は静まり、荒魂(あらみたま)は皆ことごとく、猪麻呂の願うところにお依りください。まことに神霊がいらっしゃるのなら、わたしに和爾(わに)を殺させてください。それによって神霊が神であることを知りましょう。」と言った。
そのときしばらくして、和爾が百匹あまり、静かに一匹の和爾をとり囲んで、ゆったりと連れ立ち近寄ってきて、猪麻呂の居場所の下につき従い、進みも退きもせず、ただ囲んでいるだけであった。
猪麻呂は鉾をあげて真ん中の一匹の和爾を刺し殺して捕らえた。
それが終わると、百匹余りの和爾はちりぢりに去っていった。
猪麻呂は、殺した和爾を斬り裂くと、娘の脛(はぎ)一切れを切り出した。
そこで和爾を斬り裂いて串ざしにし、路傍に立てた。
[猪麻呂は、安来郷の人、語臣与(あたう)の父である。その時から以降、今日まで六十年たつ。]

出雲風土記より

これが毘賣崎伝承と云われる物語です。

語臣猪麻呂の像
猪麻呂の毘売の像

注目ポイントがいくつかありますが、1番目のポイントは年号です。
御宇天皇(あめのしたしらしめししすめらみこと)【天武天皇】の御世、甲戌【六七四】年七月十三日。
このように674年7月13日と明記してあります。
出雲風土記は713年の制令によって作り始め、733年に完成します。
674年は完成の丁度60年前ですね。
しっかり日付まで記されているのはかなり珍しく、それが妙なリアリティをもたらしています。

2番目のポイントは、「語臣」と言う役柄です。
この時代の安来郷は、意宇郡に属す一つ郷です。
その郷長も兼任している猪麻呂は、官職として語臣も兼務しています。
語臣は中央で祝詞を奏上したりすることもあった官職です。
つまり、神官的な儀式も出来る郷長であったと思われるのです。


・事件の起きた場所を考える

この郷の北海(きたうみ)に比売埼(ひめさき)がある。

出雲風土記より

これは、現在の毘売塚の下辺りが姫崎町となっているので、駅周辺から毘売塚までの場所と推測されます。

現在の地形
昔の地形(想像)

赤のポイントが毘売塚となる。
毘売塚の下には浜が広がっていたと思われ、毘賣はそこで和爾に襲われた。
猪麻呂は毘売塚に東側の湾になっているところで祈祷していたと思われる。
獲った和爾の腹を裂いたので、腸(はらわた)が出た⇒わたはら⇒和田原と言う地名になった。と、言う言い伝えもある。
また、和爾を切り刻んで、鉾に刺して路傍に立てた。やがてその肉が弓なりになり、月のようになった。

社日公園にある桙のオブジェ

●伝承から神事へ

出雲風土記完成から45年後。

和田地区の辺りに、京都加茂社の神領地管理者として藤原可寿麿が往来し治めていた。藤原可寿麿には高定、元重、実重、高経の子供がいたが、藤原可寿麿は丹波の国へ転任されてしまう。その際、土地造成で田畑が広大になっていたので、この地を元重、実重に任せ、可寿麿は高定、高経を連れていった。藤原可寿麿が去った後、元重と実重は土着して豪農となる。
宝亀9年(778)秋 
藤原元重、実重の兄弟は安来郷の貢物と青銅一千貫を馬に載せて京に運び、賀茂神社の分霊を懇願した。
神祇官・和気備後魚名(清麻呂の第四子)の時代で、ご神体二体を授かり帰郷した。
ご神体は、和田に仮宮を建てて祭禮を行っていた。
50年後八幡町西端の河合大明神として祭祀されるようになった。
南北朝時代に戦火によって河合神社が消失されたので、一か所でお祀りすることに不安を覚え、現在のように佐久保町に糺神社、切川町に加茂神社としてお祀りするようになった。
古来、比毘売塚の見える浜垣で、猪麻呂が和爾を退治した四日間因んで、四日四晩の間、歌舞音曲で比売を慰め、直会をしてかがり火を焚いて偲んだ。
これが、元禄年間から祭主が神宮寺別当の乗相院住職となり、庶民の祭へと変化していき、八月十四日から十七日に行われるようになり、婦女子の願掛け、願ほどきのお供に半月型の紙提灯を掲げたので、月の輪神事・月の輪祭と呼ぶようになった。

松本興 著  安来ふるさと紀行より 

・月の輪神事
現在の月の輪神事は、8月14日から17日の4日間。
毎晩19:30から安来市民体育館を出発して市内を練り歩きながら、23:00頃に安来港へと行き、そこでお囃子をして各町内へと帰って行きます。


安来市民体育館前に集まる4つの山車

元々は和田地区で仮宮という形で祭祀されていたものが、河合神社にて祭祀されるようになります。
河合神社は南北朝時代に争いごとによって焼き払われてしまいます。
その後、加茂・糺の両神社に分かれて今に至っていますが、現在、お祭りのスタート地点となっている安来市立体育館の前辺りに河合神社があったとされています。

月の輪祭り・山車の移動ルート

山車は一列になって市内を移動し、所々で四十連と云われる全員で一斉にお囃子を演奏する箇所があります。
山車は「エーンヤ、エーンヤ、デゴデットーヤ」
(みんな、みんな、出てきて手伝ってくれ。と、言う意味)の掛け声でお囃子にのせて、体育館から十神山の見える港まで曳いていきます。

昼間にゴール地点から見た十神山
安来港にある祠
ゴール地点で集まる山車

月の輪神事はこの工程を4日毎晩行います。
掛け声の「エーンヤ、エーンヤ、デゴデットーヤ」の後に、
初日は「最初の晩だ!」
二日目は「名残の前の前」
三日目は「名残の前だ」
四日目は「名残の晩だ」が付きます。

四町内が一斉にお囃子をする四十連は、大市場交差点、新町交差点、安来港で行われます。
お囃子は一定のリズムのところと、アップテンポの乱拍子があります。
アップテンポの乱拍子は、すべての楽器の掛け合いが大事になります。特に大太鼓と小太鼓を打ち鳴らす二人の奏者の息が合わないと、ちょっと残念な感じになります。
お囃子部隊の腕の見せ所でもありますので、息の合った乱拍子の後には自然と拍手が出ます。

町中を移動中の山車

今回紹介した毘賣崎伝承ルートは、十神山登山を抜きに考えて、
早歩きくらいで1時間程度。
ゆっくり歩きで2時間程度で回れます。
駅前でランチをしても+1時間程度です。
<十神山登山は駐車場から往復で40分程度掛かります。>
安来駅でも市役所起点でもぐるりと回れます。

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