とにかく自分がやりきる | 河野涼
「やることになったので」
淡々とでも飄々とでもなく、迷いのないその一言から、まっすぐに彼が道を選んできたことがわかった。
初期衝動、経験、出会い。これまでの活動を通して紐解かれていく彼の物語はすべてが “今” につながっているという納得感。
彼がなぜ彼でいられるのか。
それも改めてもっと深く聞いてみたくなるのは、本当はもっと前から、時間の問題だと思っていたったのかもしれない。だから今この部屋で、話をしたくなったことは必然だったと思う。
そんな夏のある日に、彼は部屋を訪れた。
河野涼
creative production ″hyogen″ Founder 。『JAPAN MADE』編集長。
全国約200箇所以上の産地に行って、日本のモノづくり・工芸を中心にカメラマン、アートディレクターとして、多岐にわたる活動を行っている。
河野涼さん、ようこそ
河野 涼(以下、河野):河野 涼です。『hyogen』というクリエイティブプロダクションでアートディレクターとカメラマンをやっていて、『JAPAN MADE』という日本の伝統工芸などを伝えるメディアで編集長をやっています。よろしくお願いします。
── これまでも機会はあったけど、今日は改めて話を聞いてみたいなと思ってお誘いをしました。
出会ったころは、『JAPAN MADE』の編集長として出会っていて、メディアを立ち上げるまでのこととかは知らなかったので、どんなところからキャリアが始まっているのかというところも改めて聞いてみたいです。
河野:キャリアで言うと、2014年に『オプト』っていう広告代理店に入って、4ヶ月半で異動届を出して。
── え…!最初はどんな職種だったんですか?
河野:最初はリスティング広告の運用がメイン。
── 業務内容はどんなことを?
河野:例えば、クライアントがスーツの会社だったんだけど「スーツ」とか、どんなキーワードを設定すれば検索したときに上に出てくるかみたいな。
各会社が、キーワードに対して入札をかけているから、そのキーワードが検索された時に上位に表示されるようにクリック単価を調節してコストの効率をよくするんだよね。
そこから購入に至ったひと、いくら売上が立ったのかとか数値が出るから管理をしていた。
── 大学時代は、カメラとかもう始めていた?
河野:まったくやっていなかったね。いわゆる“THE 大学生”というかんじ。
ゼミ、サークル、バイトみたいな。お酒も飲んだし、ずっと好きだったフットサルもしたし。
── そのまま『オプト』に入ったと。
河野:そうだね。
会社員としてはじまったキャリア
── それまではある意味、表現者とかクリエイターみたいな感じではなかった?
河野:なかったね。どちらかと言えばビジネスマンとして生きていこうとしていたから。
でも会社に入る前、特に学生の頃は、器用貧乏なことがコンプレックスで“社会人”とか“仕事”っていうフィールドしか自分には残されていないと思っていたんだよね。
だから仕事では何かを極めたスペシャリストになりたいなと思っていた。
新しい業界だったら極めているひとが少ないから自分が先駆者になれるんじゃないかと思って、インターネット広告の業界に入った。
当時はO2O(Online to Offline)という広告手法が流行っていたから、それを学校の卒論で書いた。それを会社にも提出して、そのタイミングで会社の中でも関連の部署が立ち上がるという話があって、インターンにも参加した。
研修では毎日テストがあって、結果は全体で2位だった。ここまでの結果だったらその部署にいけると思うじゃん?
── インターンも経験しているし、卒論も提出しているし。なのに行けなかったってこと!?
河野:人事のひと曰く、王道を極めたひとのほうが社内では活躍をしているひとが多いから、まずは王道を極めてほしいと言われて、その部署に配属をされた。
だけど、本当にやりたいこととか、思っていたのと違ったっていうのもあって4ヶ月くらいで異動届を出した。
── 異動届ってそういうふうに出せる雰囲気は会社の中であったんですか?
河野:当時はジョブポスティング(社内公募)制度があって、特定の部署とか、新会社の立ち上げとか、募集がたくさん出て。
そこに「1年目はダメ」って書いてなかったから応募をした。
── 無事に通った?
河野:うん。1年目では異例の異動っていうことになったね。
家族との電話で号泣
── そのままそこに異動を?
河野:いや、それとはまた別で子会社が立ち上がるというタイミングでもあったんだよね。
コンテンツマーケティングの会社だったんだけど、新しい手法とかメディア側の手法について関わることがができたから、そっちの子会社に入らせてもらうことになった。
── その場所ではどんなことを?
河野:最初はどんなことでもやるっていうかんじ。営業とか。
記事広告とか、キュレーションメディアが流行している時期だったっていうこともあって。
メディアに対しても広告のクライアントに対してもどちらにも営業をしていたといたという時期だったね。
── その後はどんな風に?
河野:その後、仕事でめちゃくちゃ病んだ時期があった。運用型の広告に関わっていたから決まった予算が使い切れるかとか、逆に使いすぎないかとか。
その運用の担当者は休みの日でも数字が動くし、気が休まらないのがしんどくて、日曜日の夜が本当に憂鬱だった。
映画が好きだから、日曜日の夜とかに映画を観るんだけど、映画の内容にもすごく気分が落ちてしまう時期があって。
── その会社的には数字は伸びているような状況だった?
河野:忙しいこともあったし、伸びいていたことは伸びていた。だけど掲げられている数字に対する目標もあるし、いろいろな数値に対する管理もあるし。
そういうことに追われている父親から電話がかかってきて、別の用事だったんだけど、何気ない日常の話をした時にめちゃくちゃ泣いてしまって。それがたしか日曜日の夜とか。
仕事に忙殺されて、本当に大切な人との時間を疎かにしていたなと思って。
お母さんにも連絡してまた泣いてしまうみたいな。
これは自分としても健康な状態ではないな…って考えるきっかけになった。
その時、社長や上司に全部それを話すことができて、それを聞いてくれたし、自分から話せる環境だったのは本当に良かった。
それをきっかけに、業務量を相談したり「本当にやりたいこと」について話すことができる機会になったんだよね。
それまでやっていた営業の業務量を調整して、その一方で会社の事業でメディアをいくつか作っていたんだよね。商材として売るためには自分たちで運営して、仕組みについて理解を深める必要があるっていうタイミングだった。
それでやっていたメディアのひとつに登山とかアウトドアの『.HYAKKEI』っていうメディアを先輩がやっていて、そのアシスタントとして業務を体験させてもらっていた。
── そこからメディア作り的なことが始まっていた?
河野:業務内容としてはこれまでのものと半々くらいになってた。
登山とかのメディアだからロケ撮影も多くて。だけどこれまで広告を売っていた業務内容からすると、車でロケに行って撮影したり取材したり。「これ仕事なのか?」みたいなギャップもあって。
取材の移動中は上司と2人だから、いろいろな話もできて「やりたいことをやったらいいじゃん。みんなそう言えばいいのに」とか。
── その上司は登山とかアウトドアが好きだった?
河野:好きだし、需要もあるしそういうメディアを立ち上げたって感じ。
── 自分自身は元々アウトドアが好きだったとかそういうわけではない?
河野:そうだね。たまたまそのメディアの業務を体験させてもらっていた。
登山とかキャンプを好きになろうともしたんだけど、すぐにハマるような感じではなかった。
でも仕事としては楽しくやっていたし、広告の案件でアウトドアでプロジェクターを使って映像を観るみたいな企画とかは楽しかった。
その後、業務がメディア100%になるタイミングがあったんだよね。
新しいメディアを立ち上げるっていう話になって、それを担当しないかと話が進んだ。
ジャンルではなく『行為』で考える
河野:その時、そもそもまず「何をやろう?」ってなった時に、自分の好きなことって何だろうって考える機会があった。
転職を考えるタイミングもあったし、それこそ病んじゃったみたいなこともあったし「今の自分がベストな状態なのか?」ということも含めていろいろ考えていたんだ。
── 転職か、新しいメディアを自分でやるか迷うような。
河野:自分は本当に何がやりたいんだろうっていうことをとにかく考えた。
── 考えてる期間はどういう風に過ごした?
河野:自己分析をしたね。いろいろな人に相談したり、転職コンサルタントに会ってみたり。
── それが入社何年目くらい?
河野:2、3年目くらいかな。だから社会人になってからすぐの期間がめちゃくちゃ濃厚だった。
それで「好きなことって何だろう?」って考えた時に「続けられていること」だと思った。
続けられていることを考えた時に、サッカーとか音楽とか服とか、いろいろあったけど仕事にするっていうイメージじゃなかった。
だからジャンルで考えるっていうより“行為”で考えてみようと思った。
何かの“背景を知る”っていうことがすごく好きで。意味とか、生い立ちを知るみたいな。芸人さんとかミュージシャンの方でも、背景をすごい調べちゃうんだよね。食事とかでも、背景を知ったうえで食べるとまた味も違って感じるようになるし。
そういう『背景を伝えられる』っていうことができたらおもしろいんじゃないかと思った。まず自分が知れると面白いし。
── ジャンルというよりは行為で、作り手の背景を知るような。
河野:でも当初の時点では“作り手”とは言っていなくて、『背景を知る・伝える』みたいな方法と、好きなジャンルが掛け合わさると良いと思った。
文化的な部分、音楽とかファッションとか、それこそ下町文化とか。東京ってそういう要素が凝縮されている場所だと思っていて。海外から日本に来る方も増えている時期でインバウンド需要があったし、海外の方にも届けられるようなことをしたいと思った。
── オリンピックが決まっているタイミングでもあったし。
河野:それで東京に特化したメディアを提案したんだよね。東京にあるいろんなカルチャーにまつわる方が、どんな思いで活動しているかっていうことを伝えるような。
「正直者が馬鹿を見る世界をなくしたい」
河野:東京って実は4割が森林で、場所によっては8割くらいが森林っていうエリアもあって、そこでは林業のベンチャーをやっている方がいたり。一方では渋谷でITスタートアップ企業があったりクラブがあったり。それぞれの場所で働いている方がどんな思いで活動をしているのかを伝えるメディアを提案したんだよね。
会社だから、お金を儲けないといけないっていう側面も当然あって、その内容ではスポンサーだったりとかを見つけるのが難しい、ということになって。“背景を知る”っていう部分で膨らませて会社と一緒に考えた。
メディアって記事を丁寧に作って、カメラマンさんをアサインして作り込むと、1つの記事にすごくお金がかかるんだけど、かけたお金の分だけ何か儲かるわけではない部分もある。
一方で、ソースも曖昧な情報を載せてSEOをハックして広告をたくさん掲載しているメディアが儲かるみたいな構図も存在していた。
社長が「正直者が馬鹿を見る世界をなくしたい」っていう方だったから、「それって正当に努力しているひとが報われないよね」という感覚があったんだよね。
当時はメディアに対してPV(ページを見られた回数)以外で、たとえば記事の全体を読んでもらえている割合とかを計測するツールが無かったんだけど、そういう記事の質を測れるようなツールを会社で作っていた。
そうすればメディアもPV数じゃなくて質で、良い記事だから読まれているっていうような質で勝負ができるから、正直者が報われるっていうのが会社としてのミッションだった。
── なるほど。
河野:会社のミッションと照らし合わせて「背景を伝える」っていうことができたら良いんじゃないかという話で案をあげていった中にあったのが、『日本のモノづくり』だった。
大量生産大量消費に埋もれて本当に良いものを作っている方が日の目を見なくて、利便性だけが重視されるような中で、もっと伝統工芸とか日本のモノづくりをしている方に光があたって前に出ていけるような社会にしたいっていう経緯から「これだ!」となったんだよね。
── その提案は通った?
河野:「いこう」という感じで。
── その時はマネタイズみたいな部分も含めた提案を?
河野:そうだね。海外向けに、インバウンド需要に向けていこうと。
── フィードバックから儲かる市場を探したというよりは、会社のミッションから紐解いていっている感じ。
河野:“やりたいこと重視”ってかんじだね。
当時、TwitterとかInstagramとか、プラットフォーム毎に最適なコンテンツを流していく分散型メディアっていうのがすごく流行っていて、「それの伝統工芸版を作ろう」っていうことになって。
映像だったら言葉がなくても伝わるし、短尺の動画をSNSごとに上げて需要をとっていこうっていう形態のメディアにしようということになった。だから記事メディアじゃなくて動画メディア。
── なるほど。そこまでいったら、「じゃあどう進めるか」っていう話になりますよね。
すべて初めて、すべて自分で
河野:まず、事業責任者をさせてもらえないなら会社を辞めますって言った。覚悟も含めて。
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